波と龍
「ひゃー!!ゲーム、中止中止!!おい、オマエら絶対、二本目乗りそびれんなよ!!」
ケンジの言葉を聞くまでも無く、 本郷とタケルは沖に向かって猛然とパドルを開始していた。
腕の回る限りフルスピードで。
仮にもし今、間抜けな声で「ゲーム、スタート〜〜〜!」とか言われたら、 タケルは恐らく本郷をグーで殴り飛ばし、 ケンジにチョキで目潰しを食らわせていただろう。
もう、ふざけている場合じゃない。
波の高さは、5メートル近くあるように見えた。
身長の2倍以上。ダブルオーバーだ。
しかも波のブレイクポイントは、 あらかじめタケル達が波待ちしていた場所より 大きく沖寄りにずれている。
本郷とタケルの位置からでは、もうこの一本目の波に乗るのは手遅れだ。
このままここでグズグズしていたら、迫りくる5メートルほどの高さの波が、 鋭い刃を持ったギロチンのように、二人の首に崩れ落ちて来るだろう。
それを避けるために、タケルと本郷はとにかく全力パドルで、この波を越えるしかなかった。
タケルは、このサイズの波と対峙するのは初めてだった。
今までは、カガミハマの手カガミポイントの方で、ダブル程の波を乗りこなした事が2回あるだけ。
それは受験生だった去年の秋、その年最後の台風が去ったあとのバックスウェルで、 オフショアに磨かれた、高く美しい波を滑り降り、チューブの中を疾走するという、 胸のすくような素晴らしい経験だった。
そしてそれ以降、『次はダブルオーバーを乗りこなす』というのが、 サーフィンを始めて五年目になるタケルの一つの目標であり、憧れだった。
しかし今、オンショアの風に揺さぶられながら、高く広くそびえ立つこの波は、 今まで海外のサーフ映像などで見たパーフェクトなビッグウェーブとは似ても似つかず、 同じようなサイズと言っても、全く異質な迫力を持って目前に迫っていた。
その波の壁を、パドルの手を休めることなく必死で登る。
そして登りながらふと横目で波を端まで見渡した時、 青黒く不透明にざわめく壁に、白い波紋が浮かび上がり、 それが歪んだ女の横顔のように見えた。
その女の妖気漂う流し目を全身に浴びたような錯覚に、タケルは一瞬、ゾクッと寒気を覚えた。
レギュラー側のショルダーでは、ケンジがその波に合わせて、テイクオフの位置をややピーク寄りに戻しながらパドルを始めていた。
ケンジの表情は別人のように引き締まり、そして自信に満ちていた。
おそらく本日〆の一本として挑むのだろう。
波面は今までと同じく荒削りだったけれど、 高さと幅がある分、間延びして見えるのか、ケンジにとっては今の方がスムーズに繋いでいかれる波に思えた。
そしてケンジが岸側に方向転換し、テイクオフの体勢に入るのを見て、グーフィー側の端に控えていたササラは、もう一度タケル達の姿を素早く確認した。
その時二人は、ギロチンの刃が今まさに落とされようとする所を危うくすり抜け、波の壁に魚のように潜り込んだところだった。
ササラがさっき波待ちしながら見た限りでは、 次の二本目の波も同じくらいのサイズ。
その後の3本目と4本目がヤバそうだった。
けれど二人が上手く次の波を、左右に分けてライディングすれば、その後がいくらデカいとしても、このセットはしのげるはずだ。
本郷はもちろん心配ないし、タケルだって初めての本カガミの波だけど、テイクオフさえ怯まずに突っ込めれば、問題ないと信じていた。
なので二人が波の裏に無事に消えたのを確認すると、後はもう自分自身の安全も考え、そのまま迷わずグーフィー方向へとテイクオフして行った。
そしてガタつく波のフェイスにレールを弾かれそうになりながらも、 真っ白な塊りとなって後ろから迫ってくる、背の高さほどもある分厚いスープを交わして駆け抜け、最後は大きく弧を描いてターンをすると、 盛り上がる泡の中に身をゆだねるようにプルアウトした。
ケンジのボードも、波の壁を切り裂くようにレギュラー方向に疾走していた。
それに追いつくように上から波先が庇のように伸びて来て、その姿を一瞬隠す。
束の間のチューブ。期待していなかった巻き波に、ケンジは低い姿勢をとると、右手で波の壁に触れ、ストールしながらもう一度チューブインを試みた。
その直後、進行方向の下部に現れた変則的な波のコブにボードを掬われ、体は慣性の法則に従って前に吹っ飛び、ボードは巻き上がり、そこで大きな音を立てて波の暗幕が閉じた。
そして本郷とタケル。
一本目の波を無事くぐり抜けた先は、恐らく二本目の波のテイクオフに、ベストな位置となっているだろうとタケルは予想していた。
期待と不安と緊張で、ボードを押さえて潜った波の水圧が、いつもよりずっしりと重くのしかかるように感じられる。
その硬く締まったゼラチンのような波の中を、押し戻されずに無事につるりと抜け出ると、本郷とタケルは海面に顔を突き出し、同時に口を大きく開いて深く息を吸った。
浮上した途端に激しい雨が叩きつけて来たけれど、不思議とエラがあるわけでもないのに、水と空気は上手く仕分けされて、酸素だけが肺にしっかり送り込まれる。
そして深呼吸を終えた二人の目の先に映ったもの。
それは今くぐったのとほぼ同じくらいの二本目の波。
それからその後に控えた、それより明らかに大きな、三本、四本、と続く波の筋……
その光景は、黒灰色のたっぷりとした絵の具で描かれた山脈のようで、旅先から何の前触れも無く届いた絵ハガキみたいに、タケルの目に他人事として映った。
何だ、ありゃ・・・・
けれど今、目の前に横に長く重なり広がる灰色の筋は山脈では無く、 絵葉書でもなく、まぎれもなく波だった。
そして身をよじりながら移動する巨大な青虫の背中のように、収縮を繰り返しながら確実にこちらに向かって近づいて来ている。
「やべぇよっ!!」
本郷が叫んだ。
その横で、タケルは言葉を失い、ただ目を丸く見開いていた。
それはタケルの想像力の枠を遥かに越える大きさだった。
大きさも勿論だけど、それより何より、その波を取り巻く陰惨な気配がただ事では無い。
吹きすさぶ強風と大雨に、無理矢理たたき起こされた海神が、海の底から今まさにむっくりと不機嫌に起き上がり……
そんな、次に何が起こるか予測できない、言い知れない恐怖を孕んだ波。
「おい、タケル!バックレんぞ!!」
憑り付かれたように沖を見つめたままのタケルを、本郷はもう一度怒鳴りつけた。
目の前には、決して良くは無いけれど、憧れだったダブルオーバーの波が近づいている。
しかしこれさえも小さくパーフェクトに感じられるほど、その裏に見えている2本の波は大きく危険な匂いがした。
「ボッとしてんじゃねぇ!!さっさとレギュラー乗って行け!」
これを逃したら、次の陰惨極まりない波に飲み込まれる。
本郷はグーフィー方向にすぐさまパドルを開始した。
これに乗って何とかミドルのショルダーまで乗り継いで行かれれば、 後の巨大な波が二本立て続けに炸裂したとしても、そしてどんなに猛烈なスープが押し寄せてきたとしても、やり過ごすことはできるはず。
ケンジとササラも、一本目の波を無事乗り終え、既にミドル寄りの端に退避している。
それでも残った二人の事が気になるのか、そこでアウトをじっと見据えて待っていた。
タケルは本郷に一歩遅れてパドルを開始した。
そしてくるりと方向転換した。
「……ゴウさん、ごめんね」
アウトサイドの方へ。
「なっ……!?バカ、おまえっどっち……!!!」
本郷は、タケルが次第に沖へと離れて行くのに気付き、しかしもう既に自分自身のボードが、グーフィーへと滑り始めたのを止める事も出来ず、すぐさま進行方向に視線を戻してボードに立った。
よそ見のせいで一瞬バランスが崩れる。
しかしそれを気合で修正。
ここでパーリングなんかして、ボトムに垂直落下するわけにはいかない。
この波自体、5メートル近い高さがあるというのに、その上、更に裏のバカ波を二本、立て続けに食らったら、もうそれはボードが折れるくらいじゃ済まされない。
ボトムにねじ込まれてリーフで大ケガするか、下手すると命に係わる。
高い斜面をなんとか横に滑り切り、際どい所をすり抜けると、本郷は大きな声でササラを呼んだ。
ササラは既に、鬼のような形相で本郷に向かってパドルして来ていた。
「ロミオ、あ、、あいつ、、、あいつ、行っちまいやがった!!」
「ばっっかやろぉっ!何で止めねぇんだ、おめぇはよぉぉっ!!!!」
「止めたよ、ていぅか今の乗れって、、、やべぇって言ったのに、あいつ急に、、、!!!」
真っ青な顔で叫ぶ本郷。
遠くレギュラー側ではケンジが、ややアウト寄りに戻ってタケルの姿を目で追っていた。
それからすぐに、ササラと本郷に向かって身ぶりで合図を送ってきた。
これだけの距離と激しい風雨の中では、さすがにケンジの怒鳴り声も聞こえない。
それでもケンジは二人に向かって片手を高く上げ、その手で二度アウトサイドの方を指差し、そしてササラと本郷の方を指して、それをインサイドの方向へとはっきり向けた。
それを見て、ササラもケンジに向かって手を掲げ、それから本郷に言った。
「ゴウ、おめー速攻上がれ!……何かあったら最後は海保な……」
「俺が……いや、分かった。あと頼むっ!!」
本郷は一瞬何か言おうとしたが、すぐにササラの指示に従うと、あとは猛然とインサイドに向かってパドルして行った。
ローカル達の間で、特にそんな手信号があるわけじゃない。
でも瞬間的に、ケンジの言いたいことはササラにも本郷にも分かった。
『タケルは4本目の波に乗る。どっちの方向にテイクオフするかは分からないけれど、レギュラーには自分が、そしてグーフィーにも一人待機してろ、そしてもう一人はオカに上がって、何かあったらすぐに『海上保安庁』に連絡しろ』
そういうことだ。
「あのクソばか・・・・・」
三本目、なんとかやり過ごせ……
そしたら、もし四本目は乗りしくじったとしても、 後ろにはもうデカ波は無い。
溺れたとしても…間に合う……
ササラは沖に盛り上がる不気味な三本目の黒い波の塊りが、本カガミのアウトサイドいっぱいに広がりつくすのを見上げた。
タケルが、その波をちっぽけな赤アリのように這い上がり、吸い込まれるように消えて行く。
それを見て、思わず自分も息を止めた。
そして両手で二の腕に彫り込まれた、波と龍を強く握りしめた。




