俺から逃げられると思うなよ!
流し台の横に掛けてあった食器用の手ぬぐいで、濡れた顔と頭をゴシゴシ拭い、そのままその手ぬぐいを頭にキツく巻くと、井田はトイレに行って長い小便を済ませた。
それからまた和室に戻り、無垢のパイン材のチェストの中からランニング用ショートパンツと、薄地のTシャツを引っ張り出して着た。
そして古びた木製の急な階段を降り、一段に一足ずつ置いてある靴の中から、履き込まれた黒のランニングシューズをひっ掴み、一番下の段に座って履くと、靴ヒモを目一杯しぼり上げた。
くそ。馬鹿にしやがって。どいつもこいつも!!
井田は無性に誰かに、もしくは何かに対して苛立っていた。
温厚な井田にしては珍しいことだ。
階段から立ち上がり、きれいに並んだ売れないサーフボードの前をズカズカ横切り、お気に入りのビキニ姿のカリフォルニアガールが、カワイイお尻をこちらに向けてウィンクしている古いポスターに目もくれず、格子戸をカラカラ開いて外に出ると、ピシャリと大きな音を立てて閉じた。
井田は海に入れない日が続いて運動不足になってくると、ランニングをするようにしている。
『海に入れない』というのは『仕事が忙しくて海に行かれない』という意味の他に、波のサイズが胸より高くて『行ったけど入れない』という意味も含む。
朝6時過ぎ、公園の散歩道は走る人の他にも、ウォーキングや、犬の散歩をする人などが頻繁に行き来している。
井田は店の前で念入りにストレッチをした。
腰を落として深い伸脚をしていると、目の前にチワワがやって来て、背中を丸めて気張り始め、猫より細いウンコを2本した。
飼い主のオバチャンは「あら、イイうんちがでまちたね〜」と、後足で得意げにカリカリと地面を掻くチワワをよく褒め、ポケットティッシュを2枚取り出しウンコを拾うと、井田には一言の詫びも無く立ち去った。
井田はめまいがした。
しかし気を取り直し、ようやく走り出そうとした時、さっき少年が座っていた木の柵の下に、透明のビニール袋が落ちているのが目に入った。
拾い上げると『濃甘ミルキーコッペパン 90円』と印刷されていた。
あのクソガキ〜〜〜〜〜〜〜!!!!
井田はそのゴミを、ランニングパンツの小さなポケットにクシャクシャと突っ込み、もうあとは怒りに突き上げられるように走り出した。
高い木々に鬱蒼と覆われた散歩道を、池に沿って左向きに走る。
早いピッチで脚を繰り出し、小太りの中年ランナーを追い越す。
次に、さっきのチワワのオバチャンの横を、ワザとすれすれにチワワを脅すように走り抜ける。
可哀そうなチワワは、ピャンッピャンッピャンッ!!と、頭に響く高音で、井田の後ろ姿に吠えついた。
ふん、犬みたいな声で鳴きやがって。
俺は認めないそ、アレが犬だなんて……断固として!!
井田の頭の中は、いつもの善人ぶりの反動で、荒れすさんだ独断と偏見に満ちていた。
ジョギング用ヘッドホンを付けて、不必要に体を揺らして走る青年を追い抜かす。
呼吸を乱すことも無く、そのままハイペースで弁財天の横を抜け、池は回らず、動物園のある公園の方に向かう。
その時、吉祥寺通りを横切る赤信号で、さっきの少年が立ち止まっている後ろ姿が見えた。
あ、あのガキ、まだあんなところでウロウロしてやがった……!!
井田はポケットからビニール袋を取り出すと、少年に向かって、
「おーーい、コッペパン野郎!!」
と、大きな声で叫んだ。
その声に反応し、少年は緩慢に振り向いた。
そして井田の顔を見て、さっきサーフショップの二階から自分を睨みつけていた男だと気付き、その男が右手に何かピラピラしたモノを高く掲げ、鬼のような形相でこっちに向かって走って来るのを見てギョッとした。
反射的に身の危険を感じた少年は、慌てて左右を見ると、車が来ないことを確認し、そのまま赤信号を無視して通りを突っ切った。
「あ、待て、この!!」
ちょうど井田が吉祥寺通りに出た時、信号が青に変わったので、井田はそのままスピードを落とさず通りを渡り、さらにピッチを上げてコッペパン野郎を追う。
少年は後ろを振り向き振り向き、ビーチサンダルのまま、それでもかなりの速さで走った。
俺から逃げられると思うなよ〜!?
井田はムキになって少年を追いたてた。
少年は、追われている理由もよく分からないまま、とにかく必死で逃げる。
捕まったらタダでは済まないような気配が、井田の全身からみなぎっていた。
すれ違った人が、二人のデッドヒートを何事かと振り返って見る。
このままでは追い付かれる、と思った少年は、なんとか井田を巻いてやろうと、遊歩道から横に逸れ、今度は膝くらいの丈の猫じゃらしの草むらの中を、ヒョイヒョイと飛ぶように走り、その奥の雑木林に逃げ込もうとした。
しかし、所詮ランニングシューズを履いた、執拗な井田の追跡からは逃げ切れるはずも無かった。
「待てってば、こらっ!」
雑木林に逃げ込まれる前に、井田は少年のすぐ後ろに追いつくと、ビニール袋を右手に持ち替え、左手を伸ばし、
オーバーオールの後ろをむんずと掴んだ。
すると少年は急にバランスを崩し、スピードダウンしてよろけ、井田はそれにつんのめって後ろから抱きつくように覆いかぶさり……
その時、スローモーションのように倒れながら
きゃあっ!!!
という、甲高い悲鳴を聞き
次に腕の中に
むにゅうぅぅぅっ
という
久しく触れていない懐かしいモノを感じ……
えっ?!
白いメッシュキャップが横に飛び
あ、ヤバ……!
瞬間、その子をつぶさないように身を捻り
左肩から草むらに落ち
勢いあまり一回転半し
なんだ!?
気が付くと
その子の柔らかくて
大きな尻が
井田の腹の上にあって
草の匂いに交じり
うそ!?
目の前の短い髪の毛から
まじ!?
果物みたいな
女の子の香りがして
そして
草むらの中で後ろから抱きしめられたまま
その子は首を捻って井田の顔を見上げた
息を切らしたその横顔の
長いまつ毛の先に
青い空が見えた