「女の子の手でしょう?」
「お前よぉ、昨日何の用事があったんだよ?」
翌日、登校して教室に入るやいなや、モロが昨日のことについて問い詰めてきた。
「いやー、実は先輩に呼び出し食らってさ。ま、大した用事じゃなかったから後から合流すればよかったよ」
「そーだったんか。昨日すごかったんだぜ? トシがハンバーガーを一口で食べる荒業を見せてさー」
モロの話を聞きながら、頭の片隅では中野先輩のことを考えていた。昨日あんなことを言ってしまったが、まさか死んだりしていないだろうか。
「駅で見たわよ。まだ生きてるわ」
あ、そうなんだ。よく見つけられたな。
「まあね」
トリカは得意気に胸を張った。
先輩が気を持ち直したならもう何も憂うことはない。正直、あんな啖呵のようなものを切ってしまった手前、もう顔を合わせたくないのだ。
「逆でしょ。もう会わないつもりだったからあんなふうに言ったんでしょ」
そうとも言う。
恋愛の傷なんて新しい恋が芽生えればすぐに忘れるはず。高校生なんてきっとそんなものだろう。
「おい陽、聞いてっか? そこの店員さんがすっげー可愛くて、もう常連になる覚悟なんだよ俺は」
モロの話は、トシの妙技から店員さんの話に変わっていた。
「やめとけって。モロがそんなに絶賛するほど可愛いならもう男がいるよ」
「いやーわからんぞ! 仮にその子にフラレてももう一人可愛い店員さんがいんのよ! この隙のない二段構え! あそこのマッダーナウは最高だよ」
「マジかー。やっぱ僕も行っときゃよかった」
中野先輩にはモロのメンタリティとバイタリティを見習ってほしいものである。
そんな話を展開している横で、トリカが首を傾げていた。
「アキラはもう私で目が肥えてるのに、可愛い店員を見たいものなの……? 所詮は私未満よね……?」
ここまで自信過剰だとちょっとうらやましい。悩みとかないんだろうな。
そんなふうに思っていると、頭を叩かれた。
「来週までポテト安いみたいだから、トシが部活ない日にでも行こうぜ」
「おー。拝みに行きたいわ、モロの女神を」
「マジでやべえよ? 夢に出てくるレベル」
それは凄い、とけらけら二人で笑っていると、担任の先生が教室に入ってきた。
さあ、今日も一日がんばろう。
昼休みになると、僕とモロとトシは中庭に来ていた。爽やかな陽気に包まれ、僕らは春というものを存分に味わう。
中庭にはベンチが設置してあり、昼飯時には賑わいを見せる。
得てしてこういった場所は上級生たちが独占しがちだが、この高校に限ればそんなことはなく、開放的だった。
しかし開放的が故にカップルの姿も多く、僕らはすでにいたたまれなさも感じていた。カップルは百歩譲っていいにしても、男女混合のリア充グループなんかは、もう僕らとは別世界に生きている感じがして辛い。
野郎三人でベンチに座って昼飯を食べていたが、おもむろにモロが口を開いた。
「天気が良いから外で食おうって言ったのは誰ですか。名乗り出なさい」
「「お前だよ」」
発案者はモロである。まあ、僕らもまったく異を唱えることはなかったが。
カップルが仲睦まじく弁当など食べているのを横目に、僕らは非モテらしく女っ気のない話に花を咲かせた。
ゲームの話、野球の話、モロが好きなアニメの話、トシの部活の話、サラリーマンのメールの話、男所帯の部活に入る女子マネージャーの心境などについて熱く語り合った。
「かなりどうでもいいわね……」
トリカにしてみればそうだろう。僕らにとっては最高に楽しいのだ。
そんなあしらい方が気に食わなかったのか、トリカは僕が手に持っていた紙パックのオレンジジュースに食いついた。どんどん軽くなっていくパックに絶望しつつ、モロとトシにバレるのではないかとヒヤヒヤしていた。
残り一割というところになって、トリカはストローから口を離した。ちょっと残したのは、空気を吸い込む音で不審に思われるのを避けるためだろう。賢明な判断だと思うが、ちょっとしか残されないこちらの身にもなれと言いたい。
「この飲み物もなかなかイケるわね」
ご満足いただけたらしい。
残ったオレンジジュースを飲み干していると、中庭に新たなカップルがやってきた。それを見たモロが舌打ちした。
僕は別の意味で苦い顔になる。そのカップルの片割れが中野先輩をフッた女だったからだ。
「しかもまた別の男を連れてるわね」
そう、昨日二年一組の教室で見たガタイの良い男とは違う男なのだ。この短髪で爽やかな雰囲気を持つ男は、言わば三人目の男ということになる。
単なる男友達? 彼氏? 財布? なんでもいいが、男漁りに余念がない女であることは間違いない。
心底思うのだ。あの女に心酔しちゃってる男は馬鹿だなと。
「そんなこと言って、あなたもあの女と接触したら簡単に取り込まれちゃうかも」
ぞっとする話である。僕は現状あの女に対して嫌悪感を抱いている。それにもかかわらず中野先輩のようにぞっこんベタ惚れしてしまうなら、それはもうあの女に何か魔性の魅力があると言わざるをえない。
そこで僕は二人の意見を聞いてみることにした。
「なあ、モロ、トシ。あそこにいる女の先輩どう思う?」
「今来たカップルの? まあまあ美人だよな。セミロングの髪がいい。あと体付きがロっ」
「ろ?」
「あ、エロいって意味」
モロは外見のことしか言ってないが、彼の目には魅力的に映っているようだ。まあ、僕も大体同意見だけども。
「トシは?」
「そうだなあ。スカートが短くてめっちゃロー。雰囲気もロー」
「ろー?」
「あ、エロいって意味」
「流行ってんの? エを抜くの」
二人の意見をまとめると、とにかくエロいということがわかった。
エロは確かに男子の心にダイレクトに作用するものだ。しかしそれだけで男を三人も落とせるものだろうか。……落とせそう。
「もちろん、アキラは落ちないのよね?」
トリカが意地悪い笑みを浮かべて僕の顔を覗き込んできた。
それは言うまでもないことだ。鉄の理性といえば僕のことだし、僕といえば鉄の理性である。なんなら鋼でもいい。鋼の理性所持者。
「嘘っぽいわね」
冗談はさておき、エロだけで釣られることはないと断言できる。やはり、心と心が繋がって初めて付き合うのが理想だろう。
「ふぅん。なかなか綺麗なことを言うのね」
挑発的な顔をしたトリカが、ワンピースの裾をたくし上げる素振りをかましてきた。
「っ!?」
まさかトリカに対し声を上げるわけにもいかず、喉を詰まらせて固まってしまう。いや落ち着け、ここで慌てふためいたら僕の理性が疑われる。ここはとにかく平常心だ。落ち着く言葉を心で唱えよう。
トリカの正体は化け物、トリカの正体はおっさん、トリカの正体はオタクが作り出した理想、トリカの正体はノミの擬人化、トリカの正体は綿埃と黒フェルトの集合体……ふぅ、落ち着いた。
「あなたね、理性より品性を疑うわ!」
僕の背後に回ったトリカが裸絞めをしてきた。ちょ、ちょっと苦しい……!
「ここに投影している姿は封印されてる私と同一のものなの。お分かり?」
わかった、わかったから腕を緩めてくれ!
そう懇願してやっと解放された。結構締まっていた。そのくせ女の身体の柔らかさや匂いなどは全く感じなかった。完全に締められ損である。所詮は魔力による再現か。
「それが鉄の理性を持つ男の言葉なの……?」
ははははは。
そんな折、中庭にただならぬ雰囲気の男がやってきた。そのガタイが良い男は、中野先輩から女を奪ったと思われる、いわば二人目の男だった。
男は例のカップルのもとにまっすぐ歩いていくと、何やら女に向かって強い口調で詰問している。それに対し女は答えず、三人目の爽やか男が応対していた。デジャブである。
そんな様子を見て、モロがにやけた顔で呟いた。
「何かヤバそう」
「だな」
トシもそれに同意し、事の成り行きを見守っている。
僕も下衆な気持ちで彼らを眺めていた。校内でいちゃつくカップルなど万死に値するのだ。いっそ血生臭いことになればいい。
「ふふ、あなたの望みどおりになりそうね」
そうトリカが囁いた直後、二人目の男の身体から黒いもやが立ち上がった。マジかよ!
僕は慌てて立ち上がり、彼らのもとに走った。二人目の男は拳を振り上げ、女を殴ろうとしていた。女は三人目の男にすがり助けを求めた。三人目の男は女の前にかばうように立つ。
今まさに拳が振り下ろされようかというところで、僕の体当たりが間に合った。二人目の男は吹っ飛び、すぐさま僕を睨みつけて吠えた。
「何だお前は!」
「なんでもいいでしょ。それより暴力はダメですよ」
僕が冷静に指摘すると、二人目の男は何か言い返そうとしたが何も言わず、気が抜けたように肩を落とした。
黒いもやはもう見当たらない。体内に姿を潜めたのか、あるいは怒りの行き場を失ったと同時にどこかへ消えたのか。
その疑問にトリカが答えてくれた。
「あなたが体当たりしたときに私が吸い取ったわ」
そうか、助かったよ。ありがとう。
ふわふわと浮いたトリカは、何故か呆れた顔で僕を見下ろしていた。
「あなたね、言ってることとやってることが違うじゃない。血みどろの喧嘩が見たかったんじゃないの?」
もちろん見たかったが、霊が関わっているなら話は別だ。霊は理性を外してしまう。ステゴロならいいが、万が一凶器を隠し持っていたら大惨事になる可能性がある。
その考えをトリカが鼻で笑った。
「霊が絡まずとも、やる人間はやるけどね」
……そうかもしれないけどさ。
二人目の男は霊から解放されたこともあり、理性を取り戻していた。ふらふらと立ち上がると、バツの悪そうな顔で中庭を去っていった。ガタイの良い背中がどこか小さく見えた。
それを見送っていると、三人目の男が寄ってきた。
「君、一年か。ありがとな。俺もチホも助かったよ」
「いえ」
本来は助ける気がなかったので爽やかにお礼を言われても居心地が悪い。
僕もさっさと立ち去ろうとすると、例の女もこちらに来た。そして男に寄り添うようにしてお礼など言い始めた。
「本当にありがとう。ミツヒロくんを助けてくれて」
「いえ。……さっきの人の名前は?」
「え? えっと、山本くん。山本シンジくん」
「そうですか。それじゃ」
あの女はチホ、殴りかかろうとした二人目の男は山本シンジ、今彼の三人目の男はミツヒロというようだ。
しかしまあ、よく短期間でこんなに男を乗り換えられるなと感心してしまう。電車じゃないんだから。
モロとトシのもとに戻ると、彼らは妙なものを見るような目で僕を出迎えた。
「陽にそんなに正義感があったとはな……」
「いやマジでびびったよ。かっけーって思ったけどさ」
傍から見れば喧嘩を止めるナイスガイかもしれないが、僕の目には霊しか映っていなかった。そうでなければ僕が介入することはなかった。
とはいえ霊のことなんて彼らに言ってもしょうがないので、ここはおどけておくことにした。
「いやー、つい身体が動いちゃったみたいな? はははは」
「なかなかできることじゃねーよ。しかも先輩相手に」
「ほんとほんと。ほら、女の先輩とかまだこっち見てるよ」
トシにそう言われ、チホ先輩に目をやると、ばっちり目が合った。何か背筋に冷たいものが走った。
怯えた僕を見てトリカはからかってくる。
「うふふふ、狙われてるんじゃないの?」
怖いこと言うなよ……。
僕みたいな日陰者もターゲットの範囲だというなら、あの女は釣り人なのだろう。男を落としては捨てるという行為に楽しみを見出しているに違いない。死ぬほど迷惑な女だ。
「これまでの三人もあなたの言う日陰者の雰囲気があるけどね」
そりゃトリカの目から見たらそのへんの野郎なんて皆日陰者だろう。逆に「釣り合うわ」って思う男がこの世界にいるのかと。
そんな疑問を浮かべると、トリカは考える間もなく答えた。
「今のところいないわね」
ほれみろ。
それはさておき、山本先輩にも霊が憑いていたのは何故だろう。捨てられたことでショックを受けるのはわかるが、必ずしも霊に取り憑かれるわけでもないはずだ。
「でも霊が蔓延ってるような場所で手ひどく捨てられたら、高い確率で取り憑かれるんじゃないかしら」
そんな場所にいくつか心当たりはある。人気がなく常に日陰になっているような場所、事故が多い場所、ストレスの溜まっている人が集まる場所、そういうところに不定形の霊が多い。
チホ先輩が相手に別れを切り出す場所が、霊のたまり場なのかもしれない。迷惑な女である。
ふと気になった。トリカから見て、霊とはどういうものに見えているのだろう。
「そうねえ。私の見立てでは、人の死に際に放出された魔力が霊になっていると思う。死の淵で抱いていた強い感情が、放出された魔力の核となってある程度の指向性を持つ。いわゆる残留思念ね。その思念と生者の感情が共鳴したときに取り憑かれるのだと思う」
要は傷の舐め合いである。今回のケースでは恋愛の未練によって生まれた霊が、恋愛で悩んでいる生者に取り憑いて憂さ晴らしをしているのだ。そう考えると、なんともくだらない思いがしてくる。
今回はトリカが霊を吸い取ったわけだから、僕が憂うことは何もない。ご勝手に昼ドラを展開していただきたいものだ。霊に憑かれることなく。
そういえば、吸い取った霊は多少魔力の足しになったのだろうか。
「あなたから貰う一日分の魔力の五分の一くらいかしらね」
それってそこそこの量だと思うんですけど、どうですか?
「でもイヤなのよねえ。生理的にイヤっていうか」
以前トリカは霊のことを虫と例えていた。虫を食べている気持ちなのだろう。
まあ、僕としては霊をどうにかして貰えるだけで助かるので、吸収するか否かはトリカにおまかせだ。
霊の話が一段落したところで昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
放課後になると、帰宅部の僕とモロはさっさと教室を出た。トシは卓球部に所属しており、ゆるい雰囲気で楽しくやっているらしい。
校舎を出て駅に向かって歩き始めると、ぽつぽつと雨が振り始めた。モロが空を見上げて毒づいた。
「うわ、さっきまでめっちゃ晴れてたのに。最悪だなおい」
「走ろう!」
「おう!」
次第に強くなる雨の中を僕とモロは走った。汗と雨が混ざってワイシャツがぐしょぐしょになっていく。
目に映るアスファルトはもう全て色を濃くしていた。じきに水たまりもできるだろう。春の雨はどうしてこうも勢いがあるのか、不思議である。
「前もこんなことあったよな! 陽って雨男なんじゃねえの!?」
「この名前で雨男なわけねーだろ! 僕は晴れ男だ!」
「マジかよだったら早く雨を止めてくれ!」
「それは無理!」
雨音に消されないように、大きな声で軽口を言い合った。それが面白くて、最悪の状態なのに笑いがこみ上げてくる。
息も絶え絶えに駅舎に飛び込んだ。運動不足が露骨に感じられる瞬間である。
モロは濡れた髪をかきあげながら、溜息をついた。
「あー、早く帰ってシャワー浴びてえ」
「本当にな」
雨に打たれるのはごめんだが、雨そのものは好きだった。しとしとと降る雨は、不思議とそれ以外の音が聞こえなくなって静寂を強く感じさせる。僕は明らかにインドア志向なので、物静かな雰囲気が好きなのだ。
「なら強い雨風はどうなの?」
トリカが姿が現して尋ねてきた。
もちろんそれも嫌いじゃない。インドアは常に外に出ない理由も探している。台風のような天気の日は、家にいることを全肯定されているようで落ち着くのだ。
「私は雨が嫌いだわ。寒いから」
寒いのが苦手なの?
「ええ。それに雨粒が身体に当たるのもイヤ。目に入るのはもっとイヤ」
へぇ~。トリカにも苦手なことがあるんだな。
トリカは至近距離でじとーっと睨みつけてきた。僕はリアクションできないのだから思わず反応しちゃうようなアクションをしないで欲しい。
「……私をなんだと思ってるの?」
完全無欠で超絶美人の魔法使いだと思っていますよ。トリカだってそういうスタンスでいるものだと思ってたよ。
「もちろんそうだけど、私にも好き嫌いや得手不得手はあるわ」
それは至極当然のことなのだが、はっとさせられる思いがした。別の世界から来て、それでいて普通の人間とは違うトリカのことを、想像の及ばないものとして深く考えていなかった。こんなに自信満々で才色兼備であってもちゃんと心を持った存在なんだと、改めて認識しなければならない。
「私なんて明らかにか弱い乙女なんだから、優しくしてくれないと困るわ」
トリカが上目遣いでそんなことを言ってきた。
か弱い? 乙女? 一文で嘘を何個もぶっ込む女は明らかに強い。認識は改めるが、か弱い乙女とは認識しない。
「確かにか弱くはないけど、乙女のどこが嘘なのかしら」
そう問い詰めるトリカの眼光は鋭く、下手なことを答えるとまた首を絞められる可能性がある。ここは慎重に、決してゴリラや化け物などと思考しないようにしなければならない。
「もう手遅れよ!」
背後に回ったトリカがスリーパーホールドをかましてきた。落ちちゃう! 落ちちゃう!
公衆の面前であることを忘れてタップしていると、モロが露骨に不審がった。
「……どうした?」
「い、いや、蚊が飛んでるからさ」
「ああ、そう。……もう蚊がいるんか」
なんとかごまかし、トリカに恨みがましい視線を送る。彼女は涼しい顔をしていた。ゴリラじゃん、このふてぶてしさ。
その思考を読んだトリカが、ジロリと睨んでくる。
「また食らいたいらしいわね」
いや、そもそもトリカはゴリラという生き物を知っているのか? トリカは何故か悪口だと思っているようだけど、ゴリラはこちらの世界の言葉で精霊という意味を持っているんだ。とても小柄で可愛らしく、人々からは天使やら何やらと大変愛でられる存在なのだ。そうつまり僕はトリカを賞賛して使った言葉だというのに、この仕打ちはなんだ。これではとてもゴリラとはいえないな。ただの化け物ですよ、化け物。
「おい陽、あそこにいる人すっげ筋肉。後ろ姿完全にゴリラだよあれ」
「うわマジだ。すっげー。ボディビルダーかな?」
ホームに立っている人の筋肉にモロが目を奪われていた。僕も思わず目を見張った。
そんな僕の目の前に阿修羅が現れた。おや? 幻覚かな?
「私が嫌いなものをもう一つ教えてあげる。それはね、『嘘』よ」
奇遇だな。僕も嘘は好きじゃない。気が合うじゃない!
「うふふふふふ、帰ったら覚悟しなさい。搾り取ってあげるから」
そう言い残しトリカは姿を消した。
雨降りしきる空を仰ぐと、悲痛な思いがこぼれた。
「……僕、今日は帰りたくないな」
「おいー、それは女の子から聞きたい台詞だよ」
◇◇◇
それから数日が経って土曜日。
トリカと出会ってから初めての休日である。いつもならお昼近くまで寝ているところだが、今日も平日と同じ時間に起きていた。
二度寝しようとしていたところをトリカに叩き起こされたからだ。
「せっかく一日自由なんだから、もっとこの世界について教えなさい」
そう言われ、僕は重い腰を上げた。
出掛ける準備をして自室を出ると、弟の京介とすれ違う。
「あれ、どっか行くの?」
「おー、ちょっと」
「ふーん、珍しい」
「珍しいとはなんだ」
普段インドアなのでこう言われてしまっても仕方ない。
夕飯までには帰ると京介には告げて、僕らは家を出た。
ズボンのポケットに入れていたトリカの指輪を右手の人差し指にはめた。ポケットに入れておくよりは付けておくほうが失くしにくいはず。
行くアテもないので、家の前でトリカに尋ねた。
「どこか行きたいところとかある?」
「うーん」
トリカは首をひねった。
「特にないけど、まだこの世界で見てないものが見たいわ」
「んー、じゃあ海でも行く?」
「海。いいわね」
トリカの世界にも海はあるだろうけど、こっちの世界特有のものと言われても正直ピンと来ないのだ。真っ先に浮かんだのは東京という大都市だが、あそこまで行くのはちょっとした旅行だし、田舎者にはあのコンクリートダンジョンを攻略できる気がしないのだ。
海は自転車で行ける距離にある。最近は自転車に乗る機会が減っていたので、久々のペダルの感覚にちょっとわくわくしている僕がいた。
「これは乗り心地が良いの?」
「どうだろうな。人力だから上り坂とかは普通に疲れるよ。でも、下り坂は最高。あと今日みたいに天気の良い日に乗るチャリも最高」
「ふぅん」
僕のような女っ気のない人間にはまったく関係のないことだが、自転車には女子と二人乗りというロマンもある。法律違反でもあるので、昨今あまり見かけないが。
「それなら私が後ろに乗るのはとても合理的ね。私は自転車を体験できるし、あなたの希望にも沿うし」
一方で、僕は二人乗りをしているカップルには憎悪の視線を送り続けた身でもある。仲良しカップルであることを喧伝するような行為は唾棄すべきものであり、慎ましい行動を心がけるように推進すべきなのだ。
とはいえ、トリカを後ろに乗せること自体は問題ない。なぜならトリカは僕しか認識していないからだ。それに乗るといっても厳密には乗っていないから、道交法的にも問題はない。
そう思っていると、トリカがいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「重さや質感、その他諸々再現してもいいけど? それなら乗ってることになるでしょう?」
「それにどれだけの魔力を使うのさ」
「あなたの魔力二日分」
その消費量が多いのか少ないのかわからないが、余計な魔力消費だろう。いつも通りでいいと思う。
「余計だとは思わないわ。この世界に触れるための必要経費だもの」
「……まあ、トリカがそうしたいならそうすれば」
「ええ、そうさせて貰うわ」
トリカの身体がぱあっと煌めいた。魔力を使ったらしい。
……いつもより姿が鮮明に見えるような気がする。重さと質感を再現すると言っていたので、地に足が着いている。しかし何キロくらいになっているのだろう。二トンとかだったらどうしよう。自転車が潰れる。
「あなたってときどき私の事あからさまにバカにするわね」
「まさか。万が一を疑ったまでだよ」
「万が一を疑う時点でバカにしてるの。お分かり?」
トリカは紅い双眸で睨みつつ、僕の手を取った。その感触に驚く。
「うわ、肌!」
「女の子の手でしょう?」
質感の再現とはこういうことらしい。いつものよくわからない物質に触れている感じではなく、しっとりとしていながらさらさらな肌の感触があった。ちょっと服の袖にも触れてみたが、しっかりと布の感触もある。これは確かに新鮮なのだが、質感を再現したところで特別メリットがあるとも思えない。そう触れ合うこともないだろう。
ともあれ、さっそく海に繰り出そうと自転車にまたがる。
荷台の部分にトリカが横に座った。俗に言うお嬢様乗りだ。
「よし、じゃあ行くぞ」
「ええ」
ぐっとペダルを漕ぎ出すと、一人分以上の重みを感じる。ちゃんと重みも再現しているようだ。
運動不足とはいえ、中学時代はバスケ部に所属していたプライドがある。無様に足をつくことは避けねばなるまい。
ギアをひとつ上げて、スピードに乗る。車体が安定する速さを得たらそれ以上はスピードを上げずにのんびりと走った。
しばらく平坦な道が続く。交通量も少ないので、比較的楽に走れた。
後ろを振り返らずにトリカに声をかける。
「どう? 乗り心地は」
「悪くないわね。良くもないけど」
「はは、そうか。あ、そうだ、ちょっと寄り道してもいい?」
「ええ」
海に向かう途中、桜並木で有名な通りがあるので、そこを通っていくことにした。
四月は中旬に入り、場所によってはすでに散っているところもあるが、このあたりは今が満開の時期だった。いや、もう散り始めているかな。
ちょっと身体が汗ばむのを感じつつ、快走を続ける。少し目線を上げれば、吸い込まれそうなほどに真っ青な空が広がっていた。春の匂いで満たされながら風を切って走るのが気持ちいい。
「ふふ、引きこもりなのに季節を感じるのは好きなのね」
「引きこもりなんて言葉どこで覚えたんだ?」
トリカの軽口に苦笑する。引きこもりはもっと極端なインドアに言うべきだ。
しばらく走り続けると、道路を挟んで並び立つ桜が見えてきた。
この辺りから少し人も増えてくる。桜を眺めて散歩をする年配の方が多く見られた。
「あなたの高校にもあった花ね」
「そう。でも規模が違うだろ?」
「ええ。綺麗だわ」
トリカにも花を綺麗だと思う感性があることにほっとしつつ、桜のアーチを走り抜ける。
「……あなたね、私のことをなんだと思ってるわけ?」
「すみません。今のは軽率でした。魔法にしか興味がない女かと」
「後で覚えておきなさいね」
「ひぃっ」
後のことを考えないようにして走っていると、道路沿いに小さな喫茶店が目に入った。ちょっと休憩したかったので、トリカの了承を得て寄っていくことにした。
自転車を停めて、扉を開ける。からんころんとレトロなベルの音で迎えられた。
「いらっしゃいませー、お好きな席にどうぞー」
入ってから気付いたのだが、僕は喫茶店に来たことがなかった。では何故、躊躇なくここを選んだのかというと、慣れない二人乗りですっげー疲れていたからである。まともな判断力があればこんな洒落た喫茶店は避けていただろう。高一の分際で茶店とかスカしてるにも程がある。
店内にはお洒落なジャズが流れ、何が入っているかもわからない瓶などが棚に並べられている。もうとにかくお洒落。
入って早々に場違い感全開で、もう何も頼まずに出たい気分だった。
しかし、そんなことをするわけにもいかないので、窓際のテーブルに僕とトリカで向かい合って座った。幸いお客さんは少なく、妙な目で見られることもなさそうだ。
とりあえずメニューを眺めることにした。
「アキラ、私これがいい」
トリカが指したのは、フルーツとアイスが添えられているパンケーキだった。注文自体は別にいいのだが、店員さんに気付かれずに食べることができるのか?
「大丈夫よ。私に任せて」
「なんで自信満々なんだ……」
思わず小声で呟き、僕も何を注文するか決める。
僕は飲み物だけにしておこう。傍目には一人なのに重いものを二つ頼んだらとんだ大食いだと思われてしまう。もしトリカがコーヒーも飲みたいといったら僕のを分けることにしよう。
ちらっと若い女性の店員さんを見ると、察して注文を取りに来てくれた。
「ご注文お決まりでしょうか」
「えっとオリジナルブレンドと、パンケーキをひとつ」
店員さんは僕の注文を繰り返し、奥に引っ込んでいった。野郎がパンケーキ食うのか、と思われていないだろうか。
「それは被害妄想でしょ」
そうだといいけどな。
窓から外に目をやると桜の木が見える。風に流されていく花びらを見ると、もう桜の季節じゃなくなるんだなと少し寂しくなる。
「この国にとって桜って特別なの?」
僕はこくりと頷いた。
日本の代表的な花が桜だ。JPOPでも桜の歌がゴマンとある。
「どうして代表的な花になるに至ったの?」
え。……知らねえ。
「もう、無知なんだから」
トリカに溜息をつかれた。そういう歴史的なことは知らないのだ。すまんな。
そうして声のない会話をしていると、パンケーキとコーヒーが運ばれてきた。
「お待たせしました。オリジナルブレンドのホットとパンケーキになります。パンケーキは……?」
そこで店員さんは何故か逡巡した。
助け舟を出すようにトリカがすっと手を挙げる。いや、見えてないでしょ。
「それは私よ。コーヒーはあっち」
「あ、はい。ではこちらになりますね」
店員さんはトリカの前にパンケーキの皿を置き、僕の前にコーヒーを置いた。
僕は固まった。え、見えてる?
「どうしたのアキラ? 変な顔して」
トリカは得意満面でそんなことを言ってきた。やられた。
そういえば出掛ける前、重さや質感、その他諸々の再現と言っていた。しかし普通の人にも認識されるように身体を再現できるとは思わなかった。魔力を可視化する技術もあるようだ。
僕は店員さんを呼び止め、トリカの分のコーヒーも注文した。
「トリカさぁ……そういうことなら早く言ってよ」
「言ったじゃないの。最初に」
「言ったけどさぁ、もっとわかりやすくっつーかね?」
「うふふふ、あなたの驚く顔が見たかったの。ごめんね?」
そうしてぺろっと舌を出した。これが可愛いとわかってやってるんだろうなと思うとムカつく。実際可愛いのが輪をかけてムカつく。
トリカはナイフとフォークを使って綺麗にパンケーキを食べていた。
「んーっ、ふわふわでおいしいわ」
「そいつはよかった」
アイスやフルーツを食べては表情をコロコロ変えるトリカが面白くて、桜よりも目を奪われてしまった。
「んー? 食べたいの? はい」
今の僕の思考は読んでいなかったようで、視線の意味を勘違いされた。トリカはフォークに刺したパンケーキをこちらに差し出して、にこっと微笑んだ。結構な値段がするパンケーキに興味があったので、躊躇なく食べた。
「んめーな」
「ね」
ふと店内を見回すと、店員さんとばっちり目が合ってしまう。店員さんは微笑ましいものを見るような目で僕らを見ていた。
完全にしくじった。今のトリカは誰でも認識できる状態であることをちゃんと把握していなかった。先程の「あーん」行為なんて僕がもっとも忌避するカップル喧伝行為そのものではないか!
僕が自己嫌悪に陥っている一方で、トリカはコーヒーに口を付けて顔に疑問符を浮かべていた。
「……これがおいしいの?」
「まあ」
僕にもコーヒーの良し悪しはわからない。ただ、この店のブレンドは割りと苦めで僕好みではあった。酸味の強いものが苦手というのもある。
「ふぅん。でも、このパンケーキに合うわね」
「そうだろ? それにさ、大人の飲み物なんだよ、コーヒーって」
「ならあなたはどうして頼んだの? まだ子供でしょう?」
「え、義務かと思って」
「私、こういうお店には初めて入ったけど、義務ってことはないと思う」
トリカの好みの傾向から案外子供舌なのかなと思ったが、別にそうでもなかったようで、コーヒーを味わって飲んでいた。そもそもトリカの年齢が不詳だった。こんな見た目で八百歳なんてこともあり得る。
「あなたと同じくらいよ。全然若いわ」
トリカがムッとした顔で答えていた。結構見た目通りらしい。
「向こうの世界だとどんなものを飲むの? 甘いものがあるときとか」
「そうねえ。お茶が一般的かしらね。エイレって言う植物の葉を煎じたものが、香り高くておいしいの」
「へぇー、なんかお洒落っぽい」
「ふふ、別にそんなことないわ」
「飲んでみたいな。あとさ、やっぱり回復薬みたいなものもあるの?」
「あるわね。魔力を含んだ物は大体そう呼ばれてるんじゃないかしら」
聞くと、トリカの世界では魔力を豊富に持つ動植物が存在するようで、それらから抽出、あるいは加工することで増強剤などが作られるとのことだった。それゆえに絶滅するものや、希少価値となったものがあるという。そういう話はこちらの世界でも聞く。
「こっちだと牛の乳が牛乳として売られているけど、牛が魔力を持ってたら回復薬になるのかな」
「もしそんな牛が存在したら、魔力は回復するかもしれないわね。でも魔力と体力は別だから、こっちの世界の人間は実感できないと思う」
「あー、なるほどー」
「魔力を使って体力を回復する術がないとね」
いわゆる回復魔法が必要であるとのこと。
「純粋に体力を回復するものはないの?」
「あるわ。例えばリヴァロっていう木から採れる樹液には、もともと治癒の性質を持った魔力が含まれていて、それを摂取することで回復するの。樹液は水で割って飲むのが一般的ね」
「へー。それって味はどうなの?」
「甘くておいしいからたくさん植えられてるわ。でも採れる時期がまちまちだから安定して供給されないのよね」
それから魔法や魔力に関する話をたくさん聞いた。トリカの世界の話は本当にファンタジーで、聞いているだけでも楽しかった。
そうして喫茶店で穏やかな時間を過ごしていたら、本来の目的を忘れそうになった。あぶないあぶない。
若干の名残惜しさを覚えつつ、会計を済ませてお洒落な喫茶店を出た。値段もだいぶお洒落だった。はぁ。
「ごちそうさま。ありがとうね」
そうまっすぐに見つめてお礼など言わないで欲しい。慣れていないのだ。