アタシを千葉に連れてって
猫じゃらしのサワサワそよぐ草むらで、一瞬、時が止まった。
女の子、、、だったのか!?
てっきり中学生のクソ坊主かと思ったその子は、ゆるいインディゴブルーのオーバーオールの中に、柔らかい大きな尻と、小さな胸を隠し持った女の子だった。
化粧気のない顔の中、不自然に長いまつ毛に縁取られたキツい目が、井田の目をじっと見つめていて、そのままその瞳に吸い込まれてしまいそうになった時、右の肋骨にドスッ!!と一発、鋭いヒジ鉄が入った。
「うグッ…!!」
息が詰まり、思わずギュッと抱きしめていた腕の力が緩むと、その子は井田の腕の中からサルのような素早さで飛びのき、
「ヘンタイ!!!」
と、甲高いかすれ声で叫んだ。
その独特の高い声は、遠くまで良く響き、散歩をしていた老夫婦が、おかしな様子の二人に気付いた。
それを見て、その子は唇の端を上げ、ニヤリと笑う。
井田は焦った。
「あ、いや、ごめん。男の子かと思ってつい乱暴な……」
しどろもどろで言い訳をしながら立ち上がり、両手を大きく広げ、いかにも『自分は何もしていない』と、遠くの老夫婦達にも見えるようにアピールし、一、二歩後ずさりした。そして、
「すまんっ!!」
と深く頭を下げ、そのままクルリと方向転換し、草むらから猛スピードで再び吉祥寺通りの方へ走りだした。
2人が重なり合って倒れた跡には、猫じゃらしがクシャクシャに折れ曲がり、白のメッシュキャップと、井田が頭に巻いていた手ぬぐいと、コッペパンのビニール袋が落ちていた。
その子は取り残された全てを拾い、オーバーオールの大きなポケットにねじ込んだ。
そしてビーチサンダルを脱いで裸足になると、それらを手に持ち、パアン!と合図のように打ち鳴らし、大きく息を吸い込み走り出した。
今度は井田が追われる番だった。
それはもの凄い速さだった。
その子はしっかり肘を後ろに振り上げ、グングンとスピードアップし、あっという間に井田の後ろに迫って来た。
井田は迷うことなく赤信号を無視し、その子もそれに続いた。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、
罪悪感と、微妙な興奮に呼吸は乱れ、心臓がバクバク脈打ち息苦しい。
林の中の遊歩道を下りながら振り返ると、その子がもう、井田の後ろ1メートルくらいのところにピタリと付いていて、余裕の笑みを浮かべながら、右手に握ったビーチサンダルを振って見せた。
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、な、な、なんなんだこのコは、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、
また池に戻って来たので、さっきの残り半周を左回りに入り、観念したように少しペースを落とす。
するとその子はすぐに横に並んで来て、井田の顔を覗き込んだ。
「ヘンタイさん」
「ハァ、ハァ、ハァ、ぉ、俺はヘンタイじゃない ハァ、ハァ、ハァ、間違えただけだ ハァ、ハァ、ハァ 」
「なんでアタシのこと、あんなに追っかけてきたの?」
「ハァ、 ハァ、……君、ゴミ捨てただろ ハァ、ハァ、俺の店の前に、ハァ、ハァ、ハァ…ゲホッ!! 」
息を切らしながら、井田はコッペパンのビニール袋を見せようとして、それを既にさっきの草むらに落としてきたことに気付いた。
「これでしょ?」
その子は、オーバーオールのポケットからその袋を取り出し、さっきの井田と同じように、左手でピラピラと頭上にかざしてからかった。
「最後にコレを捨てたのはヘンタイさんだよ?」
そして不自然に長くカールしたエクステの付いた目で、ニヤッと井田の横顔を見上げる。
井田はその目を見ず、まっすぐ前だけを向き、身の潔白を示すように言った。
「それは捨てたんじゃない。落したんだ。それに俺はヘンタイさんという名前ではない!」
井田はヘンタイと呼ばれることを根気強く否定したが、その子はお構いなしに続ける。
「アタシだって捨てたんじゃなくて、ヘンタイさんがあの店の二階から、裸でアタシのこと睨んでたからビックリして落しただけだよ」
井田はもう反論しなかった。
というより、もうこれ以上しゃべる余裕が無かった。
公園の中は、セミ達の合唱が響き始め、朝の平和なひと時を、ベンチに座って静かに過ごす人の姿が増えてきた。
そんな中、井田はきちんとランニング用のウェアーとシューズを履いて激しく息切れし、裸足でオーバーオールを履いた、余裕の笑顔の女の子と並走していた。
はっきり言ってカッコ悪い、と自分で思った。
井田が何も言わないので、その子は勝手に自己紹介を始めた。
「アタシ、穂波。ナカムラホナミ」
ホナミ
井田は頭の中で復唱する。
「ヘンタイさんの名前は?」
「涼。イダリョウ」
短く答える。
「リョウ」
ホナミは声に出して復唱した。そして続ける。
「ねえ、リョウさん。お願いがあるんだけど」
ホナミが早速、馴れ馴れしく下の名前を口にしたので、
「何ですか?」
と、井田はわざとそっけない声で答え、お願いという言葉に対して警戒した。
「アタシをチバに連れてって」
「へぇっ!?」
突然の話の展開に、井田はすっとんきょうな声を上げた。
「ちばァ!?」
「……どうしてそんなに驚くの?」
「いや……何しに?」
「何って……波乗りだよ、波乗り!!」
ホナミは細眉をつり上げた。そして、
「アンタ、サーフショップの人でしょ?当たり前じゃん!」
と、バカにしたように言ったので、井田はかなりムッとした。
ペースダウンしたおかげで呼吸も整い、余裕が出てきたので、何か反撃の言葉は無いかと探しにかかる。
「ショーナンじゃなくて?」
「だってチバのほうが波あんでしょ、今日」
「サイズ、頭くらいあるよ」
脅かすように言ってみる。
「上等じゃん」
ホナミが前を見つめ、嬉しそうに言ったので、井田は怪訝な顔をした。
何だこの子?たいした自信だな……
井田は波の高さが頭ほどもある海なんて、全然入りたくなかった。なので、
「今日は定休日だ。サーフィンスクールは無しだ」
と、テキトーなことを言って、もう千葉の話はお終いにしようとしたが、ホナミはしつこく食らいつく。
「うそ!先月は火曜日だって、あのくらいの時間に車出してた時あったじゃん」
う、何でそんなことまで知ってるんだ……?
店の前で張り込みでもしてたのか?スバル君のストーカーか?!
「スクール担当のプロサーファーは先月辞めた」
井田は事務的に答えた。
「スクールじゃなくて良いんだって。ただ連れてってもらえれば。お金はちゃんと払うから!」
「……残念ながら俺は今日、具合が悪い」
「どこが??」
「……吐き気がする」
「あんなに走ってたじゃん!!」
井田が言い訳がましい事を言うのを、ホナミはキツく睨んだ。
「それにさっき肩から転んで、腕も痛い」
最後はかなりのスローペースで池をほぼ一周回り終えると、井田のオシャレでカッコいい大事な店、ブルーガーデンが見えてきた。
その頃にはもうすっかり体も心も平静を取り戻し、もっともらしい言い訳が口をつく。
「痛くてテイクオフなんて、できないかもしれない」
そう言って右肩を押さえ、ほとんど走るのは止め、歩きながら演技した。
「左肩から落ちたクセに」
子供みたいに仮病を装う井田を見て、ホナミがクスッと笑う。
「と、とにかく!今日はサーフィンしたい気分じゃないんだ!!」
あっさりとウソを見破られ、井田は立ち止まって真っ赤になり、ついにキレ気味に怒鳴った。
セミたちが、井田の仮病をかばうように、
ジョワジョワジョワジョワジョワジョワジョワジョワジョワジョワ……
と、ホナミに抗議する。
するとホナミは井田に大きく近づき、腕を掴んで顔を寄せ、
「連れてってくれないと、ブルーガーデンのイダリョウさんはヘンタイだって近所の人に言いふらすよ」
と、耳元でそっと囁いた。セミに聞かれないように。
短い髪の毛から果物みたいな甘い香りが汗と混じり、濃厚に漂ってきたので、井田はドキッとして慌ててホナミの手を振りほどいた。
ホナミは涼しげな目で笑うと、
「20分で戻って来るから支度しといて」
と言い残し、また子ザルのように走り出し、遊歩道をブルーガーデンの先50メートルほど行ったところで左に曲がり、住宅地の方へ姿を消した。
何なんだいったい……
井田はその場に座り込み、じっとりと汗で濡れたTシャツの上から、みぞおちの辺りを抑えた。
ジョワジョワジョワジョワジョワジョワジョワジョワジョワジョワ……