繋がらない携帯電話
「あれー?出ないな……」
「お休みなの?」
「うーん、、、今朝、電話した時は出たんだけど……やっぱり早じまいしたのかな?」
『私有地』と書かれたチェーンで遮られた砂利道の手前に、井田はハイエースを停車して、ハナコの携帯に電話をかけていた。
時刻はまだ2時を過ぎたところで、通常ならシークレットガーデンの営業時間中だ。
しかし台風に備えて、早目に店を閉める可能性も考えられたので、念のため崖の急な坂を下る前に、今から行っても良いかハナコに確認しようと思ったのだ。
しかしハナコの携帯からは、圏外を知らせるお決まりの音声が流れるだけで、留守電にも切り替わらなかった。
おかしいな、、、圏外のはずないんだけど……。電源、切ってあるのかな?
井田は携帯をショートパンツのポケットに仕舞い、アゴの下を親指で掻きながらしばらく考えていたが、ようやく決心してサイドブレーキを戻した。
せっかくこまで来てるんだし、とりあえず降りてみるか。
「ナカムラさん、申し訳ないんだけどあのチェーン外して、ボクが車を中に入れたらもう一度元通りに掛けてもらっても良いかな?」
「いいよー」
井田が頼むとホナミは快く返事をし、すぐ助手席から降りると、指示通りにチェーンの掛け外しを行い、『私有地』内に入ったハイエースに再び乗りこんだ。
「完了っ!」
「ありがと。じゃ、ちょっと揺れるから、しっかりそっちの手すりに掴まっててね」
井田は『そっちの手すり』という言葉をやや強調して言うと、車を発進させ、細い砂利道をゆっくりと下り始めた。
「ねえリョウさん、私有・地って書いて・あったけど、こんな・所に食べ物屋がある・の?」
「うん。この崖・下ったとこ、に」
右に左に車体が大きく揺れる度、二人の体もユサユサ揺れる。
ノーマル車ならなんとかなるが、シャコ短の車では、この崖を登り下りするのは絶対に無理だった。
井田はスリップしないように慎重にハンドルを握った。
ホナミは井田の左手を掴んでまた叱られないように、助手席のドアの上に付いた手すりをしっかり握った。
タイヤが土埃を巻き上げながらザリザリと音を立て、そして崖に沿って狭いカーブを徐々に左に曲がって行く。
それに合わせてホナミの目が、大きく見開かれた。
「ぅ…わあーーーーーーーーーーーーーぉっ!!!」
ホナミは思わず歓声を上げ、フロントガラスに顔がつきそうなほど身を乗りだした。
シークレットガーデンの小さな入り江は、静かにそっと、しかし誇らし気にその姿を現した。
高い崖に守られた奥行きの深い海岸は、少しずつ潮が満ち、エメラルド色の透明な海水をたっぷりと湛え始め、肌色の砂浜には、まだ腰くらいの高さの波が控えめに割れていた。
まるで台風なんて別世界の事のように穏やかで、しかもこの美しい景色の中には誰一人いない。
「何ここ!!すげえキレイ、てか、波ちっちゃいけど乗れそうじゃん!ここもシークレットポイントってやつ?超プライベートビーチ!!あ、あれ、何?そこのそれ、お化け屋敷みたいなの!!あっ、あすこから海入れんの?へー、マジ面白そう。わーーーっ!!なんかチバじゃないみたいじゃん?!」
ホナミは興奮した様子で辺りをキョロキョロと見まわし、目に付いたものにいちいち感想を述べながら、また運転中の井田の左腕を、約束も忘れてグイグイと引っ張った。
しかし井田は大かた予想通りというように、もう驚きも怒りもしなかった。そして、
「良いトコでしょ。気に入った?」
と、まるで自分のビーチのように自慢した。
「うんうん、最高!!すげぇキレイ!!早く降ろしてよっ!!」
さっきまで寒いだの車酔いしただの言って、元気が無かったホナミが、まるで初めてディズニーランドに来た子供のように大喜びする姿を見て、井田は満足そうな笑みを浮かべた。
「ちょっと待ってね、今、停めるから」
……ん?
井田が、砂を均した駐車スペースの方を見ると、ハナコの白い軽自動車の隣に、チャコールグレーのいかついランドクルーザーが停まっているのが目に入った。
千葉ナンバーだ。なんだ、お客さんいたのか……
せっかく貸切でのびのびできると思ったのに、井田はちょっとがっかりした。
そしてハイエースを方向転換させ、そのランクルの隣にバックで駐車した。
車が停止するやいなや、ホナミは助手席の扉を開いて外に飛び出し、波打ち際に向けてまっしぐらに駆けだした。
「やっほーーーーーーーーー!すげーーー!!」
ホナミが早速、裸足で水を撒き散らしながらはしゃぐのを見て、井田はクスッと笑った。
そしてサイドブレーキをかけてキーを抜き、運転席から外に降りた。
横には、やけに威圧感のあるランドクルーザー。
井田はつい無意識に、車の中をチェックした。
今朝の電話のヤツがまだいるのか? ノガワタケル……だっけ。
灰皿には、吸い殻が山盛りになっていて、ドリンクホルダーには、マックスコーヒーの缶が置いてあった。
助手席には、ボンジョビやヴァンヘイレン、ラットやモトリークルーなどの昔のヘビーメタル系の他に、デュランデュラン、ポリスなど、井田の知らない80年代洋楽のCDケースが散らばっていて、その下に女性J−POPのオムニバスCDがコソッと隠れていた。
井田は顔をしかめた。
今朝のコより、もっとオッサン世代だ……
好奇心に駆られ、井田はランクルの外観もジロジロと見まわした。
荷室のミラーフィルムになっている窓には、水滴をイメージした涙形のステッカーが貼られていて、そこには青い小文字で『air』と描かれていた。
そしてうっすらと透けて見える車内には、ニットケースに入ったショートボードが3枚積まれていた。
エアー。
……このロゴ、どっかで見たことあるな。
いや、『エアー』じゃない、、、『アイル』だ。
そうだっ!確かこれって……
井田がアゴの下に手を当てて、そのロゴマークの記憶を辿っていると、不意に強い風に乗って、花のような甘い香りと、鈴のような優しい声が流れて来た。
「 井田さん 」
声の方を見ると、ちょうどシークレットガーデンの鉄扉からハナコが出てきて、こちらに向かってゆっくりと歩いて来るところだった。