出発準備完了
ほとんど脅迫されたような形で、ホナミと千葉へ波乗りに行く羽目となり、井田はシクシクと痛むみぞおちの辺りをさすりながら、片手でガレージのシャッターを上げた。
中には実用的なシルバーのハイエースと、愛嬌のあるミルクホワイトのワーゲンバスが出番を待ちかまえていた。
コイツか、ハイエースか……さて、どっちで行こうか?
デジタル表示の腕時計を見ると、時間は朝7時をとっくに回っている。
ホナミは20分で海の支度をして、ここに戻って来ると言った。
女の子だからきっと、何だかんだ遅れて来るとして、8時過ぎに出発……
千葉北はもう波、デカ過ぎだろうから内房にしようか。
それとも南の千倉か平砂浦だったら、まだギリギリイケるかな。
いずれにしても10時過ぎにどっかのポイントに着くとして、2時間入水?
いや、俺はきっとそんなに入ってられないぞ。
でもあのコはあの調子じゃ、しつこくねばるに違いない……
井田はさっきのホナミの走りっぷりと、頭くらいのサイズの波と聞いて『上等じゃん』と、自信ありげに言い放った横顔を思い出し、うんざりした。
ま、それでも4時くらいには帰って来れるかな……
とりあえず気象予報を確認しようと、急いで店に戻って2階に上がり、リビングとして使っている二間続きの手前の和室のTVをつける。
ニュース番組にチャンネルを合わせると、生真面目な顔をした男性アナウンサーの頭上に、台風に関する情報が字幕で横に流れていた。
それによると、『大型で強い台風9号は、宮崎と高知の間の太平洋上を、ややゆっくりとした速度で東北東へ進んでいる』との事。
今頃スバル君は、夕方の河口の波に期待して、ワクワクしてるんだろうな……。
それに比べて、俺はワクワクどころか、ムカムカするぜ……クソ。
井田は字幕の文字を目で追いながら、顔をしかめた。
気になったのはホナミの事より、その台風の進路だ。
朝一に、携帯の波情報で確認した予想進路より、だいぶ本州寄りに移動していて、もしかしたら関東に非常に接近するか、もしくは上陸する可能性が出てきている。
万が一東京直撃になったら、果たしてこの古い家は耐えられるのか……?
明日になったら屋根が吹っ飛んで店ん中もメチャメチャに、なんてシャレにならんのだけど。
関西の一部は既に大きな暴風域に入っていて、大雨洪水強風に関する注意をさかんに呼びかけている。
とにかく早めに切り上げて帰ってこようっと。
井田は気象情報を横目で見ながら狭い洗面所に向かい、洗面台の横のドラム式洗濯機に、汗で濡れたランニングウェアを脱いで投げ込み、シャワーに入ろうとして一瞬迷った。
……時間も無いし、デートじゃないし。ま、いっか。
念のため腋の下の匂いをクンクン嗅いで、臭くないのを確かめると、シャワーを浴びるのは止め、そのままフルチンでぶらぶらと台所に戻る。
そして冷蔵庫から牛乳とトマトジュースを取り出して、それらを一つのコップに同量注ぎ、指で簡単に混ぜてから、そのドロッとしたピンク色の液体を、一気にグビグビ飲み干した。
それから部屋に戻ってチェストから派手な幾何学模様のブリーフを出して穿き、籐のカゴに放り込んであったチノ素材のショートパンツを穿いて、スネ毛を軽く撫でつけ、携帯電話で再び波情報をチェックした。
するとこちらも更新されていて、千葉は北も南もほぼ頭オーバーの波となり、所によってはジャンク、クローズアウト、サーフィン不可、と表示されたポイントも出始めている。
「もうダメじゃん、俺」
井田は思わず声に出して苦笑した。
そしてあまり気が進まなかったけれど、ハナコの携帯に電話して、入り江の波の様子を訊くことにした。
長い呼び出し音が続く。
その間に、鴨居に吊るした木製ハンガーに手を伸ばし、チャコールグレーに細いイエローのラインが入った古着のポロシャツを身に付ける。
その時、店の格子戸がカラカラと開く音がして、甲高いかすれ声が井田の名前を呼ぶのが聞こえた。
「リョウさん!」
「早ッ!!」
井田は慌てて電話を切り、携帯をショートパンツのポケットに突っ込み、ドタドタと階段を駆け降りた。
すると格子戸の外に、四角い大きなカメの甲羅のような荷物を背負ったホナミが、さっきとは打って変わって、にこやかに立っていた。
「あれ?」
「へへへ、時間通りだったでしょ?ねぇ、荷物、車に積んでいい?」
「あ、うん。ナカムラさんソレは……ボディボードなの?」
「そう。身軽で良いでしょ?」
井田はホナミの、その少年のような雰囲気から、てっきりバリバリのショートボーダーと決め込んでいたので、ボディボードを担いだその姿にちょっと驚いた。
「荷物、それだけ?」
「うん。ボードもフィンも、タオルも着替えも全部入ってる」
「ウェットスーツは?」
「無し」
「えぇ!?ウェット無し?」
「うん。だって夏じゃん。水着にトランクスで充分でしょ」
「タッパやラッシュガードも無し??」※
「うん」
ケロッとして答えるホナミに、井田は呆れた。
「ナカムラさん、今日、波デカイんだよ。水着だけでもし……」波に巻かれて、オッパイぽろっと出ちゃったらどうすんの?
と言いたかったけれど、井田は慎重に言葉を変えた。
「もし……水温冷たかったらどうするの?しばらく南風続いてるから、8月でも千葉だと油断できないよ」
するとホナミはポカンとして、井田の顔を眺めた。
「南風が続くと水温、冷たくなるの?なんで?? ていうかアタシ、ウェット持ってないし!」
今度は井田がポカンとした。
「え、持ってないの!?ホントに??……参ったなぁ、、、台風なんだし、これからもっと波がサイズアップしたら、色々ちょっと心配なんですけど……」
井田はチラッと、店の吊るしのウェットスーツに目をやった。
するとホナミはすかさず言った。
「買わないよ」
「……あっそう」
「それより早く行こうよ!」
ホナミは井田の腕を取ると、急かすように格子戸の外に引っ張りだした。
井田はやれやれという顔をして、重い足取りで再びガレージに向かった。
休みの日は、ワーゲンバスにエンジンをかけて乗ってやりたかったけど、万が一早めに雨が強まった時の事を考え、結局安全を優先してハイエースで出発することにした。
そしてガレージの壁フックに、型崩れしないよう丁寧に掛けられたウェットスーツの中から、黒いゴム製のタイトなロングジョン※を選んで車の中に移した。
レンタル用のウェットでもあれば、ホナミに貸してやれるのだが、残念ながら、まだそこまでは充実していなかった。
女の子としては身長が高くて、スバル君くらいあるようだけど、井田よりは10センチ以上小さいように見えたし、体つきも、尻以外は華奢に見えた。
そしてちょっと迷ってから、ラッシュガードなら多少大きくても役に立つかもしれないと思い、自分が昔使っていた白の長袖を1枚、濡れ物用の大きなシリコンバケツに放り込んだ。
それから、ピンチングハンガーに干しっぱなしになっていたモスグリーンの大麻柄のサーフトランクスも、何となく追加した。
「ナカムラさん、悪いけどコレにそこから水汲んでくれる?」
井田は空のポリタンクをホナミに手渡し、ガレージの奥のホースの付いた水道を指さした。
「はーい」
ホナミは素直に返事をすると、キャップを開いて中にザーザーと水を注ぎ始めた。
その間に、井田は自分のサーフボードが立て掛けてあるラックの前で腕を組み、3本のロングボードと、1本のフィッシュテールのミニボードを眺めた。
もちろんミニボードは、本日の井田には用が無い。
小波の時でさえ、乗りこなせないのだから。
いつものシングルフィンか、それともトライフィンの方にしてみるか……
ていうか、その前に俺、アウトに出られるのかよ?
頭の中で大波が崩れ、岸に激しく押し寄せる白い泡波に揉みくちゃにされ、波に乗る以前に沖にさえ出られない自分の姿が容易に浮かぶ。
井田は小さく舌打ちし、迷った挙句、多分無駄になるだろうと思いながら、9フィートちょいの長さは同じ、だけどボードの裏に取り付ける牙のようなフィンの数が、一つの物と三つの物、両方を車に積んだ。
それから念のため、ボードと足首を繋ぐリーシュコードを、切れた時の予備も含めて2本と、水の入ったズシリと重いポリタンクを載せ、最後にボディボードを適当な隙間に押し込んだ。
ホナミは点検するように荷室を覗き込むと、
「板、斜めにしないでよ」
と釘を刺し、さっさと助手席に乗り込んだ。
そして井田は、相変わらずみぞおちを撫でながら運転席に座った。
「んじゃ、行きますか……」
自分を励ますようにつぶやくと、後は覚悟を決め、しかし行く先は決まらぬまま、とりあえず千葉に向けてハイエースは出発した。
空は青かった。
その空を、小さくちぎったような雲が、上空の早い風に乗ってどんどん流れていった。
その風は、公園の木々の枝を怪しく揺らし、セミの声と重なりあって、不穏な気配をかき立てた。
※ロングジョン
丈は足首で袖は無い、体にフィットするオーバーオールのようなタイプのウェットスーツ。レトロスタイルを好む人が着る場合が多い。タッパと合わせれば気温の低い春秋もOK
※タッパ
夏場、トランクス一枚では冷えそうな場合に着る上半身用のウェットスーツ。ジャージ素材、ゴム素材、半袖、長袖、袖なしなど色々ある。
※ラッシュガード
タッパよりもっと簡易的な、上半身用のナイロン素材のウェア。冷え対策というよりは、過度の日焼け防止や、怪我防止に着る。安価なので、初心者の頃はまず買い揃えるアイテムの一つ。