王女は兄嫁との会話に苦慮する
第三王子オクセインの屋敷、応接室
部屋の隅に立つ侍女は全身に緊張をみなぎらせており、どう見ても新しく入ったばかりのようだった。彼女がどうにかこぼさずに入れ終えてくれた紅茶をゆっくりとすすりながら、ミラは日を改めて出直すべきか思案した。
思い立って突然訪問したというわけではなかった。日時は兄から指定されたものであったし、今朝にも使者を送っておおよその到着時刻は伝えておいた。その上で伝えた時刻よりやや遅めに着くよう、馬車の速度を調整してやって来たのだ。
ところが、屋敷に到着してみれば兄オクセインは商館での揉め事のために呼び出され不在であった。謝罪の言葉とともに用件が済んだらすぐに戻るので良ければ待っていてくれと伝言が残されていたため、ミラはこうして待つことに決めたのだが、その決断を早くも後悔し始めている。
「王女殿下、お待たせいたしまして誠に申し訳ございません。間もなく奥方様が参られます」
やはり帰ることにしようとほぼ立ち上がりかけていたミラは年配の侍女の声に焦って居住まいを正した。聞き間違いではないだろうかという疑念を払えぬまま、一語一語区切るように尋ねる。
「マリサ様が、今から、ここへ?」
「はい。ご主人様がお留守にしておられる以上、ご自分がお相手せねばと思い込まれでもなさったのでございましょうか……」
年配の侍女も困惑しているようだ。無理もない、オクセインの妻マリサが社交と名のつく物を徹底的に避けているのはもはやアストラフト王国の常識のようなものであったから。
辺境伯の三女として生まれたマリサとオクセインが結婚したのは一年半ほど前のことである。王都の社交界に出てくることもめったにない令嬢がどこでどうやってオクセインと知り合い、その心を射止めたのか。宮廷人の興味は尽きなかったのだが、それに輪をかけたのがマリサが結婚にあたってオクセインに出した条件である。それは『公式行事以外の社交の場に出ることは基本的にお断りします』というものだった。
不釣り合いと気後れしたマリサが破談にするためにあえて持ち出した条件ではと邪推する者もいたが、ミラとしてはマリサの言い分は理解できなくもなかった。なにしろ妹の目から見てもオクセインは完璧に近い美形だ。性格の難があろうと、せめては愛人になりたいと願う女性は少なくない。そして、マリサの外見は地味で素朴で、要するに絶世の美女とは程遠かった。
つまり、よろしくない言い方をすれば「あの方が妻ならば自分にもチャンスがある」と思い込んでしまう女性が後を絶たないのだ。それがとんでもない間違いだといずれ知ることになるのは確実だが、その途上で面倒なことが数多く起きるであろうこともまた確実である。それらにまともに対処しようとすれば、もともと人付き合いの苦手なマリサは疲弊し、オクセインとの結婚を後悔するはめになるかもしれない。
その危険性を事前に察知し、自分なりの予防策を講じたことはマリサの賢明さであるとミラは思う。アストラフトの貴族女性としては少々常識外れのやり方ではあるが、自身の個性を曲げまいとする頑固さこそがむしろ兄の心にかなったのだろう。
もちろん公式行事に関してはマリサは無難にこなしているし、オクセインとの結婚生活も順調のようである。社交好きなオクセインの母、妾妃レオノラが若干物足りない思いをしているという噂が流れている程度だ。レオノラは口は悪いがさっぱりとした性格だから、陰湿な嫁いびりに精を出したりしてはいないはずだった。
というわけで、公式行事の際に顔を合わせる以外ではマリサとの付き合いはほぼなかったミラであったが、彼女に対する印象は悪くない。いや、ある面においては尊敬の念すら抱いている。しかし、彼女と二人きりで世間話を楽しむことに対しては不安しかなかった。
ミラはカップに半分ほど残っていた紅茶を飲み干すと、できるだけ目立たぬ動作で大きく深呼吸した。そして、応接間の扉を見つめ、屋敷の女主人が姿を現す時をじっと待った。
「ペリファニア様、御無沙汰しております。わざわざお運びいただきましたのに、夫が急用で不在とは誠に申し訳ございません。夫が戻りますまで、私がお話し相手を務めたく存じます。至らぬ点は多々ございましょう、どうぞご遠慮なくご指摘くださいませ」
「マリサ様のお心遣い、有難く思います。どうか、お気楽になさってくださいな」
準備しておいたと思しき台詞をマリサが懸命に並べるのをミラは微笑みで受け止めることに成功した。
しかし、気楽に、とは言ったものの、状況をそれに近づけるのは難しそうだった。新入りの侍女はマリサの分の紅茶を用意するので精一杯。話し相手を務める、と言ったはずのマリサは紅茶に一口飲んだきり黙り込んでいる。年配の侍女は扉の傍で気がかりそうにこちらを眺めているだけだ。
「暑い日が続きますね。夏とはいえ」
「そうでございますね」
「晴れの日が続くのは良いことでしょうけれど、そろそろ雨が恋しくなってきたような気がしますわ」
「本当に」
まずい、とミラは思った。決して紅茶のことではない。新入りの侍女がぎこちない手つきで入れたわりにはなかなかの味だ。間を持たせるためにおかわりを頼んだところ、茶葉を別の種類のものに変えてくれたらしい。濃厚な花の香りのする紅茶はミラが初めて口にするものだった。
「これはオクセイン兄様が外国から取り寄せたものかしら?」
「らしいのですが……私はよく存じ上げませず……申し訳ございません」
やっぱりまずい、再びミラは思った。マリサとの会話が全く広がらない。トゥーラが相手ならヴィトス兄様の名前を出しただけで勝手にいくらでも喋り続けてくれるのに、と愚痴めいた思いがよぎった。
だが今さら帰るわけにはいかない。オクセインへの頼み事は緊急ではないが、できれば早いに越したことはないし、マリサがどういった心境の変化か社交的になろうと努力する気になったのだとしたら、初っ端でつまずかせる原因となるのも気が咎める。
「そうそう、あれはどうなったかしら?」
ミラは意を決した。マリサとの共通の話題として思いつくものは一つしかなかった。
「あれ、とは、何でございましょう?」
「テオフィルナ王女の首飾りよ。ベリザリ侯爵家から依頼されて、あなたが修復をすることになったと聞いたわ」
テオフィルナ王女の首飾りとはおよそ二百年前、王女がベリザリ家に降嫁する際に当時の国王から結婚祝いとして贈られた、ベリザリ家にとって家宝というべき品である。その家宝の宝石を取り外し、売り払おうとしたのがベリザリ侯爵家の次男セルジュ、ミラのかつての婚約者候補の一人だった。
「どうにか目途は付きましたが、時間がかかりそうでございます。セルジュ様も丁寧に取り外されたおつもりかもしれませんが、宝石には細かな傷が付いておりましたし、金具の一部が折れたりも……初めから私に依頼していただければ、細心の注意を払って作業いたしましたものを。まったく浅慮なことをなさいましたわ」
ミラの見込んだ通り、マリサは急に饒舌になる。宝飾品の細工に関して彼女は超一流の職人並みの技量の持ち主なのだ。趣味が高じてほぼ独学で技術を磨いたというのだから、天賦の才に恵まれていたとしか言いようがない。
「考えの深い人が、賭け事で莫大な借金を背負ったりはしないでしょうよ。それでも彼なりに考えたんじゃないかしら。普段使いの宝石じゃなくて宝物庫の奥にひっそりとしまわれている物ならば、発覚するにしても時間がかかると思ったんでしょうね」
「もし、そうだったとしたら……ますますセルジュ様のお考えの浅さに呆れるばかりですわ、もしペリファニア様とのご縁談があのまま進んでいたとしたら……」
マリサが眉をひそめるのは当然である。ミラとの婚約が正式に成立した後で家宝の宝石が売り払われていることが発覚したら、王家に対する二重の不敬とされ、ベリザリ侯爵家は問答無用で取りつぶされていたことだろう。
「ベリザリ侯爵家の資産状況からすれば、支払いに難渋する金額ではなかったでしょうに。セルジュ様はよほどご家族にご自身の失態を知られたくなかったのでしょうか」
「たぶん、そうなんでしょうよ。ベリザリ侯爵は厳格な人柄で有名だし、お兄様とは何かとそりが合わないらしいから」
ミラは突然の訪問でベリザリ侯爵家の執事を驚かせた時のことを思い出していた。案内を乞うこともなくセルジュの自室に乗り込んでいくと、巧妙に隠してあった首飾りと宝石を見つけ出した。そして何事が起ったのかと集まって来たベリザリ家の家族・使用人の前で、口調だけは静かに、言葉の中身は遠慮会釈なくセルジュを糾弾したのだった。
「人の上に立つ者には清濁併せ呑む度量が必要だといいます。ですから、いついかなる時にも清廉潔白であってくださいなどとは申しません。けれど、犯した過失の大きさを認められず、姑息な解決法を選ぶような方をどうして信用できましょうか。自らの手に余る問題に関しては進んで他者の助けを求め、最良の解決法を選択する、たとえ、自分の愚かさを笑われることになったとしても。私は未熟者ではありますが、常にその心がけだけは忘れぬようにと務めてまいりましたし、伴侶となる方にも同じ志をもっていただくことを望んでおります。残念ながらセルジュ様はそうした方ではなかったようですね」
うなだれるセルジュは無視して、ミラはベリザリ侯爵に向かって声を掛けた。「迷惑をかけました。不意にセルジュ様にどうしてもお会いしたくなったものですから。後のことはよろしくお願いします」
それだけでベリザリ侯爵には伝わったのだろう。セルジュの借金はすみやかに清算され、セルジュ自身は厳重な監視のもと母方の実家に預けられることになった。破談の理由はセルジュの賭博癖とされ、首飾りの件に関しては固く秘された。侯爵が首飾りの修復をマリサに頼んだのも、秘密を守ることが最大の要件だったからに違いない。
「ああ、もういいの。あの人のことは考えるだけで気分が悪くなるわ。ごめんなさいね、私から話を持ち出しておいて。ただ、あの首飾りがちゃんと元に戻るのかだけは知りたかったの。当時の超一流の職人が腕を振るった逸品ですもの、きちんと修復して後世に伝えるべきだと思うから」
やや乱暴な物言いでミラは強引に話を終わらせようとした。マリサが真相をどこまで知っているのか探ってみたかったが、それをすると自分の方がかえって話の粗を露呈してしまいそうな気がしてきたのだった。
「それはご安心ください。時間はかかるかもしれませんが、私一人で仕上げることができそうですわ」
マリサはまだ何か言いたそうではあったが、彼女が言葉を継ぐより先に廊下から話し声が響いて来た。どうやら屋敷の主人、第三王子オクセインが帰宅したようだ。




