「みんな男の子なんだよ?」
月曜日の朝はどうしてこうも気が重いのだろう。
今のところ学校生活に不満があるわけでもないが、インドアの性なのかアンニュイになる。休みが終わったという事実が大きいのだろう。野球中継もないし。
高校へ向かう電車に乗りながら、流れる風景をぼんやりと眺める。
ああ、鳥になってどこまでも飛んでいきたい。
「詩人みたいなことを言い出したわね」
言ってはいない。
トリカは車内をふわふわと漂っては、気になったものを観察していた。あれはつまり、透明人間みたいなものだから、いろいろできて楽しいだろうなと思う。
そんなふうにトリカを見ていると、不意に睨まれた。
「変態」
失礼な! その考えこそが変態だと言いたい。僕は何も不埒なことは考えていないのだ。
「じゃあ透明になったら何がしたいの?」
……。
「……あなたの名誉のために口には出さないでおいてあげる」
僕の思考を読んだトリカが蔑むような目で見てきた。勝手に思考を読んでドン引きする方が失礼ではないか。
「まっすぐに変態ならまだしも、ちょっと異常っていうか、普通じゃないわよね」
やめろや! それに異常でもないわ! 普通だ!
ここは無心になるほかあるまい。謂れのない罵倒を受けてしまうのは、僕の心に乱れがあったからだ。無になれ、無になれ。
目をつぶると、先程イメージした欲望がむくむくと湧き上がってくる。「それを考えるな!」は「それを考えろ!」と同義であると今理解した。
「……私でよければ穿いた姿を再現してもいいけど。その黒タイツっていうのを」
謎の気遣いをされて死にたくなった。これも全て月曜日のせいだ。
でも黒タイツは最高なんだ。
高校の最寄り駅に着き、ホームに降り立つと、見覚えのある顔を見かけた。
僕が認識しているチホ先輩の一人目の男、中野先輩だ。今日の彼は何か悲壮感に溢れており、今にも死にそうな顔をしていた。
「前と変わらないわね」
そうなんだけど、何か違う気がする。
まあ、元気に登校しているなら問題はないのだろう。
高校に到着し、下駄箱で靴を履き替えていると、チホ先輩の二人目の男、山本先輩の姿が目に入った。彼の顔もまた悲壮感に溢れていた。まさか月曜日だからというわけでもないだろう。
「あの女と交際した男は皆あんなふうになっちゃうのかしら」
やっぱりチホ先輩はサキュバスかもしれないな。その魔性から解放された途端に、日々の生活に潤いがなくなるのかもしれない。
「いやらしい」
可能性の話をしているのだ。霊が存在している以上、あらゆるものが存在する可能性があると僕は思っている。
妖怪についての伝承も、魔力を認識できる人間が過去に記録として残した物なら、架空の存在ではなく現実に存在していても不思議ではない。
「伝承をもとに生まれることもあるけどね。私の世界ではそういう例もあるわ」
煙から火が立つなんて怖い話だ。そのうち二次元美少女なんかも地上に現れるかもしれないな。
「元から幻想だと認識されているものは、そう現実には出てこないけどね。こんな科学が発展した世界ならなおさら」
この話をモロが聞いたら泣いて悲しみそう。
いずれにしても出会いたくないのものである。意思を持たない霊ですらストレスなのに、妖怪や人外の類は自我を持っていそうで怖い。トリカみたいに話がわかるならいいが、そうとも限らない。
「そのために私がいるんだから、大船に乗ったつもりでいなさい」
トリカが得意げに男らしいことを言った。かっこいい。
しかし魔力がすっかすかなのに頼りにしても大丈夫なのだろうか。
「この世界の魔物ははっきりいって雑魚だから、よほど強力なものが来ない限り今の私でも対処できるわ」
それなら大船に乗ったつもりでいようじゃないか。そのために魔力供給しているしな。
自分のクラスの教室に入り、友達と挨拶を交わす。よし、月曜日を乗り切ろう。
昼休み。
モロたちと一緒に昼飯を食べていると、クラスメイトの女子に声をかけられた。突然のことに警戒心もマックスである。
「守谷くんにお客さんだよ。しかも先輩」
「え、誰だろう」
「名前はわかんないけど、廊下にいるよ」
そう言われ廊下に目をやると、チホ先輩の三人目の男、ミツヒロ先輩がそこに居た。うわぁ、なんだろう。
「へいへい陽お前なにやったんだよ」
「何もやってないよ」
からかってくるモロを軽くいなし、嫌な予感をビンビンに感じながら廊下に出る。彼は僕の姿を認めると、早足で近寄ってきた。
「突然すまない。ちょっと相談したいことがあるんだ」
「なんです?」
「ここじゃちょっとまずいから、図書室に行こう」
「はぁ」
まだ昼飯の途中だが、ミツヒロ先輩の態度が切羽詰まっている感じがしたので黙ってついていくことにした。そもそも先輩なので、一年の僕は断りづらい。
「なにかしらね?」
トリカは興味津々の様子である。
僕と先輩の接点はチホ先輩を助けたこと以外はない。すなわちチホ先輩絡みだと思われる。色恋沙汰において僕が役に立てる場面は皆無といっても過言ではないのだが……。
図書室内は飲食禁止ということもあり、寂れていた。僕らはテーブルの隅っこを陣取り、向かい合って座った。
先輩が重い口調で切り出す。
「相談したいことっていうのは、チホのことなんだけど……」
やはり。
「土曜日にさ、海で会ったろ? あの後、恥ずかしい話なんだけど、ヤンキーたちに絡まれちゃって」
「マジすか」
まあ、見ていたけども。
「連中がチホを連れて行こうとしやがったから、抵抗したんだよ。でもボコられて、チホは連れてかれて……」
たしかにミツヒロ先輩の顔には細かい傷が見て取れる。喧嘩の跡だ。
こう話を聞くとかなりやばそうな感じがする。他人事、それもカップルのことなのであまり深刻には考えていないが。
「ふふ、薄情。それでこそアキラね」
まあな。
トリカへの返事はそこそこにミツヒロ先輩の話を聞くことにする。
「それで、川崎先輩はどうなっちゃったんですか?」
「その日の夜に帰ってきたよ。でも……」
「でも?」
「なんか辛そうな顔してた。本人はカラオケに付き合わされただけって言ってたけど、とてもそれだけとは思えないんだ」
「なるほど」
これはヤられちゃってますな。何とは言わないが。
ところで、僕を呼び出した理由は何なのだろう。ただ話を聞いて欲しいだけなんだろうか。
「その話を何故僕に?」
「チホが連中に呼び出されてるんだ。駅の近くに廃工場があるだろ? あそこに」
「はあ」
「当たり前だけどチホを行かせるわけにはいかない。でもチホは『絶対に行かなくちゃいけない』って泣きそうな顔で言うんだ。だから俺もついていくんだけど……守谷も一緒に来てくれないか」
「は?」
意味不明な申し出に不躾な声を出してしまった。
取り繕うように言葉を発する。
「いや、僕は何の戦力にもなりませんよ。雑魚です」
「そうじゃない。俺とチホに何かあったときに人を呼んで欲しいんだ。もっと言えば警察とか救急車とか、そういうの」
「え、えぇ、そんな派手な喧嘩をするつもりなんですか?」
「穏便に済むならそれに越したことはないよ。でもそんな相手じゃないだろ?」
そう語る先輩の目は覚悟を決めた男のそれだった。多分。
あんな浮気性の女のために戦おうというのだから、なんだか同情してしまう。同時に馬鹿だなと思ってしまう。
「あなたにはそういう女がいないものね」
トリカの指摘は真理だが、うるせえと心の中で反論しておく。
「川崎先輩はどうしてるんですか?」
「友達とご飯食ってるよ。飯時にこんな話したら可哀想だしな」
「はあ」
ミツヒロ先輩の優しさが窺えるが、僕の飯時でもあるんですよ。お分かり?
「ところで、その役目をどうして僕に? もっと見知った人に頼んだ方がいいんじゃ?」
「君の度胸を買ってるんだよ。前に中庭でチホがピンチのときに一番に来てくれただろ?」
それは二人目の男こと山本先輩が拳を振り上げるより先に、霊の黒いもやが見えたからだ。といってもしょうがない。
先輩は僕の度胸を買ってくれているらしいが、多分僕くらいの浅い関係の人間に頼む方が気楽だったのだろう。
死ぬほど面倒なことに巻き込まれたなーと思いながら、僕の口から出た言葉は承諾の返事だった。
「まあ、ついていくだけならいいですよ。遠くから見てるだけでいいんですよね」
「おお! 君の身に危険が及びそうになったら逃げてくれていいから」
ミツヒロ先輩は悪い人ではないだけに、どうか重傷を負わない程度に痛い目を見てほしいものだ。
「結局痛い目は見て欲しいのね……」
僕は非モテだからな。
放課後になると、先輩と待ち合わせている校門へ移動した。
すでに校門には覚悟完了した男と、悲劇のヒロインが待っていた。
「よし、守谷くんも来たな」
「ごめんね守谷くん。こんなことに付き合わせて」
「いえ」
チホ先輩は確かに憔悴しているようだった。いつもより声のトーンが低いし、スカートも長めである。顔色も悪いように見える。可哀想な気がしなくもない。
戦場に行く前にミツヒロ先輩に聞きたいことがあった。
「ところで、連中は安達先輩が来ることを知ってるんですか?」
「いや、知らないだろう。呼び出されたのはチホだから」
それならわかりやすく殴り込みということになりそうだ。
今度はチホ先輩に尋ねる。
「というか、ずっと気になってたんですけど、バックレちゃえばよくないですか? 住所とかバレちゃってるんですか?」
その質問に、チホ先輩は弱々しく首を振った。
「ダメなの。その、写真を撮られちゃって……」
「え? どんなどんな?」
「おいこら守谷ァ!」
「す、すみません!」
チホ先輩は両手で顔を覆ってしまい、ミツヒロ先輩がそれを慰めていた。
下世話な精神が前面に出てしまった。気をつけねば。
そう自省していると、トリカが眉をひそめていた。
「控えめに言って、今のはクズだと思うわ」
大胆に言うとジャーナリストかな?
冗談はさておき、弱みになる写真とは、すなわち恥ずかしい写真なのだろう。もうこれ完全にアウトだよね。普通に警察案件だと思う。
「ならどうして警察に任せないのかしら」
それこそ恥ずかしい写真だからだろう。こういうケースは泣き寝入りになるものも多いと聞く。今回もそのパターンだろう。警察が関わるとそれだけ事が大きくなるし、事実確認も詳細に行われる。その労力を考えると、我慢するか、自分らで解決する方が得策と考えても不思議ではない。
さて、面子も揃ったので廃工場に向かうようである。先輩二人が先を歩き、その後ろを僕がついていく。
ミツヒロ先輩はチホ先輩の手を握り、何か元気づけるように声をかけている。頼りがいのある彼氏だなーと感心した。
「あなたにはできない芸当ね」
トリカが嘲笑混じりにそんなことを言った。
しかしそれはわからないことである。僕にも彼女ができれば、あんなふうにしっかりするかもしれない。まあ、僕ならこんな状況にならないように努力するが。
「理不尽は脈絡なくやってくるのよ。今回は準備する時間があるだけまだマシといえるわ」
いきなりヤンキーにさらわれる可能性もある、と言いたいらしい。それはさすがに考慮のしようもない。外に出かけられないじゃないか。
「もし私がさらわれたら、アキラは助けに来てくれる?」
試すようなことをトリカは言う。
トリカがどうやって攫われるのだ、と言いたいばかりだが、真面目に考えてみる。
うーん……。
「いや、普通に助けるでしょ。当たり前じゃん」
「その割には結論を出すのに時間がかかったわね」
「まあ、二秒がトリカにとって長いって言うなら、それは仕方ない」
「あのね、二分はかかってたわよ」
思わず声に出して会話をしてしまった。周囲に人がいなかったのは幸いである。
しかし後ろを振り返ったとき、遠くに見覚えのあるシルエットが見えた。
トリカ、後ろの方に中野先輩がいないか?
「ええ、いるわね。こっちも覚悟決めた顔をしてるわ」
何の覚悟を決めたというのだろう。自殺か?
「それと、反対側の歩道を見なさい。ヤマモトって子もいるわ」
ちらっと左側に目をやると、チホ先輩の二人目の男、山本シンジ先輩が居た。その目には憎悪の火が灯っており、ミツヒロ先輩を射抜かんばかりに睨みつけていた。
え、なんでチホ先輩の男が大集合してるの?
「ふふふふ、なんだか面白くなってきたわね」
傍観者的には確かにそうかも。
チホ先輩と愉快な仲間たちが廃工場に到着した。工場前にはバイクが三台停めてあり、スタンバっている状態であることが察せられる。
中野先輩は、歩道で不自然に立ち止まり遠くからチホ先輩たちを窺っている。山本先輩は近くにあった自販機の前に立って、悩んでいる素振りをしている。
ミツヒロ先輩は僕に向き直ると、肩をぽんと叩いた。
「じゃあ守谷、何かあったときは頼んだぞ。チホもここで待っててくれな」
「話が違うよ!? 私も行く!」
「向こうはチホが目的なんだ。また危ない目に遭うかもしれないだろ?」
「でもミツヒロくんを一人で行かせられないよ」
「チホ……。守谷、チホをちゃんと止めておいてくれよ」
そう言い残し、ミツヒロ先輩は工場内に走っていった。
チホ先輩はミツヒロ先輩に手を伸ばしたが、空を掴んだ。
「……ミツヒロくん」
憂いを帯びた顔でチホ先輩は彼氏の名前を呼んだ。
気まずい。何か話した方がいいのだろうか。
何か話題を提供しようかと悩んでいると、チホ先輩が大きく息を吐いた。
「守谷くん、やっぱり私も行ってくるね!」
「え! やめたほうがいいですよ!」
「でも心配だから! 何かあったら守谷くんお願いね!」
「あーやめておいたほうがー」
僕の最後の言葉はまったく聞こえていなかっただろう。チホ先輩は疾風の如き速さで廃工場内に飛び込んでいった。
それを呆然と見送っていると、トリカが呆れた顔をしていた。
「あなたもまったく引き止める気がなかったわね」
「んなことないけどね。でも彼女が彼氏を助けたいって言うんだからしょうがない」
カップル一組が工場になだれ込むと、工場の外でも動きがあった。
中野先輩と山本先輩が現れたのだ。彼らはお互いに視線をやることなく、廃工場へと向かっている。
とても声をかけられるような雰囲気ではなかったが、比較的温和そうな中野先輩の方に声をかけた。
「あの、中野先輩」
「君は……以前、僕に死ぬなって言ったやつか」
中野先輩は生気のない目を僕に向けた。
「先輩は何をしに行くんですか?」
「もちろん、彼女を助けに行くのさ」
「今は彼女じゃないのに?」
「……あんなやつに任せておけないだろう。早く行かないと大変なことになる」
確かにミツヒロ先輩一人では多数の相手に太刀打ちできないだろう。しかし、どうして先輩方はここに来たのだろう。まるで、ここで争いが始まるのを知っていたかのようだ。
「どうして先輩はここに?」
「彼女に助けてくれって頼まれたら、断れるはずないだろう?」
「川崎先輩の連絡ですか……」
つまり、チホ先輩はミツヒロ先輩に内緒で、中野先輩を呼んでいたらしい。山本先輩もその口だろう。
中野先輩はそれ以上言うことはないといった様子で、工場内に走っていった。山本先輩はすでに中に入っているようだ。
その背中を見届けながら、しみじみ思うのだ。
「元カレに助けを求めるってどういう神経してるんだろ……」
とことんチホ先輩という人がわからない。ただでさえ僕という無関係の善人を巻き込んでいるのに、さらに元カレを巻き込んでいくとは。スパゲッティじゃないんだから。
「ねえ、見物しに行きましょうよ」
トリカが興奮した様子で提案してきた。野次馬根性が半端ない。
「よっしゃ、横の窓から覗き見と洒落込むか!」
「ええ! 向こうの視界に入らないように私が先導するわ。ついてきて!」
「頼む!」
僕も興味津々なので、二人して野次馬することにした。
「さっさとチホの写真を渡せ!」
「あー? 指図してんじゃねーぞクソが!!」
見物席を確保すると、ミツヒロ先輩とヤンキーの威勢の良い声が飛んできた。
工場内の様子は、ヤンキー三人と、チホ先輩の愉快な仲間たちが対峙している格好だ。チホ先輩は隅の方でじっとしている。
金髪のヤンキーがチホ先輩に目を向けた。
「なーチホ? これどういうことよ? 今日は俺らと遊ぶって話だったよな?」
その言葉に反応したのは、やはりミツヒロ先輩だった。
「お前らなんかと遊ぶわけないだろ! チホはお前らに写真を撮られたから言うことを聞くしかなかったんだ!」
写真はスマホで撮っただろうから、そのデータを完全に削除するのは大変だろうなと思う。
「ちっ、だりーな。もうやっちまいましょうよ」
取り巻きのモヒカンが、金髪を煽った。
それに反応して愉快な仲間たちサイドは身構える。
金髪はそれを見て、くくくっと笑った。
「そうすっか。こちとら売られた喧嘩は買う主義だ」
その言葉にミツヒロ先輩は反発した。
「喧嘩を売ってんのはそっちだろうが!」
「あ? さっさとチホを渡しゃあ終わる話だろ? それをごちゃごちゃいちゃもんつけてんのはテメーらだろうが!? ああ!?」
あんなふうにヤンキーに凄まれたら泣ける。僕だったらビビってさっさとチホ先輩渡してる。
「意思が弱すぎるでしょ……」
僕がトリカの言葉に何も反論できずにいると、ヤンキーたちがおもむろに先輩たちの方へと寄っていく。いよいよ開戦の時と思われた。
金髪のヤンキーがミツヒロ先輩の前に来ると、にやにやと笑いながら口を開いた。
「お前さ、チホががっかりしてんのがわかんねーのか? 彼氏なのにあっさりボコられてよ。チホはな、そんな男はいらないっつってんだよ」
嫌なことを言うなぁ、と傍目から見ている僕は思った。しかし女という生き物は強い男が好きなのも事実である。ヤンキーには大体彼女がいるものだ。
もちろん、ミツヒロ先輩も黙っちゃいない。
「三対一で喧嘩したら三人の方が強いに決まってるだろ! 馬鹿が! 不良ってのは本当に頭が悪いな!」
「ははははっ! じゃあ今日は三対三だからちょうどいいな。……後悔するなよ?」
その言葉を最後に、壮絶な殴り合いが始まった。
喧嘩慣れしていそうなヤンキーが優勢なのは予想できたことだが、意外と先輩たちも負けていなかった。攻撃はあまり当たっていないが、タフだった。彼女を守るという精神力のおかげだろう。
それにしてもミツヒロ先輩はわかるが、他の二人はどういう精神状態で喧嘩をしているのだろう。彼氏でもないし、ヤンキーと因縁があるわけでもない。こんななし崩し的に喧嘩に参加するってどういうことなんだろう。そんなにチホ先輩が好きなのかな。可哀想。
「アキラ、上を見て」
トリカに言われて工場内を見上げると、白い霊が所狭しと浮いていた。天井が高かったので気付かなかったが、凄い量だ。しかも、その白い霊が徐々に黒くくすんでいく。
「え、あれはなに?」
「元々は色のない霊だったものが、連中の闘争本能や怒号に感化されたみたい。取り憑くかも」
そうなったらいよいよ戦争である。理性が働かず、暴力に飲み込まれてしまう。
「あれは吸い込めないの?」
「ちょっと遠くて無理ね。魔力を吸い込むのは至近距離じゃないとできないの。あなたの魔力を貰うときもそうでしょう?」
確かに、トリカに魔力を渡すときは指輪に触れている。天井付近の霊に触れることはできない。
「いや、指輪を天井に投げ込めばいけるんじゃ?」
「そんな一瞬では無理。見てわかると思うけど量が多いから。それ以前に投げるってあなたね……」
呆れられたので代案を出す。
「じゃあ吸い込まずに魔法で吹き飛ばすのは?」
「そうしてもいいけど、霊だけ吹き飛ばすのは自信がないわね。間違いなく貫通して屋根が落ちてくると思う」
屋根に穴が空く程度ならいいが、屋根そのもの、あるいは骨組みなりが落ちてきたりすることを考えると避けたほうが賢明と思われた。
こうなったら霊がとり憑く前に、この争いにケリをつける必要がある。しかしどうすれば?
「やっぱりあの女しかいないんじゃない?」
全ての元凶、と言うと語弊があるかもしれない。しかし間違いなく渦中の人間であるチホ先輩の助力が必要だろう。
僕は野次馬をやめて、チホ先輩のもとに走る。
廃工場内に僕が入っても、連中は喧嘩に夢中のようで気にも留めなかった。
「川崎先輩、止めましょうよ」
無表情で突っ立っているチホ先輩に声をかける。彼女の目は喧嘩している連中から逸れることはなかった。
「止められないよ。みんな男の子なんだよ?」
「いや、そうかもしれないですけど。先輩がヒステリックに叫べば止まるかもしれませんし」
女の高音は相当に響く。一瞬でも喧嘩が止まれば、熱も冷めるかもしれない。
「ふふ、守谷くん。凄いと思わない? 男の子たちが私のために身体を張ってくれてるの」
チホ先輩の物言いにぞっとする。彼女の顔には薄く笑みが浮かんでいた。
ヒロイン気取りなのか……?
怪訝にチホ先輩を見つめていると、不意に尋ねられた。
「どうしてハジメくんと山本くんが加勢してくれたと思う?」
「それは、川崎先輩の元カレだからじゃないですか」
むしろそれ以外に理由があるのか。
「そうなんだけど、ちょっと違うの。……私もね、みんなの恥ずかしい写真を持ってるんだぁ」
チホ先輩はそう言いながら、スマホの画面を僕に向けた。そこにはベッドの上で全裸になっている中野先輩の姿があった。
「これがあるから私のお願いは断れないの。もちろんこれを使って脅したりはしてないよ? みんな自発的に助けてくれるの」
そう語るチホ先輩はひどく楽しげだった。僕はそれを見て怖いと思った。脅しの材料を持っている時点で半分脅しみたいなものだろう。
チホ先輩はもう一枚別の画像を表示した。
「これがミツヒロくんが取り返そうとしてくれてる写真ね。私、目ぇ瞑っちゃってて不細工でしょ? これはあの金髪の彼が撮ってくれたんだけど、消してくれなくて困ってるの」
その画像はヤンキーたちとチホ先輩がカラオケにいる様子を写したものだった。なんてことはない普通の写真だ。こんな写真のために、ミツヒロ先輩は拳を振るっているのだ。
「川崎先輩は、あのヤンキーたちと仲が良いってことですか?」
「うーん、別にそんなことないけど。海で連れて行かれたときは怖かったよ? でも話してみたら意外と普通だったの」
チホ先輩の視線の先には、金髪に顔を殴られるミツヒロ先輩、モヒカンに頭を踏まれる中野先輩、スカジャンに膝蹴りを食らう山本先輩の姿があった。もう一方的な暴力だった。見ていられない。
平然としているチホ先輩に問いかける。
「……何が目的なんです?」
「目的って言うか、みんなが私のために何かしてくれるのが嬉しいんだぁ。ハジメくんと山本くんには私にいいところを見せればまた彼女になるって言ってあるの。ミツヒロくんは一応彼氏だから当然だよね。あの金髪の彼、木田くんには彼氏気取りに付け回されてるから助けてってお願いしたの。みーんな私のために行動してくれてるんだよねぇ」
マッチポンプだ。この女が演出をしてこの場にコロシアムを作り上げたのだ。歪んだ欲求を満たすために彼らを弄んでいるのだ。
先輩たちが動かなくなったのを見て、ヤンキーたちはチホ先輩のもとに寄ってきた。
「あ? お前誰だよ?」
ヤンキーは近くに居た僕に目をつけた。今までいなかった人間がいるわけだからそれも当然か。
「……通りすがりです」
「はっ、そうかよ。ちょうどいいや、あいつら処理しとけよな」
ヤンキーは顎で先輩方を指した。三人の先輩は皆地面に横たわって沈黙している。
僕は先輩たちのもとに走り寄る。ミツヒロ先輩は涙を流していた。それを目の当たりにすると、やるせない気持ちになる。
「もう時間かかり過ぎだよぉ。早く行こっ?」
チホ先輩がはしゃいだような声をあげた。僕は唖然としてしまう。
金髪がチホ先輩の肩を抱いていた。
「はは、わりいわりい。意外と骨があってさ」
「いやーチホちゃんも悪い女だなー。こんなに好かれてるのにあっさり切っちゃうなんてよー」
「だってぇ、私を守ってくれるって言いながらやられちゃうんだもん。やっぱり私は強い人が好き!」
大して関わりのない僕ですら滾るような怒りに震えているのだ。この先輩たちの怒りは想像を絶するほどだろう。
連中の足音が遠ざかる中、中野先輩の嗚咽の声が聞こえる。山本先輩の荒い息が聞こえる。二人の身体は怒りからか、震えていた。
それはミツヒロ先輩も同様だった。握りしめた拳が悔しさを表している。
地面に倒れ伏すミツヒロ先輩の、血に濡れた唇がわずかに動いた。
「殺す」
その怨嗟の声に共鳴し、三人の身体に黒い霊が吸い込まれていった。