足音
手早くシャワーを終えると、井田は今朝と同じブリーフとショートパンツを身に付けた。
ポロシャツに腕を通した時、少し汗と潮の匂いが気になったが、仕方ない。
吉祥寺の店を出る時は、ホナミに急かされ、着替えを見つくろう時間なんて無かったのだから。
扉を開くと、シャワールームに立ちこめていた水蒸気が、霧のように廊下へ流れ出た。
扉の外には、脱ぎ捨てたはずのビーチサンダルが、いつの間にか踵を揃えて置いてあった。
井田は当たり前のようにそれを履くと、肌触りの良いオーガニックコットンのバスタオルを肩に掛け、細い廊下をペタペタと歩いて行った。
廊下には、何か肉の焼ける香ばしい匂いが漂っていて、井田の空っぽの胃袋を刺激した。
おそらくホナミが、チキンかポークのグリルをオーダーしたのだろう。
自分のイサキの刺身も、ラウンジに戻ればすぐにハナコが出してくれるに違いない。
イサキは、井田の好物だった。
ガーリックの効いた肉料理のように、周囲の空腹まで巻き込むような強い香りこそ無いものの、ハナコが近くの漁港の朝市で仕入れてくる旬のイサキは新鮮で、口に含んだ者だけが楽しめる鮮烈な磯の香りと、その鯛にも負けないコリコリとした歯応えはたまらない。
本当なら良く冷えた純米吟醸酒か白ワインでも飲みながら……
妄想がどんどん膨らみ、生唾が湧いてきた。
そして自然と早足になる。
ペタペタペタペタ
ペタペタペタペタ……
灰色をしたコンクリートの壁に足音が響き、それが二つに重なるように聞こえる。
まるで誰かがそっとついてくるように。
井田は立ち止まった。
ペタ
ペタ…
そしてゆっくり振り返る。
もちろん誰もいない。
いるわけが無い。
井田はオカルト的なことは全く信じないことにしている。
しかしそういうことは、一度気味が悪いと感じてしまうと、どうしようもなく気になってしまうものだ。
「 気のせいだ 」
わざと声に出してそう言ってみる。
するとラウンジの中から『ひゃっはっはっ!』と、品のないバカ笑いが返ってきた。
そのオカルトとは全く縁のなさそうな笑い声に、井田の不安はいっぺんに吹き飛んだ。
そして一瞬びくびくしてしまった自分自身に「バカだな」とつぶやくと、そのままラウンジへ入って行った。