余計な口出しするなよ
ラウンジを出て、暗いコンクリートの壁に沿って廊下の突き当りの右にある、磨りガラスのはめ込まれた木の扉をガラガラと開き、ビーチサンダルを脱いで中に入る。
北側に面した風呂場は冷んやりとしていて、白い清潔なタイルの感触が足の裏に心地良い。
井田は衣服を木の棚に置かれた、水色の脱衣カゴの中に放り込んで素っ裸になると、向かい側の壁に取り付けられた、やけに大きな鏡はなるべく見ないように素通りした。
何度このシャワー室を使わせてもらっても、井田はこの鏡だけは好きになれなかった。
鏡自体が必要以上に大きく、日陰の薄暗い風呂場の中で、窓からの間接光を吸い込んで、そこだけぼんやりと白い光を放っていて、なんだか鏡の向こう側から、もう一人の自分が出てきそうな気がして気味悪かった。
御園生はこの鏡の前で、自分の筋肉と贅肉の状態を、井田の目も気にせず念入りにチェックしたりするのだが。
ペタペタと音を立て、3つ並んだシャワーの一番奥まで行き、混合水栓を捻る。
すぐに熱い湯が出てきて、ハナコから借りた良い香りのシャンプーで頭を洗い、それからシャンプーと統一された香りの、泡立ちの良いボディーソープで体を洗った。
それはハナコの体から漂ってきた香りとは違うものだった。
これは客用の物か……
その時ふと、哲郎の髪が濡れているようだった事を思い出した。
山田哲郎もここでシャワー浴びたのか〜。
どっかのポイントで1R入って、それからここにランチ食べに来たのかな〜。
やっぱシークレットガーデンは思わぬ大物に会えるよな〜。
雑誌以外で見たの初めてだけど、やっぱ実物はオーラ出てるよな〜。
なんたって歴代のグラチャンだもんな…後でサインしてもらっちゃおうかな〜。
しかし、そんなミーハーな事を考える一方で、
山田哲郎もここでシャワー浴びたのか〜。
確か独身……昭和のイケメン、相当オンナ泣かしてるんだろな〜
なんて事が頭をよぎる。
山田哲郎もここでシャワー浴びたのか〜。
山田哲郎もここでシャワー浴びたのか〜。
ソファーに寝そべっていた哲郎。
かき上げた長い黒髪が濡れていた。
……だからどうした。
『気持ち良く昼寝してるとこ邪魔しやがって』
ハナコは扉を閉めに来た。
『もう閉めなきゃと思ってたの』
ジャマシヤガッテ…
口元に浮かぶ妖艶な微笑みと風に漂う濃厚な女の香り……
『すごいはしゃぎ声が聞こえたから、誰かと思って見に来たところよ』
ジャマシヤガッテ…
繋がらない携帯電話……
『電話?ほんと??全然気が付かなかったわ、ごめんなさいね』
ジャマシヤガッテ…
俺たちが来なかったら、あそこは密室だ
「 …… 」
そして御園生の顔が浮かんだ。
社長は……
面倒見がよく、おおらかで、人当たりが良く
面倒見がよく、おおらかで、人当たりが良く
面倒見がよく、おおらかで、人当たりが良く
面倒見がよく、おおらかで、人当たりが良く……
あとそうだ、俺たちから見たらケタ違いの金持ちじゃないか
(でもちびで冴えない50近いおっちゃん)
(でもちびで冴えない50近いおっちゃん)
(でもちびで冴えない50近いおっちゃん)
(でもちびで冴えない50近いおっちゃん……)
社長は……
こんなところに最愛の恋人を、一人で置いておいて心配じゃないのか?
それとも愛人だから平気なのか?
そんなもんか?
野放しにしていても……
影で何をしていても……
いるときだけ恋の真似ごとができれば……
俺には無理。
こんなところに、恋人を一人で住ませておくなんて。
愛人でも無理。
ところで、既婚者にとって愛人と恋人ってどう違うんだ?
……どっちでもいいけど。
……もういいよ、考えるな。関係ない。
……俺の干渉することじゃない。
大人の恋愛事情に余計な口出しするなよ、俺。
井田は顔を上げて目をつむり、シャワーの強い水流と共に、ハナコと哲郎に対する疑惑を流し去った。
そして下を向いて目を開いた。
銀色の円盤型の排水溝に、数本の長い黒い髪が絡みつき、水の流れに合わせて白いタイルの上をうねっている。
そして横を向くと、死角になって見えないはず大きな鏡の向こうに、もう一人の自分が映っているような気がしてまた目を閉じた。
余計な口出しするなよ、向こう側の俺……




