鼻の下と 胸の奥が痛むワケ
ハナコが長い髪を風になびかせながらやって来た。
『グーリーンガーデン』の、カリフォルニアの空のような明るいチェックのショートパンツに、しなやかな生地の白いフレンチスリーブのカットソーを身につけ、シルバーのビーチサンダルを履いていて、それらは背が高く手脚のすっきり長いハナコに本当に良く似合っていた。
だから井田は、挨拶ついでに褒め言葉の一つでも添えようと思った。
「ハナコさん、こんにちは。今日はまた随分、、、風が強いですね……」
けれど、なぜか上手く口が回らなかった。
「そりゃ台風だもの。それにしても、本当に千葉に来てたのね」
ハナコはそう言って、顔にまとわりつく髪の毛を両手でざっくりかき上げると、小波ライダーの井田をからかうように、罪な笑みをその唇に浮かべた。
髪をかき上げた両腕のフレンチスリーブの袖ぐりから、滑らかな陶器のような腋の窪みが見えた。
そして上げた両腕につられて、たっぷりと量感のある二つの胸が、衣服の下で艶しく盛り上がるのが井田の目に映る。
こんな時のハナコは、全くもって完璧なる大人の体をしたオンナに見えた。
とてもじゃないけれど、20代の井田の手に負える雰囲気ではない。
年齢でいったらハナコの方が井田より2歳年下だったが、尊敬する御園生の恋人だという意識もあって、ハナコに対してはどうしても、他人行儀な態度や敬語を崩すことができないでいた。
「あ、はい、さっき崖の上から一度、携帯に電話したんですけどね。繋がらなかったので、取りあえず来てみちゃいました。ええ」
井田は早口にそう言うと、ハナコの胸元に視線がいかないように、ソワソワと自分も髪を掻き上げ、意味もなく空を見た。
いくら尻好きとは言え、目の前に形の良い胸の谷間を見せつけられたら、男としてはたまらない気分になるのは当然だった。
「電話?ほんと??全然気が付かなかったわ、ごめんなさいね」
「いえ、そんな。ところで、何かメシ食えますかね、もう一人いるんですけど……」
井田はホナミの姿を探すフリをして辺りを見回し、そしてハナコからは完全に目を逸らした。
「ふふふ、そうみたいね。すごいはしゃぎ声が聞こえたから、誰かと思って見に来たところよ」
「す、すいません、、、うるさくて。他のお客さんもいるみたいなのに……」
『大人の寛げる静かなプライベートビーチ』が売りであるシークレットガーデンに、場違いな野ザルを放してしまったようで、井田は申し訳なさそうに謝った。
「良いのよ、全然気を使うような人じゃないから。井田さんにも紹介するわ。さ、早く入って。そろそろ風向きも変わって来たから、扉も閉めなきゃと思ってたの」
「あ、はい」
井田がホナミの方に目をやると、ホナミは小波の打ち寄せる砂浜で、ビーチサンダルを片手に一足ずつ持ち、じっと二人が立ち話をしているのを見守っていた。
ハナコはホナミのその姿を見て、クスッと笑いながら言った。
「デカめの波で入りたがってるって聞いたから、どんなゴツイお客さんなのかと思ったら……ずいぶん若くて可愛い男の子ね。井田さんの『カレ』かしら?」
「いえあの、、、ああ見えて『カレ』、女の子なんです」
今日、ホナミが女だと説明するのはこれで二度目だった。
井田は自分の言い訳のような説明に、思わず苦笑いした。
「え!?そうなの??」
ハナコは驚いたように訊き返し、長く繊細なまつ毛に覆われた目を細め、女の子にしては背の高い、でも男にしては少し小柄といえるホナミの姿を眺めた。
「ええそのようで。お陰で今日は本当に。色々と。すっごく。大変だったんです……」
井田はいかに大変だったかを強調するように、一語一語区切って言った。
ホナミは、井田とハナコがこっちを見ながら、どうやら自分の事を話しているようだと悟ると、ビーチサンダルを手に握ったまま、砂を後ろに蹴り上げて駆け寄って来た。
ハナコはホナミにも平等に、優しい笑顔を差し向けた。
「こんにちは」
「んちわっす」
ホナミは体育会の男子のような挨拶を返して走って来たが、ハッと立ち止まり、ハナコの顔と全身を、まじまじと見つめた。
そして見惚れるような表情を浮かべると、臆面もなく言った。
「……すげえ美人!こんなきれいな人、ナマで初めて見た」
それを聞いて、ハナコと井田は目を見開き、思わず顔を見合わせた。
女を褒めるのは井田の専売特許であったが、さきほどのハナコに対してはどうも言いそびれてしまっただけに、今、堂々とそれをやってのけたホナミに、井田は感心した。
「こんな美少年にそんなふうに言ってもらえて嬉しいわ。私、花子。よろしくね」
ハナコは特に謙遜もせず、ホナミの言葉を冗談混じりにサラッと流して微笑んだ。
するとホナミは、急に態度を硬くし、憮然とした表情になった。
「ハナコさん」
「ハナで良いわよ」
「ハナさん、か。自分は穂波っす。んでもって美少年じゃなくてアタシ、女っすから」
「……あ、私ったらごめんなさいね、ホナミちゃん。さ、気を悪くしないで中へどうぞ」
ハナコはつまらない冗談を言ったことをすぐにホナミに詫びたが、それも割とサラッと流し、本当に悪いと思っているのかどうか分からなかった。
そして再び長い髪を風になびかせ、甘い香りを辺りに漂わせながら、シークレトガーデンの鉄扉に向かって歩き始めた。
「井田さんも」
「あ、はぁ……」
へタレに入る前までは、井田はホナミの強い果物のような髪の香りに気を取られていたが、今はハナコの、文字通り花のような香りに吸い寄せられ、羽の生えた一匹のオス蜂のように、その後を追って行こうとした。
しかしふと、砂の上に立ち尽くしたままのホナミに気付き、促すように優しく声をかけた。
「ナカムラさん、早くおいで!やっとランチだよ」
が、それは取って付けたようにも聞こえた。
ホナミは、ビーチサンダルを握ったまま、能天気な顔をした井田のことをキッと睨み、それからズカズカと無視するように追い抜かし、ハナコの後ろに付いて行った。
そして井田は、そんなホナミの後を慌てて追った。
なんだぁ? またご機嫌斜めになっちゃったよ、、、
オレ、今、何かしたかぁ?? ホント、気分屋で参るなぁ……
ホナミは、前を歩くハナコの、長い髪の揺れる美しい後ろ姿を見つめた。
そして手に持っていたビーチサンダルを、子供じみたオーバーオールのポケットに突っ込み、被っていた白いメッシュキャップを取って、自分の短いパサパサの髪に手をやった。
すると何だかまた胸の奥が詰まったようになって、食欲も失せてきた。
変だな、アタシ…… どうしたんだろ。
いつもだったら少年とか言われるのなんて、何ともないのに……
このキレイな人に…… ハナさんに……
ムキになって言い返しちゃった。 ヤダな……
鼻の下が、またヒリヒリと痛む。
そしてそこに指を当てた時、後ろにいる井田の、平和なアホ面が頭に浮かんだ。
その時、ホナミは気付いてしまった
ハナさんのせいじゃない……
日焼けのせいなんかでもない……
そうだ 今、わかった……
井田とホナミは、ハナコに導かれるまま、シークレットガーデンの奥へと入って行った。
そしてハナコは、重厚な鉄の扉をゆっくり閉じた。
重い金属音が小さな入り江に響き、後は風の音と波の音だけが残った。
そして砂浜には、三台の車が並んでいた。