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あたしはアヒル3  作者: るりまつ
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やめろよ、はしたない!



 哲郎は水を全て飲み干すと、グラスの中を覗き込み、底に張り付いた氷を人差し指で掻き出して、口に含んでガリガリ噛んだ。

 それはまるで、狼が獲物の骨を噛み砕く音のように聞こえた。

 そしてすっかり氷を食べ終えると、大きな目を井田に向けた。

 今度は自分がじろじろと観察される番だった。

 さっきの氷のように、サーフショップの店長という肩書きも、あっという間に噛み砕かれてしまいそうな気がして、井田は身を固くした。

 そして義務的にピッチャーを手に取ると、空になった哲郎のグラスに水を足した。


「お、ありがとよ。……あのコ、5月までずっとオーストラリアにいたんだって?」


 訊かれたのが自分では無く、ホナミの事だったので、井田は肩透かしを食った気がした。

 けれど内心はホッとした。そして訊かれた事をそのままオウム返しにした。


「へー、オーストラリアですか」


「ああ。なんだか親に、金は出すからどこでも良いから、しばらく家を出て欲しいって言われて、それならブラジルか小笠原に行こうと思って、で、結局オーストラリアに決めたんだと」


「……どこでも良いから家を出て欲しい?どういうことでしょう、それは??」


「何だか二浪してる兄貴がいて?その勉強の邪魔になるからとか言ってたぜ。確かに家でもあんな調子でいるんだとしたら、兄貴もたまんねぇだろな!……まっ、俺だったら自分が出て行くけどね」


 そう言って哲郎は笑った。

 しかし井田は笑えなかった。


「……フツウ親がそんなコト、言いますかね、、、?」


「オレも気になったんだけど、そのうちどんどん話しが違う方向に進んでって、気がついたらへタレとササラの話になって、最後はリョウ君の話しで終わってた」


 哲郎はまた、ホナミのロングボードの『実演』を思い出してフッと笑った。

 井田はホナミの奇妙な家庭状況の一端を聞いて、にわかに好奇心をそそられたが、取りあえず話を戻して哲郎に訊いた。


「ボディボードもオーストラリアで始めたんですかね?」


「そうみてーだよ。ブリスベンから帰国するちょっと前にゴールドコースト寄って、そこで知り合った男が、たまたまボディボの有名な男のプロだったとか言ってたぞ。オレは名前聞いても分かんねーけど。……とにかくそいつと意気投合して、二日間一緒に海入って色々遊んでもらったんだと」


「へーそうなんですか……」


「んで、今度またそいつんところに行ってBBの修行したいから、今はキャバクラで『マジメ』にバイトして、金を貯め始めたって言ってたぜ?」


「はあ〜、、、そうだったんですね〜」


「そうだったんですね〜って、、、あのよぉ、さっきからオレばっかり質問されて答えてるみてーなんだけどよ、リョウ君は何か知ってること無いのか?」


 哲郎は井田が話しやすいようにと思って、まずはホナミを共通の話題として持ち出したのだが、なんだか曖昧な反応しか示さない井田に呆れ、話題を変えるしかないなと思った。


「あ、いや、すいません、、、確か新宿のキャバクラ……ですよね?」


 井田は、自分が早朝から今までの約6時間の間に入手した、ホナミについての少ない情報の一つである『新宿』という地名を慌てて持ちだした。

 しかし哲郎の方は、井田がシャワーに入っていた20分程度の間に、明らかに多くの情報を聞きだしていた。


「歌舞伎町の区役所の裏辺りだと。さっき名刺もらったよ。リョウ君、あの辺り詳しい?今度一緒に行ってみるか?」


 哲郎は、キャバクラの所在地にだけ井田が強く反応したので、実は行ってみたいのかと思って、ワザと下卑た笑みを浮かべると、カウンターの方にチラリと視線を投げた。

 その視線の先には、洋酒の瓶が並んだカウンターテーブルに、ホナミが肘を付き、こちらに向かって高く尻を突き出し、立っていた。

 それは、ゆるいオーバーオールの中でも、くっきりと存在感を示している。

 井田は、哲郎がイヤらしい目つきで、ホナミの尻を見たのが気に障った。

 しかもさっきは握りしめたのだ、その尻を。いくら悪気は無かったにしても。


 井田はどんどん冷静な判断を失い、勝手にイライラし始めた。

 

「いや、、、ボク、ちょっとキャバクラはキライでして……」


「あ、そうなの?なんだ、好きそうな顔したクセに、つまんねーヤツだなぁ。

 おーい、ホナミン!今度暑気払いにうちのショップの客、連れて行くからな!

 イナカもんの金持ち、いっぱいいるからしっかり稼げよ!!」


 興味があるのかと誘ってみれば、キライだと言う。

 哲郎は井田の反応がイマイチ読めず、仕方なく今度はホナミに助けを求めた。

 井田の方は、キャバクラはキライだと言っただけで『つまらない男』扱いされるなんて冗談じゃない、と心の中で哲郎を毒づいた。


 お互いの思惑がどんどんズレ始める中、哲郎に呼ばれたホナミが、カウンターの前からいそいそとソファーの方に戻って来た。そして、


「てっさん、ホントですか?!じゃあ、そん時は先に連絡下さいね。集団同伴出勤ってことでっ」


 と言いながら、さっきはヘンタイ呼ばわりした哲郎の膝の上に、今度は自分からちょこんと座り、その逞しい首に両腕をまわして愛嬌たっぷりに小首を傾げた。


 それを見た瞬間、井田の頭に血が昇った。





 「やめろよ、はしたないっ!!」




                                   

 それは鋭い一喝だった。


 カウンターキッチンの中で、何か食器の弾む音がした。


 ホナミは、突然叩きつけられた厳しい声に、ビクッと肩をすくませ、目を閉じた。


 それからそっと目を開き、恐る恐る井田の顔を見た。


 すると井田は、声と同じく鋭い視線で、ホナミではなく、哲郎の目をじっと見据えていた。




     カラン…




 沈黙に耐えかねたように、アイスペールの中で氷が崩れた。


「……はしたない……て言葉は、また随分久しぶりに聞いた気がすんなぁ」


 哲郎は、井田の視線をそのまま自分の目に吸い込むように受け止めると、柔らかい口調で言った。そして、


「意味は知ってる?ホナミン」


 と、自分の膝に座ったままのホナミを見て、優しく問いかけた。


 ホナミが、アゴを突き出すように小さく頷く。

 そして不満げに唇を鼻の下に寄せながら、哲郎の膝からのろのろと降りると、横に大人しく腰かけた。

 元々ホナミが食事をしていたその場所には、食べかけのローストチキンが、皿の上ですっかり冷えていた。


 井田は、自分で作ってしまったこの気まずい状況をどうしていいのか分からず、取りあえず目の前にあったグラスを再び手に取った。

 しかし中には溶けた氷のわずかな水が、底に溜まっているだけだった。


 ホナミのせいで、自分のペースがどんどん狂っていくのがわかる。

 あるいは哲郎のせいか、それとも空腹のせいか。

 大体ハナコは、なぜ味噌汁を温めるだけで、こんなに刺身定食を出すのに時間がかるのか。

 ここにいるたった3人の人間に、井田はどうにもやりきれない気持ちにさせられた。


「リョウ店長はマジメなんだなぁ〜。サーファーにしては珍しいタイプだな」


 そんな井田を見て、哲郎がからかうように言う。

 井田という男をガリガリと噛み砕いて出た感想は、それだけだった。


「……スイマセン」


 井田は重い口調でようやくそれだけつぶやいた。


 『でも俺は、たったそれだけの男なんかじゃありませんから』


 本当はそう付け加えてやりたかったが、グラスに残った少ない水で、その言葉を飲み込んだ。


 それは一本の細い針のように井田の喉で引っかかり、それからパキンと折れて、ようやく腹の中へと流れて行った。

 喉の奥に嫌な感触が残り、井田はきつく眉根を寄せ、口を結んでうつむいた。

 それは普段、温厚でお人好しの井田が、人前ではめったに見せない表情だった。




 俺は別に、カタブツでも何でもない


 ただ、さっきは……どうにも見るに堪えなかっただけだ……




 哲郎はソファーに深くもたれると、天井を見上げながらフーーーーッとタバコの煙を吐くように、長いため息をついた。

 黒髪が束になって、ソファーの背もたれに掛かる。


 哲郎の、そんな落ち着き払った態度を見るのが悔しかった。

 経験と実績を備えた、年上の男の余裕。

 それは若い井田にはどうしようもないことだった。


 それなのに……


 鏡の向こう側から付いて来たもう一人の自分が、何かと哲郎に反発しようとするのを、今の井田は止めることができずにいた。 





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