隣国の王子は剣の舞を披露する
ヴィトスの屋敷、正門近く
アストラフトの第五王子エラトを乗せた馬車が第四王子ヴィトスの屋敷の前に着いたのは、夜もかなり更けた頃であった。左右が白黒に塗り分けられた道化めいた仮面を着けたエラトは受付係に向かって無造作に招待状を差し出し、大きなかがり火を目印に庭園へと歩き出す。と、いくらも歩みを進めないうちに、屋敷の主人であるヴィトスが彼の目の前に姿を現した。
「仮面を着けてなくていいんですか? 趣向を台無しにしたとトゥーラ様が悲しみますよ」
のん気な口調で指摘するエラトにヴィトスは「後で着ける」と低い声で答え、「裏道を案内する。急いでくれ」と続けた。
「遅れてこい、と言うからその通りにしたのに、到着した早々急げとは……よくわからないな」
エラトの呟きを意に介した様子も見せず、ヴィトスはすぐそばの植込みの隙間に分け入った。エラトもひょいと肩をすくめてから、おとなしく付いて行く。
植込みを抜けたところには小さな灯火に照らされた細い道が続いていた。人目をしのぶ恋人たちと鉢合わせすることがなければいいが、などとエラトは考えつつ、あたりを見回しながらゆっくりと歩いていく。
ヴィトスは脇目もふらず足早に進んでいたが、庭園の喧騒が微かに聞こえる所まで来てようやく歩みを止めた。やや遅れていたエラトが追いついてくるのを待って口を開く。
「軽く外堀を埋めるだけのつもりだったが、少々事情が変わった。お前にトゥーラと踊ってもらった方がいいかもしれない」
「踊れというなら喜んで。でも、僕が目立つとまたまずいことになるんじゃ……」
ヴィトスの妻トゥーラはアストラフトの貴族女性の中でも一、二を争うダンス巧者である。エラトが遠慮せずに全力を出し切って踊れるのは国内ではトゥーラともう一人、彼の母親がパートナーである時だけであろう。もっとも、トゥーラはヴィトス以外の男性とはめったに踊りたがらないし、自分自身の母親と踊りたがる年頃の息子は世界中探してもほぼ皆無に違いない。
「『虹の精霊の円舞』は無理か……楽隊の人数も少ないしな……」
「駄目ですね、そもそもあれは芝生の上では踊れませんよ。磨き上げられた床だからこそできる足さばきで、体重の移動がスムーズにいかなければ中盤の……」
踊りに関する講釈を始めようとするエラトをヴィトスは大げさな手ぶりで制した。「すみません」とエラトは軽く頭を下げる。
「だいたい、ヴィトス兄さんは何をそんなに心配してるんですか? ミラがマカーリオ殿と大喧嘩をやらかして、物凄く険悪な雰囲気になっているとでも?」
それならここから回れ右して帰ってしまおうかと半ば以上本気でエラトは考え、落ち着きなく後ろを振り返った。
「いや、逆だ。二人とも、まずまず打ち解けていい雰囲気になっていた。本格的なパーティーではなくこうした戯れ事めいた催しの方が、礼儀にとらわれ過ぎずに上手くいくだろうというトゥーラの意見は正しかったと安心していたんだが……」
「無礼講が過ぎて何か失礼なことをマカーリオ殿に仕掛ける輩でもいましたか?」
言いながらそれは無いだろうなあとエラトは自分で結論付ける。実務に有能な兄がそのあたりの手配に抜かりがあろうとは考えられなかった。思った通り、ヴィトスは首を横に振っている。
「お前は、ラディ北東部に古くから伝わる剣の舞というのを知っているか?」
「ルシエンヌの港でラディから流れてきたという踊り子に手ほどきを受けたことはありますね。独特の動きをつかむのが難しくてなかなか……あ、すみません、その剣舞がどうしました?」
「今からその舞をマカーリオ殿が披露される。ミラがぜひ見てみたいと所望したそうだから、仕方のないところだとは思うが……」
「ミラが、そんなことを……変だな……いや、でも構わないんじゃないですか。そんなに長い時間をとる踊りでもなかったはずですし……、まあ別に」
「しかしな、この段階であまり派手に注目を集めすぎるのもどうだろうか……異国の王子が我が物顔にふるまってと反感を買い、粗探しに走るような者が出てきても困る」
「ああ、そういうことですか。えっと、多分ヴィトス兄さんが心配しているようなことにはなりませんよ」
エラトがそう言ったところへ、哀切な響きを持つリュートの音色がとぎれとぎれに流れて来た。おそらく調弦のためのものであろう。
「とりあえず僕たちも見に行きましょう。そうすればわかります」
自信ありげなエラトの態度にヴィトスもつられたのだろうか、黙って頷いた。
二人が連れ立って芝生近くの人だかりに近づいていくと、それと気づいた人々がよく見える場所を彼らに譲った。芝生の上ではマカーリオが今まさに踊り始めようとするところだった。
マカーリオは剣の代わりに造花の一枝を手にしていた。青い小さな花を無数に咲かせた二の腕程の長さのそれを右手で掲げ、左手を軽く添える。癖のない銀髪と顔の上半分を隠す白い仮面のせいもあって、幻想的な光景であった。リュートの調べにのせて、彼はゆるりと花の枝を振り、足を運び、静止する。同様の型が淡々と繰り返された。
流れる曲も単調とも言えるほど静かなものである。マカーリオの動きも激しさを伴うことは決してない。閑雅な身のこなしに感嘆する者は少なくなかったが、若干の退屈さを感じている者も確実にいるようだ。
終盤に近づいたところで身を浮かせるようなふわりとした動きがあったのが唯一の見せ場だったろうか、その後、幾つかの強い音に合わせてマカーリオは鋭く枝を振り、舞を終えた。
元の位置に戻って一礼するマカーリオに対して贈られたのは、控えめな温かい拍手であった。
周囲から少し遅れて拍手を始めたのはミラである。マカーリオの舞に思わず見入っていたせいであろう。まさかうっかり居眠りをしていたわけではあるまい。マカーリオはミラの拍手に応えるように、彼女に向かって再び一礼し、その際に芝居がかった仕草で一瞬だけ仮面を外した。ミラの傍で見ていた令嬢たちが驚きまじりの歓声を上げ、それから興奮気味に囁き合っている。
「お前が言いたかったのはこういうことか……、剣の舞と言うからには、てっきり……これは私の勉強不足だったな」
「ええ、普通はもっと派手なのを想像しますよね、戦いの前に闘争心をあおるような。ラディのあれは元は神に捧げる巫女の舞だそうですから、そういうものとはまるで違っていて。剣の代わりに花を持ったのは、ちょうどよい重さ長さの剣が無かったのか……何か他の意味があったのかな。それに僕が知っているのとは少し振りも……あれ?」
エラトは急に何かを考え込む顔つきになった。その間、彼の手先足先は先刻のマカーリオの舞振りをなぞるかのように動いている。
「余程、感銘を受けたようだな。私にはああいう、芸術的に過ぎるものの良し悪しはわからないが、ミラとお前が見入る程だ。マカーリオ殿はきっと優れた踊り手なのだろう」
「……そう、ですね。さすがラディの王族というべきでしょう。僕が習い覚えたのは所詮真似事にすぎないな……でも……」
ぶつぶつと呟き続けるエラトの肩にヴィトスは手を置き、なだめるように言った。
「お前が悔しがるとは相当だな……、まあミラのためと思って認めてやれ。そうそう、後は好きに過ごしてくれて構わない。できれば、マカーリオ殿の素顔を目にしてのぼせ上がったかもしれない令嬢の何人かをダンスに誘って気を紛らせてくれればとは思うが……」
「そうですね、せっかくの仮面舞踏会ですから楽しませてもらいますよ。トゥーラ様とは踊らない方が良さそうですが」
エラトがそう言ったのを聞きつけたわけではないのだろうが、いつの間にかヴィトスの妻トゥーラが彼らの近くにやって来ていた。宝石をちりばめた華奢な仮面を通して不服そうな表情が透けて見える。
「あなた、こんなところにいらしたのね。ずいぶん探し回りましたのよ。あらあら、仮面も外してしまわれて……せっかく、私のドレスと対になるようなデザインの仮面を用意しましたのに……」
トゥーラに言われ、ヴィトスは慌てて手に持ったままでいた仮面を着けた。孔雀の羽を用いたきらびやかなそれを着けたヴィトスが横に並ぶと、光沢のある布地で出来たドレスを纏ったトゥーラの美貌はより一層華やぎを増すようだ。
「御用がお済でしたら一緒に来ていただいてかまいません? ご紹介したい者がおりますの。それに、一度ぐらいは私と踊っていただかなくては……」
だんだんと甘える口ぶりになるトゥーラの様子を見て、エラトはさりげなくその場を立ち去った。庭園では休憩を十分に終えた楽隊が再び陽気な音楽を奏で始めていた。
ヴィトス邸での仮面舞踏会の翌々日、エラトは「とりあえずルシエンヌに行く、他の港に回るかもしれないからしばらくは戻らない」とだけ言い残し、アージュの港から海に出た。いつものこととあって特に気に留める者もいなかったのだが、彼の母親である妾妃フィリナだけは「どこかの港に熱を上げている女性がいるのなら、身分違いだろうが気にせず、さっさと私に紹介してくれればいいのに」と、近しい友人に愚痴をこぼしていたのだった。




