ボード 売らなきゃ
スバル君は徳島へ行ってしまった。
井田はブルーガーデンで一人になった。
8月最初の火曜の朝。
その日は定休日だったけれど、井田は自然に4時半に目が覚めた。
いつもだったら、初心者のサーフィンスクールに出発するスバル君がそっと起き出し、小さな板張りの台所で白いホーローのケトルを火にかけ、コーヒーを淹れ始める時間である。
そう。いつもだったら……
襖で仕切られた、二間続きの和室の片方で寝ている井田の方まで、コーヒーの良い香りがほのかに漂ってきて、小さなカタコトという音がひとしきり続いた後、軽い足音が木の階段を降りて行く。
そしてしばらくすると、ガレージのシャッターが開く音がして、ハイエースの重いエンジン音が響き、ゆっくりと発進し、次第に遠ざかっていく。
それを聞き届けた井田は、またタオルケットを股の間に挟み直して二度寝をし、次にノソノソと8時頃に起きてくると、スバル君が使った布団はきちんと畳んで積んであり、井田が大事にしてると知っているビンテージのマグカップが、水切りカゴの中にキレイに洗って置いてあって……
そんなことを思い出すと、井田の胸の中は砂が溜まったように重くなった。
障子の手前に下げたブラインドの隙間から忍び込む夏の朝陽が、敷布団に横たわったままの裸の体に、もうじっとりと今日の暑さを伝えてくる。
エアコンのタイマーはとっくに切れていて、不快な目覚めだ。
汗ばんだタオルケットを足元に押しやり、枕元に置いてあった携帯電話を手に取り、半分眠ったままの頭で、とりあえず波情報をチェックする。
数日前に発生した台風が徐々に北上し、九州へと近付きつつある。
波のサイズは、千葉ですでに『頭前後※』、湘南で『腿腰の混雑』となっていた。
千葉南は風向きも合っていて、波の面もまだ整っているようだけど、残念ながら井田の技量圏外だ。
モモコシか……久しぶりに鵠沼でちょこっと入って、ショップに顔出して、誰かと一緒に美味い生パスタでも食って……
楽しい想像が湧いてきて、いつも世話になっていた気の良いサーフショップの面々が頭に浮んだ。
しかし次の瞬間、なぜか急に鳩尾の辺りが硬くなった感じがした。
それとも湘南はやめて、行方の入り江なら、きっとコシハラくらいのちょうどいい波が割れてるかも……
しかし今度はそう思った途端、さっきの鳩尾の奥がギューッと握られたように痛んだ。
さらには、ブルーガーデンオープン時にわざわざ足を運んでくれた、御園生と親しい行方のローカルサーファーや近隣のサーフショップのオーナー、最後にはハナコの顔が思い浮かんだだけでもムカムカとしてきた。
井田は不安になった。
どこか具合が悪いのかもしれない。
そしてタオルケットを頭にかぶり、もう一度エアコンをオンにして、二度寝しようと試みた。
けれど今度は、サーフボードやウェットのメーカー担当者、その他の同業者、それに自分がセレクトショップの『Green Garden』にいた時に苦楽を共にした、懐かしいスタッフの顔まで浮かんできて、もうとてもじゃないけど、寝ていられる気分では無くなった。
あぁ、もうっ!!
井田はタオルケットを放り出して布団から起き上がると、ブラインドをザッザッ!!と荒々しく上げ、障子をカンッ!と横に乱暴に開いた。
朝から強い日差しに、眉根を寄せて目を細める。
緑の池が、油のようにギラギラ照り返している。
もうすぐここに、カモと人間がやってきて、妙な鳥の形をした足こぎボートが一面に浮かび、バシャバシャと下手くそなパドリングのような音を立てるのだ。
海も池も一緒だ。ウザい。暑い。
エアコンはもう消して、窓を開けて風を入れようと木の窓枠に手をかけた時、公園の遊歩道を挟んで向かいの、池を囲むように巡らされた丸太の柵に、キャップをかぶった小柄な少年が座って、コッペパンを食べているのが目に入った。
白のメッシュキャップに、水色のゆるゆるのTシャツと、インディゴブルーのオーバーオールの裾をヒザの近くまでロールアップして穿き、黒のビーチサンダルを足先でユラユラと遊ばせている。
そしてその脚もコッペパンを握った手も腕も、真っ黒に日焼けしている。
一瞬スバル君かと思ったが、すぐにそんなはずは無いと思い直した。
日焼けした脚の右足首にはリーシュコードの跡も無かったし、スネ毛も生えていない。
こんな朝早くから、中学生か?
少し建てつけの悪い窓枠を、力を入れて押し開けると、キュキュキュキュッという鳥が鳴くような音が辺りに響いて、パンを口に頬張っていた少年が、不意に顔を上げた。
その時、目と目が合った。
高い所から不機嫌な表情で自分を見降ろしている井田に気づくと、その子は驚いてコッペパンを喉に詰まらせ、目を最大限に見開いて、
う、グッ、、、ガハーーーーーーーーッ!!!
と品の無い音を立て、胸をドンドンと叩きながら、逃げるようにその場から走り去った。
まるで大型犬がドライフードをがっついて食べ過ぎ、吐き出す時のような音を聞き、井田はますます気分が悪くなった。
そしてキッチンに向かい、水道の蛇口を全開に捻り、勢い良く出る水に顔を近づけ、口に含んだ。
ガラガラと口を濯ぎ、込み上げてきた苦い胃液と共に流しに吐き出す。
ついでに顔もザブザブと洗い、そのまま頭を蛇口の下に突き出し、目を閉じた。
ぬるい水が、店のオープン以来ずっと中途半端に伸びたままの髪を、あっという間に濡らしていく。
頭の中は、考えたくないことでいっぱいだった。
ブルーガーデンの店長になってから、気付いてるのに気付いて無いフリをしている事を、このまま水と一緒に洗い流してしまいたかった。
関わりたくないのに関わらなくてはいけない事が増え、それを見て見ぬフリをして先延ばしにしてきた。
今まではスバル君がいてくれたお陰で何とかなっていた事が、もう何ともできない。
井田が、何とかしなくてはならないのだ。
このままではマズイ。
何とかしなくては。
俺は、俺は……この店の、店長なんだから!!!
サーフボード、売らなきゃ……
頭前後ーーー波のサイズが、岸側から見て2メートル位。一般的なサーファーにとっては、大きくて勢いも強く、乗るのが困難になって来るサイズ。
腿腰ーーー1メートル前後。初心者にとっても入りやすい、安全なサイズ。
同じ台風の日でも、地形や風向き、うねりの向きなどによって、波のサイズはかなり変わる。