「もう、素直じゃないんだから」
自転車の鍵を外している間に、トリカにお願いする。
「あのさ、二人乗りするときは透明になってて欲しいんだ。捕まっちゃうからさ」
「わかったわ」
ここに来るまでに警察に見つからなかったのは運が良かった。もしかしたら、トリカが自発的に見えないようにしていてくれたのかもしれない。
トリカが荷台に乗ったのを確認すると、ペダルを踏み込んだ。海までは二十分ほどで着くだろう。
後ろに乗ったトリカがぽんぽんと背中を叩いてきた。
「あなたは車を運転できないの?」
「できないよ。免許がないから」
「ふぅん」
「はは、荷台が疲れたか?」
「ちょっとお尻が痛いわね」
痛覚があるんだ……と思っていると、ばしばし叩かれた。
風の中に潮の匂いが交じりだし、海の気配が感じられる。海沿いの道に出ると、穏やかな海が視界いっぱいに広がった。太陽の光が海面に反射してきらきらしている。
「……なんだか黒いわね」
「あはははっ! 確かに!」
この辺りの海はエメラルドグリーンには程遠い。それでも今日は快晴も相まっていつもよりは青く見えるのだ。
自転車を停めて、砂浜に降りる。僕ら以外にも数人いるが、中でもカップルはとりわけ目立つ存在だった。愛を語らっているなら波にさらわれてしまえ。
水平線には小さな点になっている船が見えた。波打ち際まで歩き、なんとなく海水で濡れた砂をすくい上げて、ぼとぼとと落とす。
「いやー海だな」
「そうね」
トリカは風に煽られる銀髪を手で抑えながら僕の隣に立った。そんな仕草が妙に新鮮だと思ったのは何故だろう。
そうだ、今までは風に煽られることがなかったからだ。今日はいつもよりも身体の再現率が高いので、現実の現象をその身で受けている。いつもの省エネ再現の場合は、人の目に留まらないのは当然として、雨や風もすり抜けていた。だから今日のトリカは新鮮なのだ。
横目にトリカを眺める。
絵になるヤツだなと思った。これが明るい色のワンピースだったら清楚を体現したような絵面になるに違いない。
そんなことを思っていると、トリカが不意に笑いだした。
「あなたの褒め言葉って大体嫉妬も含まれてて面白いのよね」
「口に出してない言葉に嫉妬もクソもあるかい」
しかし言われたことは事実なので、話題を変える。
「向こうの海はもっと綺麗なの?」
「ええ、でも海には魔物も多いからね」
「へー、例えば?」
「こっちの世界で言うところのカニみたいなものや、あとはウニを百倍大きくしたようなもの、タコとイカと人を合体させたようなもの。様々ね」
「やべーな。海入れないじゃん」
「人間でも対処できる程度の魔物だけなら普通に入れるわ」
こっちの世界だとサメは魔物といって然るべき存在かもしれない。クラゲもやばいか。
そうしてトリカの世界の話に耳を傾けていると、僕らの立っている場所まで波が来た。僕が慌てて後退りするのに対し、トリカはそのまま波を受けた。
「ふふ、冷たぁい」
こちらを振り返り笑顔で感想を言う姿は、まるで普通の少女のようだった。
パンプスが海水に浸るのも構わず、トリカはその場に立ち続け、自分の足元を眺めていた。
何をしているのやら……と思っていると、誰かが近付いてくる気配を感じた。辺りを見ると、砂浜に居たカップルの女の方がすぐそばまで来ていた。
「げ」
その女の顔を見て、僕は思わずうめいた。
「あ、やっぱり。前に助けてくれた一年生の子だよね」
そう、そこに居たのは男を乗り換えに乗り換えているチホ先輩であった。こんなところで遭遇するとは露とも思わなかった。
チホ先輩は短めのスカートを穿いており、男の視線を釘付けにしてやろうという意図が見て取れた。術中にハマって脚をガン見し続けてもよかったが、同じ高校の生徒なので後々のことを考えて自重した。
トリカはこちらに関心を示さず、波打ち際にいる生き物を捕まえて遊んでいた。
「あそこにいるのは彼女さん?」
チホ先輩はトリカを見てそう尋ねてきた。そういえば今は見える状態だった。
「いえ、違います」
「そうなんだ。……お人形さんみたいだね」
「はあ」
好意的な解釈だった。控えめに言ってコスプレだろう。
特に話すこともないし、さっさとどこかに行って欲しいと思った。
「おーいチホ。なにしてんの?」
カップルの男の方もこちらに来た。その男がミツヒロと呼ばれた三人目の男だったことに、ちょっとほっとした。チホ先輩はまだこの男で停車しているようだ。ミツヒロ先輩はさっさとこの女を引き取ってどこかに行って欲しい。
「ミツヒロくん、前に助けてくれた子だよ」
「お? おお、あんときの。奇遇だなあ。名前は?」
先輩に名前を聞かれたら答えない訳にはいかない。
「守谷陽っす」
「守谷な。俺、安達ミツヒロ。こっちは川崎チホ」
しかしなかなか彼らは離れず、腹立たしいことにここでカップルの会話を始めた。
嘘だろ……もうモロとトシを連れてきて死ぬほど傷の舐め合いしたい。いや、僕らがどこかに行けばいいか。
そう思ってトリカに声をかけようとしたが、その前に一応聞いておこうと思った。
「あれから、山本先輩とは何もないんですか」
「ああ、何もないよ」
「守谷くんのおかげでね」
別の霊に取り憑かれたりはしていないようだ。
どうせ今後関わることもないだろうから、この際いろいろ聞いておこう。
「先輩は彼女のどんなところに惚れてるんですか?」
「いやいや、それはちょっと恥ずかしくて言えねえよ」
「もう守谷くんったら何言ってるの」
二人ははにかみながら顔を見合わせた。うっぜぇ……。
「付き合ってどれくらいなんですか?」
「まだ一週間だよ」
「へー。もう一年くらい付き合ってる雰囲気ありますよ」
「よせやい」
一週間ってことは、チホ先輩は普通に三股していたと思われる。同じ学校の人間三人と同時に付き合うその胆力に驚く。いや、待てよ。僕が三人と思っているだけで本当はもっと多いかもしれない。「一人付き合っているのを見たら五人付き合っていると思え」みたいなG理論的なこともあるかもしれない。
チホ先輩が同じ高校生とは思えない。僕が二年生だったとしても、この先輩のように異性を意のままに操るようなことはできないだろう。何か天性のものを感じる。いや、魔性か。
もしかしたら、この先輩は男を誑かす人外の類かもしれない。いわゆるサキュバスとか、日本の妖怪で言えば女郎蜘蛛なんかが当てはまるだろう。もちろん実際に目にしたことはないし、存在すら疑わしいが、霊とかトリカといったものが実在している以上可能性は十分にある。
……ないか。さすがに。
「うわ、なんかガラ悪いの来たな」
ミツヒロ先輩が遠くを眺めてそんなことを言った。
道路の方を見ると、バイク数台を停めて砂浜に降りてくる男たちがいた。マジでガラが悪い。スカジャンやら金髪やらモヒカンやらと非常にわかりやすい。
僕はああいうのが心底苦手である。得意だという人もそういないと思うが。
「さっさとはけたほうがいいかもしれませんね」
「だな」
僕の意見にミツヒロ先輩は同意したが、そこに異を唱えるものが居た。
「別に大丈夫だよ。大人しくしてれば何もされないよ」
「チホ……」
「ね? それに、もしものときはミツヒロくんが守ってくれるでしょ?」
「おお! 当たり前だろ?」
ひえーかっけー、と思いながら唾を吐きたい気持ちだった。でもまあ、ミツヒロ先輩にしてみればここではこう言うしかない。彼女の前だし、一年坊の前でもある。男には見栄というものがあるのだ。
僕は守るべき対象もプライドもないので、さっさと退散することにした。
「じゃあ、僕はここで失礼しますね」
「おお、じゃーな」
「またねえ」
軽く会釈してトリカのもとに向かう。
トリカは波打ち際でしゃがみ込み、水鳥に囲まれていた。この辺の鳥は人懐っこいのか……?
しかし僕が近付くと水鳥は方々に飛び去っていった。
「話は終わったの?」
「うん。それとなんかやべー人らが来たから退散するよ」
僕の言葉でトリカは浜に目をやる。
「……こっちの世界にもああいうのがいるのね」
トリカの物言いには少しの驚きと嘲笑が含まれていた。
「見た目で威圧するなんて弱者のすること。あなたが怖がる必要ないわ」
「強い弱いじゃなく馬鹿か否かなんだよ。絡まれるだけ損なの。行くよ」
それに弱者とはいっても僕よりは強いだろう。喧嘩慣れしてそうだし。
トリカは不承不承ついてきた。僕が指輪を持っている以上、そうするしかないのだが。
ヤンキーから遠ざかるように迂回して、自転車を停めた場所まで戻ってきた。砂浜を見下ろすと、ヤンキーどもは例のカップルに絡んでいた。嘘でしょ、まさか本当に絡まれるとは……。不謹慎だとは思いつつ吹き出してしまった。
「下衆ねえ」
「はははは、何とでも言え」
しかしミツヒロ先輩には同情してしまう。彼は海から去ろうと思っていたのに、あの女の言葉で考えを変えてしまったのだ。我を通せなかったミツヒロ先輩が悪いとも言えるが。
それにしても腹が減った。もう昼飯時だ。
先の喫茶店の出費が思いの外大きかったので、コンビニで適当に済ませることにした。
ちょっと自転車を走らせておにぎりなどを買い込み、また海岸沿いに戻ってくる。
すると、砂浜に変化があった。
「……あそこに倒れてるのってミツヒロ先輩かな」
「そうじゃない? ふふふ、なんか間抜けだわ」
「え、死んでないよね?」
「生きてるみたいよ。ほら、腕で目を拭ったわ」
「あ、ほんとだ」
どうやら泣いているらしい。
彼は仰向けで大の字になって倒れていた。この距離からではわからないが、ヤンキーに袋叩きにでもあったのだろうか。砂浜にはミツヒロ先輩しかいない。
様子を見に行こうかと思ったが、仮にフルボッコに遭っていたとしたら、そんなところを知り合いに見られたくないだろう。ここは黙って去るのが人情といえる。
そう結論付けると、トリカが呆れた顔を見せた。
「女の方はまったく心配しないのね」
「だって自業自得でしょ。ていうかね、僕思うんだけど、あの先輩ならヤンキーを丸め込んでるか取り込んでるかしてるよ。とにかく無事だと思う」
「そう言われると……そんな感じもするわね」
チホ先輩の魔性はきっとヤンキーにも通用するはず。しなかったら警察におまかせだ。
「ちょっと先に公園があるから、そこ行くわ」
「ええ」
トリカは特に文句も言わず、また荷台に乗った。
公園の芝生に座り込み、コンビニの袋を漁る。
隣に座ったトリカにはコーラのペットボトルを渡して、僕はおにぎりの封を開け始めた。
「いやー、のどか」
「そうね」
視界に入るのは水鳥の飛び交う姿、低めの柵とそれ越しの海、ジョギングしている女性の姿など、休日の風景だ。
だがふと思う。これってトリカは楽しいものだろうか。高校生として考えてみてもだいぶ年寄りじみている気がする。
トリカと目が合うと、にこっと微笑まれた。釣られるようにへらっと笑ってしまう。
「私は楽しんでるから余計な心配しなくていいわ」
「あ、そう」
ちょっと安心しつつ、ツナマヨおにぎりを頬張る。うめーな。
トリカの分も何か昼飯を買おうと思ったのだが、それは固辞された。僕の懐事情を気遣ってくれたらしい。非常に助かるね。
「そっちの飲み物はなに?」
「これは緑茶。お茶っ葉をアレしたやつ。飲んでみる?」
「ええ。……アレしたやつってなによ」
トリカにお茶のペットボトルを手渡し、またおにぎりを頬張る。
隣で小さく喉が鳴った。まあ、緑茶には特別驚く要素はないだろう。
「ちょっと苦いのが良いわね」
「わかってんなー。緑茶の良さが」
トリカの率直な感想に笑みが浮かぶ。
そんなふうにのんびりとした時間を過ごしていると、少し眠くなってきた。
ごろんと寝転がり空を仰ぐと、抜けるような青空が広がっていた。暖かい日差しがいい具合に眠気を誘い、まぶたを重くする。
ちょっと寝ちゃっても大丈夫か。五分くらいならバレないはず。
トリカは今の僕の思考を読んでいなかったようで、特に反応もなく海を眺めながらちびちびとコーラを飲んでいた。
よし、五分寝よう。
「アキラ、そろそろ起きて」
トリカに身体を揺さぶられて目が覚めた。まずい、熟睡してしまったかもしれない。
スマホを取り出して時間を確認すると、なんと現在午後三時。二時間近く寝てしまっていた。
「やっべぇ、寝すぎた。ごめんトリカ」
「別に謝ることはないわ」
「ていうか起こしてくれればよかったのに」
「だって、あなたの寝顔が面白かったんだもの」
「え! マジかよ……」
いやそれにしたって数分見たら飽きるだろう。建前かな。
「そろそろ雨が降るみたいだから、帰りましょう」
「そうなの? こんなに晴れてるのに?」
「ええ、水鳥が教えてくれたわ」
「へぇ~。じゃあ帰るか」
水鳥と意思疎通できることに驚く一方で、トリカなら容易なんだろうなとも思う。
自転車に乗って家路を走る。トリカが言ったように、遠くの空から分厚い雲が押し寄せてきていた。以前、モロから雨男などと言われてしまったが、もしかしたらそうなのかもしれない。
「たまたまでしょ」
「だよなぁ?」
後ろに乗ったトリカの言葉に心底同意する。雨男なんて科学的じゃない。
「たまたま雨に降られる間の悪い男ってだけだわ」
それを雨男と言うのではないか、と思わずにはいられない。
否、雨に打たれる前に家に帰れば、僕は完全に晴れ男である。いくら雨が降ろうと外出中は晴れていたのだから。
気持ち自転車のスピードを上げる。身体に当たる風が冷たくなってきた。
トリカは寒いのが苦手と言っていたが、大丈夫だろうか。身体の感覚をどこまで再現しているのかわからないが、ワンピース一枚じゃ寒そうだなと思う。
「ふふ、この身体は魔力による再現だから体調が悪くなることはないの」
「あ、そう」
「ええ。でも心配してくれてありがとう。アキラのそういうところ好きよ」
「は? 心配とかしてないんすけどぉ。寒かったら指輪に戻ればって思っただけだしぃ」
「はいはい」
トリカの表情はわからないが、小憎たらしい顔をしているに違いない。
そもそも、それくらいのことは良心ある人間なら誰しも思うことであり、何も僕が特別というわけでもない。良心舐めんなと言いたい。
かといって僕が善人であるかといえばそうでもない。良心の呵責を感じなければそれでいいので、積極的に他人を助けようとは思わない。もちろん、家族や友人などの好意を持っている人間に対してはその限りではない。
「じゃあ私はアキラに好意を抱かれているってことでいいのね?」
「絶対に違う! とは言わないけども」
人は近しい存在に対して好感を抱くようにできているのだ。ましてやトリカは特殊な存在だし、こいつを邪険に思っていたら身が持たない。ストレスで死ぬ。
「もう、素直じゃないんだから」
素直な気持ちを表したつもりである。まあ、ストレス云々は誇張表現だった。
遠くから迫りくる雨雲に焦っていると、僕の背に何か当たった。顔だけ振り返ると、トリカが頭を僕の背に当てているようだった。
「あなたのおかげで今日はいい一日になったわ」
時折、トリカはこういうことを言う。リアクションに困る。
「はは、言うほどいい一日か? 桜と海を見ただけじゃん」
「そう自虐しなくてもいいわ。私は楽しかったの」
自虐的にもなる。今更になって思うが、トリカにこの世界を教えるなら海という原始的なものより、もっと文化的なものに触れるべきだった。僕は観光案内ができないタイプなんだと今日理解した。
「テレビでやってたけど、そういうのをリードが下手な男って言うのよね?」
「まさしくその通りだよ」
なにせリードしたことがないのだ。草野球のリードならしたことある。しかしキャッチャーではなくランナーのリードだ。振り返ってみると、僕は人をリードしたことがないかもしれない。
「ま、あなたの今後のリードに期待するわ。別に今日も良かったと思ってるけどね」
「ははは、フォローがしみるわ」
でもまあ、次はもう少し何か考えて出掛けようとは思っている。トリカが他人からも認識されるなら行ける範囲は広がるだろう。
ごろごろと遠くの空が鳴り始めた。雨どころか雷も降ってくるようだ。
サドルから腰を浮かし、ペースアップを図る。
「がんばれ~」
荷台からの気のない応援に力が抜けそうになったが、雨男の称号を回避するために全力で家を目指した。