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あたしはアヒル3  作者: るりまつ
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約束を果たす


 タケルは、とてつもない重量感を体全体に感じながら、巨大な波の中をくぐっていた。


 まるでカガミハマの女神に魅せられたかのように、 本郷の指示を振り切って、アウトサイドに向かったタケル。

 そして、未だかつて経験した事の無い大波を目の前にして、 タケルの中の恐怖心は、一瞬のうちに脳の奥底へとしまい込まれ、代わりに強力な本能が呼び覚まされていた。


 仮に、頭の中に恐怖心が一片でも残っていたとしたら、 すでに体は今くぐり抜けているこの波の勢いに押し戻され、ボードごと巻き上げられて水面下の岩礁に叩きつけられ、 一巻の終わりとなっているだろう。

 けれど研ぎ澄まされた本能は、タケルの体を完全に支配し、次に何をするべきか、声なき指示を的確に与え続けていた。


 背中にのしかかっていた波の重さが軽くなり、目の前がぼんやりと明るくなると、タケルはしっかりとボードのレールを掴んで胸を反らし、無事、三本目の波の裏側に顔を出した。

 そして大きく口を開いて深呼吸し、肺いっぱいに取りこまれた酸素は、すぐさま赤血球と共に体の隅々に送り届けられ、両腕は力強くパドルを開始し、そして視覚は、すでに膨らみきった4本目の波の形状を、しっかりと捉えていた。


 波の高さは6メートル……いや、下から見上げるとそれ以上あるようにも見えた。

 これほどのサイズになると、海の中から正確に何メートルなんて判断できないし、大体からしてそんな事、これから波に乗ろうとしてるサーファーにとって、もはや意味が無い。

 タケルも、これがトリプルだろうがそれ以上だろうが、もうどうでも良かった。

 例えどれだけ大きな波だとしても、本能がGOサインを出したなら、 あとは迷わず、自分に巡って来た自分の為の波に乗るだけだ。



 ただ、『波に乗る』



 そして『乗らない』という選択肢は、既にタケルの中で除外されていた。

 この巨大な波から必死で逃げ、お終いにすることだってできる。

 けれどタケルには、そんな気なんてさらさらなかった。

 ハナコとの約束を、なんとしてでも果たしたかった。


 目の前に高くせり上がった波の壁には、いかにも陰惨な青黒いまだら模様が浮かび上がり、その一番高い波の頂点を見上げると、波先が白くふやけた数万匹の蛆虫うじむしのように、 ザワザワと不気味にうごめいている。


 タケルは黒い大きな目で、素早く波全体に視線を走らせ、ある一点を見極めた。

 そして、あと少しで数万の蛆が降り注いで来そうなザワつくピークよりも、 やや左側を狙ってボードの位置を合わせて行く。

 ここを見誤ると、ブレイクする波にすぐに追いつかれ、ボードを掴まれあっけなくなぎ倒されるか、スピード不足で波に置いて行かれ、せっかく巡り合わせた巨大な波に乗り損ねてしまう。

 大きな波ほど、確実に捉えるにはスピードが必要だ。

 タケルはいつも以上のフルパドルで、ボードの位置をピタリと定め、そのままノーズを左回りで転回させる。

 波に背を向けると、数十万トンもの水量を持つ凄まじいパワーが、体を突き破りそうな勢いで迫って来るのを感じた。

 ボードがまるで、邪悪な青い腕に引っ張られるかのように、波の壁にグイグイと高く持ち上げられて行く。

 それに負けじと更に強く、パドルでボードを加速させる。見えない綱引き。そして遂にボードのスピードが波のパワーを上回り、テールを掴んでいた執念深い青い腕が、スッパリと切り落とされた。

 白いボードが、今にも崩れ落ちそうな波の頂点ギリギリの所から走り出す。

 タケルはそれを更に胸で押し出し、弾みを付けるようにボードに手をつき素早いテイクオフ。

 迷い無くボードに立つと、視界がぐんと広がり、まるで魚眼レンズのように、カガミハマの全ての景色が、いっぺんに目の中に飛び込んで来た。  

 大きくそそり立つ、強い風雨にさらされた波の斜面を、タケルの白く細いボードが、レギュラー方向に滑降し始める。

 この日のために用意された、真新しい長めのボードは、ぶれる事なく荒れた斜面を滑り降り、鋭い刀のように青黒い壁を斬りつけながら、どんどん加速し、スムーズにボトムまで到着した。

 そしてヒザを落とし、勢いに飛ばされないよう体とボードを思い切り波に傾け、大きく伸びのあるターンが決まると、スピードを貯め込んだしなやかなボードは、そのエネルギーを最大限に生かし、一気に斜面を駆け上がり始めた。


 波は、天地が狂ったかのように轟々と音を立てながら下から上へと大量の海水を吸い上げる。

 そしてそれを繰り返しながら、タケルの目の前に延々と荒削りな斜面を生み出し、繋いで行く。 白いボードがそれを追う。

 そしてフルスピードで爆進しながら、タケルの目はその中に一本のラインを捉えた。


 それは歪んだ波面の中にあってもただ一つ、真っすぐにタケルを導いているかのように見えた。


 タケルはその不確かな道しるべに向かって、ボードをグッと踏み込んだ。

 するとボードはすぐにそのラインを見極め、波の壁を横へまっしぐらに走り出した。


 姿勢を更に低く落とす。


 そして、波に自分とボードをゆだね、タケルは完全に『無』の状態になった。


 ボードをコントロールしようとか、この波を制覇してやろうなどという考えは全く消え失せた。

 ただ大きく目を見開き、前からやって来て、そして過ぎていくその一瞬一瞬を、あるがままに、自分の体の中へ通すように進んで行く。


 すると波の轟音の他に、タケルの耳に、かすかに何かが聞こえてきた。

 

 細かく震えるような振動が、鼓膜を通って全身に広がって行く。

 囁くように聞こえてくるその音は、まるでタケルを呼ぶ、波の歌声のようだった。

 そしてただただ、その歌声に誘われるように、今タケルは、大きな波の中で、ちっぽけな生き物の一つとして、そこに『存在』していた。


 半ば放心状態で、低い姿勢のまま、その歌声の中で進行方向を見つめていると、視界の上方から徐々に青黒いものが伸びてきて、それがいつしかボトムと繋がり、気が付くとタケルは、一面、青の世界に入り込んでいた。


 魚眼レンズのように見えていた巨大な波と、カガミハマの景色全体は、急に万華鏡を覗いているかのように、細く長く狭まった。

 そしてキラキラと青く細かい光を撒き散らしながら、波に合わせて左へ左へと回転している。

 白く遠くに見えるチューブの出口の一点以外は、全てが青い宝石のように光り輝き、タケルを中心に、止まることなく回り続ける。


 これが本カガミのチューブ。


 真っ青な、カガミハマの女神の胎内だ。


 表から見ていた荒削りで、どす黒かった斜面とは全く様子が異なり、その内側は驚くほど美しく、強い生命力がみなぎっているように感じられた。

 その光る青い粒子が渦のように一定方向に回転しているのを見ているうちに、タケルはまるで、自分自身が微細な光る粒子の一つであり、なおかつ、大きな渦そのものになっていくような錯覚に陥った。

 自分の肉体は溶けて無くなり、波と一緒に回り始めたような不思議な感覚。

 俊敏であり、鈍麻でもあるような身体感覚。 意識の収縮と膨張の繰り返し。


 バラバラになったタケルの細胞一つ一つに、波のエネルギー全てが注ぎ込まれ、核を刺激し、満たし、溢れ、どこまでも果てしなく膨らんでいく……

 

 そんなある種、ミクロとマクロの交差したエクスタシーのような感覚に包まれる。


 上も下も、中も外も、全てが青く、光りながら回転している。


  


    きれいだ……




 タケルの顔に恍惚とした表情が浮かんだ。

 至福の境地を感じながら、タケルは波に乗っているということも忘れて、いつしか真っ青なチューブの中で棒立ちになった。


 そして宇宙のような、あるいは子宮のようなその空間で、 ゆっくりと天を仰ぐように腕を上げ、それから大いなるものに祈りを捧げるように、その両手を額の前で組んで目を閉じた。


 時間で言ったらほんの一瞬。

 けれどまるで、永遠のように感じられたその幸福感。

 

そして突如としてその瞬間に終わりが訪れた。


 上体を反るようにして祈っていた足元で、サーフボードが大きくぶれた。

 そしてそのまま、タケルの上体は後ろへ倒れて行き、


 ボードから、足が離れた。



 


      あぁ……


                  

                


 その瞬間、

 タケルの体に全ての感覚が甦った。


 まるで百本の矢が同時に命中したかのように、陶酔感は粉々に砕け散り、視覚が、青く渦巻くチューブの中で、自分が今まさにワイプアウトしかけていることを自覚させ、それが激しい恐怖を呼び覚ました。

 そして歌声は消え去り、代わりにタケルの背後で、凄まじい波の爆音が聞こえてきた。


 まるで、老朽化したビルに仕掛けられたダイナマイトが、次々に爆発していくような猛烈な破壊音が、後ろから迫って来る。

 青いチューブが最期の時を迎え、タケルを中に残したまま、今まさに閉じようとしていた。


 その時、崩壊して行く空洞の中で、行き場を失った空気が急激に凝縮された。

 そして膨大な圧を貯め込み、それが水蒸気爆発のように一気に外へ解き放たれた。


 強烈な爆風が、潰れかけたチューブの中を吹き抜ける。


 その爆風と共に、タケルの体は真空管を突き破るかのように、空高く吹き飛ばされた。


 サーフボードと共に。


 まるでちっぽけな人形のように、手足を広げて。

 









あたしはアヒル3 完

この小説は、2012年12月11日にここまで書いて以来、一行も進んでおりません。


いつか続きが書ける日が来ることを願いながら、ここで一度、完結とさせていただきます。


お読みいただいた皆様、どうも有難うございます。


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