謎の男
シルバーのハイエースは、井の頭通りから環八に入り、羽田方面へ向かう途中でダラダラとした渋滞にハマっていた。
台風の湿気を含んだぬるい風が、排気ガスと埃まで車内に送り込んでくるので、井田は窓を閉めて、カーエアコンのスイッチをオンにした。
ホナミは助手席のシートを軽くリクライニングして両手を頭の下で組み、ビーチサンダルを脱いだ左足をダッシュボードの上に載せて、まるで自分の車のように寛いでいる。
「ナカムラさん、随分おくつろぎのようだけど、その足は洗ってあるのかな?」
おいアンタ!随分いい態度してやがるけど、その足は洗ってあるのかよ!?
井田は、ホナミがさっき裸足で公園を走っていた泥足のままではないかと気になった。するとホナミは、
「洗ったよ、ほらっ」
と言いながら、クッキリと削られた土踏まずを見せつけてきたので、井田はその足をピシャリとはね退けるように言った。
「やめなさい。それに女の子がそんなところに足を乗せるのは感心しないね」
するとホナミは注意された事が恥ずかしかったようで、口をとがらせ、
「アタシの足は手と同じなの!手なんだよ、手!手が乗ってるって思ってよ。ほら!!」
と、やたらしつこく繰り返し、その足指で助手席側のエアコンルーバーのつまみを器用に挟んで風向を変えて見せ、わざと言う事をきかない素振りをした。
しかし井田がそれを無視していると、結局は大人しく足を降ろし、プイッと横を向いて窓の外を眺めた。
まったく、とんでもないコだなぁ……どういう躾をされてきたんだ?
井田は呆れ、何か言う気も失せた。
それでも、これから数時間をホナミと同じ空間で過ごさなくてはいけないワケで、それなら少しでも気分良くいられるようにと、取りあえずカーステのCDを入れ替えた。
こんな時はやっぱ、ジャック・ジョンソンか……
朝の通勤渋滞の喧騒から遮断された車内に、アコースティックギターと、男性ヴォーカルの静かなサーフミュージックが流れ始め、空気が少し軽くなった。
そこでひとつ深呼吸し、ついでに話題も変えることにした。
「君はずいぶん足が速いみたいだけど、ボディボの他に、何かスポーツやってたの?」
井田が話しかけると、ホナミはホッとしたように、その話題に飛びついた。
「アタシ、中学高校とサッカーやってたの!」
「サッカー?」
「そう、女子サッカー」
「へぇっ!……ポジションは?」
「ミッドフィルダー」
「なるほどね。……どうりで足も速いわけだ」
そう言われて、ホナミは得意げに鼻の下を指で擦った。
ホナミの少年のような雰囲気と、今朝見せた男顔負けのタフな走りは、女子サッカーというイメージが正に当てはまる気がした。
「卒業してからはフットサルもしてたよ」
フットサル = 足 猿
不意に陳腐な当て字が浮かび、先ほどの足クセの悪さと、小ザルのような素早い動きと、その短い髪型を照らし合わせ、
「君にピッタリだ」
と井田は言って、険しかった顔に笑みが浮かんだ。
それを見てホナミは褒められたのかと思い、嬉しそうに井田の方に両足を揃え、身を乗りだしてきた。
そういった仕草は、あの憎々しい目付きや態度からは想像できないほど素直に見える。
「ねえ、リョウさん」
「はい?」
「あの店には、ボディボードは置いてないんだって?」
「……無いね」
「どうして?」
「どうしてって……売らない事に決めたから」
「リョウさんが?」
「いや、社長が」
「リョウさんは、あのお店の店長さんなの?」
「そうです」
「ふーん」
「……店長って言っても、まあ今、あの店にはボクしかいないわけだけどね」
『そうです』と答えた声が、思わず強く出てしまい、井田はフッと自嘲した。
ホナミの質問が続く。
「中野スバルは、辞めちゃったんだ?」
「……知ってるの?スバル君のこと」
「全然。ていうか雑誌出てたじゃん、五月に。この店の事も」
「ああ、そう言う事か」
井田は、春にショップがオープンした時の、サーフィン誌の取材の事を思い出した。
「でも、話したこともあるよ。先月、店の前で、朝。海に出かけるところを声かけて」
「へえ」
「乗せてって、ってお願いしたら、『店長の許可が無いと勝手なことできない。』って断られた。その時にボディボードも置いて無いって言われた」
それは初耳だった。
スバル君からそんな報告は何も無かったと言う事は、きっとホナミが『お願いした』という言葉からかけ離れた、常識外れな頼み方をして、スバル君としては相手にしない方が良いと判断したのかもしれない。
井田だって、本当は相手になんかしたくなかった。後ろめたい事さえなければ。
「ねえ、お店にボディボ置いてよ。アタシ買いたい」
ホナミはまた唐突に、ワガママな事を言い出した。
「そんなこと、勝手に決められません」
「じゃあ、社長さんにお願いしてよ」
「無茶言わないでください」
「なんで?」
「あの店は小さいし、中途半端にボディボード置いても仕方ない。今はボディボの専門店も増えてきてるんでしょう?そういうところで、ちゃんと買った方が良いんじゃないかな?」
「ふーん……」
ホナミは半分も納得していないようだったけれど、一度口を閉じ、再び窓の外を眺め始めた。
ハイエースは、蒲田駅周辺の最後の激しい渋滞地点を抜け、ようやく高速道路に入って、アクアラインで海底へと潜り始めた。
しかし順調に走り始めたのは良いが、肝心な行く先がまだ決まっていない。
館山道でまっすぐ南下するか、袖ヶ浦で降りてマルカワの方に向かおうか……
井田はショートパンツに手を突っ込むと、携帯電話を取り出して開いた。
するとその画面に、ハナコからの着信履歴が残っていた。
「あっ」
井田が短い声を上げたので、しばらくじっと黙っていたホナミが顔を上げた。
「どうしたの?」
「いや、、、ナカムラさん、トイレは?」
「え?……ああ、うん、行っておこうかな」
「じゃあ、海ホタル寄るよ」
ハイエースは長い海底トンネルを抜けて海上に出ると、本線から外れてパーキングエリアの標識に従って、ぐるりと来た方向へと半周し、海ホタルの3F駐車場に到着した。
駐車場はガラガラで、車から外に出た瞬間、強い風が吹きつけて、井田の中途半端に長い黒髪が目を覆ったので、それをうっとうしそうに手で払い、ホナミは白いメッシュキャップを飛ばされないように、両手で押さえた。
「コンビニ行って、それから僕は電話しなきゃいけないから、テキトーに上の休憩所で待ち合わせしよう」
「分かった」
ホナミは短く返事をすると、小走りで女子トイレへと向かった。
井田は車をロックし、ホナミの駆け抜けるサルのような後ろ姿を見送りながら、足にちゃんとビーチサンダルを履いているのを確認してホッとした。
小便を済ませ、長いエスカレーターで上階に昇って行くと、右手のゲームセンターで、ホナミがUFOキャッチャーのガラスに両手をついて、中のぬいぐるみを覗きこんでいるのが見えた。
井田はそれを無視して左手のコンビニに入り、梅とシラスのオニギリ2個と冷たい日本茶を買った。
そして無料休憩所に入ると携帯を取り出し、ハナコに電話をかけ直した。
再び、長い呼び出し音が続く。
ガラス張りの休憩所から西の空を眺める。
まだ怪しい雲の姿は見あたらないが、東京湾のドブ色の海には、ずっと遠くまで白い風波が立っている。
帰りに通行止めなんて御免だぜ……
『井田さん?』
その時、ハナコの鈴のように澄んだ声が、携帯電話から井田の耳に滑り込んできた。
「あっ……!ハナコさん、おはようございます!」
「おはよう。さっきは電話出られなくてごめんなさい」
「いえ、こっちこそスイマセン、朝早くから電話したり掛け直してもらったり何だかんだと。まだ寝てましたかね?」
「今?」
「いえ、さっき」
井田はハナコと話すと緊張するので、つい、しゃべり急いでしまう。
ハナコはフッ、と電話口で可愛らしい吐息を漏らすと、
「起きてたわ。泳いでたの」
と言った。
「泳いでた?どこで??」
「もちろん、ここで」
こことは、行方の会員制ビーチクラブ『Secret Garden』の、肌色の砂浜を持つ小さな入り江の事だ。
「泳ぐって……波、大丈夫なんですか?」
「水が冷たくて気持ち良かったわよ。波は、そうねぇ……今でやっとヒザモモくらいね。ここはまだ風が入らなくて、綺麗に割れてるわ。崖の上はビュービュー唸ってるけど」
「そ、そうですか!……この先、サイズどうなりそうですかね?」
「台風が来る直前まで、上がっても胸ぐらいだと思うわ。でもその割に、崖沿いのカレントはキツくなるけど……」
せいぜいムネ!良かったぁ、、、。
ハナコさんの所へ行けばなんとかなる!!
でもそれで、あの小ザルは納得するだろうか……?
井田は少し迷った後、念のためハナコに訊ねた。
「ハナコさん、ちなみにどっかその辺りで、まだもうちょっと、他に入れそうなトコありますかね?」
「……井田さん、千葉に向かってるの?」
「ええ……」
「入るつもりなの?ここ以外で??」
「ええ、まぁ、、、」
「……珍しくチャレンジャーね」
ハナコは井田が小波好きなのを知っていて、からかうように言った。
「あぁ、いえ、そういうわけじゃなくて……」
井田は歯切れ悪く答えた。
そして携帯を耳に当てたまま下を俯き、どう言って説明しようか考えながら、顔にかかった鬱陶しい前髪を片手で掻き上げ——するとそこに、いつの間にかホナミが立っていた。
食虫植物のようなマツ毛の付いた目をパッチリと見開き、手に、胴体の青い、鼻のお化けのようなぬいぐるみを持っていて、それを自慢げに井田の前に突きつけて見せた。
井田は目を丸くし、慌ててその奇妙なぬいぐるみから目を逸らすと、携帯に向かって早口で伝えた。
「あの、実は今日、お客さんを連れていて……その子ができればデカめの波で入りたいみたいなんです。なので、どこか入れそうなポイントがあれば教えてもらいたくって……」
「そう。……デカめって、どのくらいの事かしら。本カガミなら、これからダブルオーバー位になるだろうって、今からみんな、明日のバックスウェルまで楽しみに待ち構えてるけど……」※
「ダブルオーバー!?!?」
井田は、ホナミがしつこく目の前にチラつかせる鼻オバケを払いのけて叫んだ。
「いえ、結構です、その半分以下。アタマ位で」
それを聞いて、ハナコはまたクスッと電話口で笑うと、ちょっと待っててね、と言って、そのまま少し間があいた。
ハイ
オレ? ダレ??
ゴトン……カラカラカラ……
携帯電話の向こうから、単調なレゲエのリズムに混ざって、グラスの中で氷が触れあうような小気味良い音と、男の声が聞こえる。
井田は無意識に腕時計を見た。
「もしもし、代わりました」
耳元で、急にその男の声がした。
「あ、あ、おはようございます。井田と申しますけれども……」
「おはようございます。……ご用件は何でしょうか?」
男は、くっきりとした声で井田に問いかけると、大きく鼻をすすった。
「あ、実はこれから千葉に向かうところなんですけれど……どこかアタマ位、いや、それより小さくても良いぐらいなんですけれど、まだ入水できそうなところ、御存じないでしょうか……?」
「アタマ位でこれからですか……。あとどのくらいで着けそうなんですか?」
「南ならあと一時間くらいで、マルカワの方なら、それよりもう少しってとこです」
「……」
グスッ…
男は考えているようだった。考えながら、また大きく鼻をすすった。
その水っぽい音からして、どうやらどこかのポイントで、もうすでに1ラウンド済ませてきているようだった。
「ボクは北の方から見てきたんで、南はわからないですけど……マルカワの方に来るんだったら、そこからもうちょっとカガミハマの方に北上した所の、島みたいな岩場の上に、赤い鳥居のある海水浴場、分かりますか?」
声の感じからすると、まだ相当若いように思われたが、波情報には載っていないシークレットポイントを良く知っている様子だ。
誰だか分からないが、早朝からこのラウンジに出入りしているということは、ハナコとも御園生とも近い、どちらにしても面倒臭いサーフ業界の人間だろうと思い、井田は極力ていねいに話すよう気をつけた。
「行った事は無いので、ハッキリは分からないですけれど……それはウラタの事ですか?」
「そうです。そのウラタを通り越して、右へ道なりに民家の間を進んで行くと、ぷっつりと未舗装の泥道になります。それを更に進んで行くと低いトンネルがあります。そのトンネルの先に『へタレ』ってポイントがあるんです」
「へタレ!?」
井田は一瞬、自分の事を言われた気がして、思わず大きな声でオウム返しにした。
「そう、へタレ。そこはせいぜいアタマ半位までしか上がりません。一時間後なら、そこでまだイケるんじゃないかと思いますよ」
「そのトンネルは、ハイエースは通れますか?」
「もちろん大丈夫です。ローカルが多いと思いますから、挨拶する時に『今日はササラ君、どこかで見かけましたか?』とか言うと良いと思います。何かインネン付けられる前に」
「ササラ君?」
「そう。……ハッタリです」
そう言うと、その男は電話口でクックックと低い声で笑い、また大きく鼻をすすった。
そのすぐ近くでハナコが笑いを押し殺している気配があって、それが少し気になったが、宝の山へと辿り着く秘密の道を教えられたようで、井田は急にワクワクしてきた。
「ありがとうございます!じゃあちょっと、とにかくそこへ行ってみます!」
礼を言い、話を切り上げようとすると、男が冷静な声で付け足した。
「あ、それから。……くれぐれも犬のフンには注意して」
「犬のフン?」
「そう。やりっぱなしなんです。地雷のように転がっています」
「何で……?」
「ビジター除けに。……では、お気をつけて」
男が電話を切る気配を見せたので、井田は慌ててもう一つ訊ねた。
「あの!」
「はい?」
「あなたが、ササラ……さんなんですか?」
「いえ」
グスッ…
「僕はノガワです。ノガワタケル」
ツーッツーッツーッーツーッ
そして電話は唐突に切れた。
※波のサイズについて
ヒザモモ (60センチ前後 初心者向け)
ムネカタ (150センチ前後 中級者向け)
アタマ (180センチ前後 上級者向け)
ダブルオーバー (アタマサイズの二倍以上。4m位 上級者、エキスパート向け)