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あたしはアヒル3  作者: るりまつ
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耳打ち



 いつの間にか、ラウンジの外に広がっていた鮮やかな景色は、モノクロームへと変わっていた。


 灰色の雲がぎっしりと空に詰まってせめぎ合い、波はまだ穏やかそうに見えるけど、遠く入り江の外からは激しい海鳴りが聞こえ、そしてラウンジの中は重苦しい沈黙に包まれていた。


 その沈黙を破ったのは、ハナコの残酷な一言だった。


「井田さん、、、ごめんなさい……私、イサキのお皿、引っくり返しちゃって……マグロでも良いかしら?」


 ハナコはカウンターの中から、拝むように口の前で両手を合わせ、申し訳なさそうに言った。



  皿を、引っくり返しただと……?


  俺のイサキを、、、ひっくり返しただとお??



 その言葉が、井田の機嫌にとどめを刺した。

 さっき頭に昇った血が、今度は一気に足元へ下がる音が、体の中で聞こえた。

 ついでに血糖値も下がったようで、軽いめまいにまで襲われた。


 ハナコが刺身の皿を引っくり返したのは、井田が大きな声を出したからだ。

 『はしたない!』と叫んだ直後、キッチンの中でゴトンッ、という鈍い音がしたのは井田の耳にも聞こえていた。

 美しく皿に盛られた艶やかなイサキの刺身は、井田にきょう)される前に、床に敷かれたゴムマットの上に落ちてバラバラに飛び散ったのだろう。


 自業自得だった。

 そしてハナコに『マグロでも良いかしら?』と言われてしまったら、もうそれは『マグロです』という事なのだ。

 選択の余地は無い。通常ならば。

 しかし井田は、それを認めなかった。


「ハナコさん、引っくり返ったのでいいです。それ、洗って拭いて出してくれれば、ボク食べますから。もったいないですし。それにもう、腹減って我慢できないんです。マグロ切ってたらもっと時間かかるんでしょう?だったら落ちたの洗って出して下さいよ!」


 落してしまったと白状した刺身を、ハナコだって今さら客に出せるわけが無かった。

 それを分かっていながら、嫌がらせのような事を敢えて言う。

 なんて根性の曲がった小さな男なんだろう……。言いながら自分でそう思った。

 でももう井田は、自分の気持ちをコントロールできなくなっていた。


 それを聞いた哲郎が、クックック、と天井を見上げながら、形の良い額に手を当てて笑いだした。


「よぉハナコ、そうしてやれよ。本人が良いって言ってんだから。どうせスタッフなんだし。それに確かに待たせ過ぎだぜ?腹減ってイライラもするよ。なぁ? あ〜〜〜ぁ、オレもタバコ吸いたくなってきた。ちょっと失礼するぜ」


 哲郎はハナコと井田に、フォローなのかイヤミなのか分からないような言い方をすると、Tシャツの胸ポケットにピッタリと収まった赤い箱を取り出して立ち上がり、やれやれと大きく伸びをし、バーカウンターの方に歩いて行った。


「わかったわ……。井田さん、本当にごめんなさいね」


  そうだ。俺が悪いんじゃない。

  落としたハナコさんが悪いんだ。


 けれどハナコだって、調理中にホナミにベラベラと話しかけられて調子が狂い、いつもより手間取っていたのだと言うことを、井田は気付いてやらなかった。


 換気扇に一番近いスツールに、哲郎は腰掛けた。

 そしてタバコを一本咥えると、ハナコが刺身の処理に取り掛かろうとしていた手を止めて、自分のショートパンツから細いライターを取り出して火を付けた。

 哲郎はカウンターに肘をついて目を細め、上に向かって美味そうに煙を吐きだした。

 そこにハナコが顔を寄せ、何かを耳打ちする。


 二人の顔が、井田の位置からは重なって見えた。

 それを見てますます不快な気分になった。


 何をコソコソと話してるんだ? 

 山田哲郎とハナコさん……あの二人はやっぱり怪しい。

 あれは客とホステスというより、まるで恋人同士だ。

 こんなことで良いのか?やっぱり、社長にチクった方が良いんじゃないか??



 『  いやその前にハナコさんが社長にチクるかもね、 あんたの事を 』



 誰かが突然、井田の耳元で囁いた。



 ハナコさんが?何を??



 『 さあね、 耳を澄ましてよく聞いてみな 』



 俺が何をチクられるって言うんだよ!?  ちゃんとやってるじゃないか!!


  

 『 どうかな? 俺はずっと見てたぞ、朝からずっと  クックックック…… 』



 ふと、御園生のわら半紙を握りつぶしたような小さな耳に、ハナコの美しい唇が寄せられる姿が目に浮かぶ。


 

 『 井田さんはダメね、あの人は使えないわ…… 』



   井田さんはダメね、あの人は使えないわ


   ブルーガーデンのお客さんの、しかも女の子を怒鳴りつけたのよ


   それからシークレットガーデンの大事な会員さんに、反抗的な事を言ってみたり


   それに私にまで怖い顔してイサキを出せって言って、困らせようとするの


   小波ライダーのクセに、頭半の波でチューブを決めたなんてウソまでついたわ


   そのうちローカル達にも嫌われるんじゃないかしら


   スバル君だって、きっとあの人が嫌いだったから辞めたのよ 


   あたしもあの人は嫌い。


   だから名前でなんて呼ばないわ。井田さん。


   あの人こそ辞めた方が良いんじゃないかしら。


        

 俺こそ辞めた方が良い。 

 いや、俺の方こそ辞めたい。 

 そうだ、俺は辞めたい!!


 もうイヤだ。 俺には無理。 引き受けなければ良かった。


 最初から無理だったんだ。   

 なのに調子に乗って、やるって言ってしまった。

           


  仕事ですか? はい、サーフショップの店長です。 


  ええ、井の頭公園で。 いえ、社長に頼まれちゃって。 


  まあ、そこそこ忙しいですね。 スタッフとも楽しくやってます。 


  気が効いて頼れる良いコです。 そう、本当に良いコだったんです。



  でも辞めちゃったんです…… 

                    


  ボクが守ってあげられなくて



  ……もういいよ俺  かっこばっかり  見栄っ張り



  前の職場に戻りたいよ…… 



  もう辞めたい……グリーンガーデンに戻りたい!!


  元の気楽な、ただの小波サーファーに戻りたい……


       

 今朝起きた時に感じた、胃を握られるような痛みが、今度は胸の中に現れた。

 それがたまらなく辛くて、苦しくて、井田は両目をギュッと閉じた。


 誰も何も言ってないのに、批判されているような気がする。

 誰も見てないのに、自意識過剰で、誰に対しても良いとこだけを見せたがる。

 上手くいってるように取り繕う。

 そして今、自分が一番苦しい時に助けを求める相手が誰もいない、、、



  ドボドボドボ……   



 不意に奇妙な液体の音が聞こえて、ハッと目を開くと、目の前のグラスにホナミが水を注いでいるところだった。

 片手で不器用に握ったピッチャーから、ぬるい水が勢いよく飛び出して、コーヒーテーブルの上に水滴がたくさん飛び散った。

 場末のキャバクラにだって、そんな下手クソな水の注ぎ方をする女の子はいないと思う。


「あ、、、」


 ホナミは慌ててピッチャーをテーブルに戻し、布巾を探したが見当たらず、それから思い出したようにオーバーオールのポケットに手を突っ込むと、クシャクシャの日本手ぬぐいを取り出した。


 そしてそれでテーブルにこぼれた水をザッと拭くと、グラスを持ち上げ、その濡れた底も拭って、


「 はい 」


 と言い、グラスと手ぬぐいの両方を、井田に向かって差し出した。


 白地に青いドット柄の豆絞りの手ぬぐい。

 それは今朝、井田が井の頭公園でマラソンをした時に、頭に巻いていた物だった。

 そしてその後、店の前でコッペパンのビニール袋を捨てたホナミを、走って追いまわし、

 走って走って追いまわし、やっと追い付き、後ろから抱きしめた時、猫じゃらしの繁る草原に、ふたりで倒れ込んだ時に落した物だった。


 そして嫌々ながら、ここまで一緒にやって来たのだ。


 あの時、長い人工まつ毛の先に、青い空を見た。

 そのホナミが今、短いまつ毛の素顔になって、ためらいがちな笑みを浮かべていた。



「リョウさん、元気だしなよ」



 それを聞いた途端、井田は思い切り顔を歪めた。


 そしてグラスは受け取らず、クシャクシャの手ぬぐいだけを引ったくり、急いで歪んだ顔を隠すように押し当てた。


 手ぬぐいは、こぼれた水を拭いたせいで少し濡れていた。


 でもそれ以上になんだか、目と鼻の部分がどんどん濡れてきて、


 なぜだかどんどん濡れてきて……


 拭いても拭いても止まらない


 どうしても止まらない


 ……そして肩が上下に震えた。



 嗚咽を漏らす井田を、ホナミは傍でじっと見守った。

 哲郎は相変わらず、換気扇を見上げながらゆっくりとタバコの煙を吹いている。

 ハナコがそっとやって来て、キレイに盛り直されたイサキの刺身を、コーヒーテーブルの上に置いて行った。


 手ぬぐいを通し、温かいみそ汁の匂いがびしょびしょの鼻に届く頃には、井田の心もきっと落ち着くことだろう。








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