ペパーミントグリーンの奇跡
目の醒めるめるような青い大きな波に映える、ショッキングピンクのビキニブラ。
それは海の中の5人と、岸で見守るギャラリーの視線を一身に集めると、リップに弾かれ、ピークから真っ逆さまに落ちるテイクオフを試みた。
そして長い紐を四方に広げ、忍者のように波の斜面に張り付くと、エアーパッドでツルツルとその斜面を右へまっしぐらに滑走し始めた。
ホナミが呆然とそれを見送っている間に、身体はあっけなく波に捕まり、ボードもろとも下から上へ軽々と巻き上げられ、目に映る景色だけが次々とその色を変えて行った。
光を通す青い壁。
波先が無数に重なる白い手のように、ホナミの体を包み込もうと降りてくる。
灰色の雲が流れる空、ベージュ色の崖、そして遠く岸に立つローカル達が、なぜか一列に逆立ちしているように見え、その中の一人が水飛沫を上げて駆けて来る姿があり、再び青一色がホナミの視界を覆った後、脳天に鈍い衝撃と激しいフラッシュが炸裂し、同時にスローモーションが解除され、そこから全てがハイスピードに切り替わった。
体が大車輪のように縦に何度も回転し、次は横回転に早変わり。
自分が上下左右どちらを向いているのか、もう全く分からない。
手足に赤いボードが何度も当たり、体が雑巾のように捻じれる。
口から白い泡が噴出し、肺の中の空気が絞り取られ、逆巻く気泡の群れの中、ホナミは必死にもがいた。
リョウさん、ヤバい、助けて……!!
無意識に井田の名前を心の中で叫んだ時、誰かに頭を鷲掴みにされ、力任せに引き上げられた。
水面に顔が出るなり、ホナミは掃除機のような音を立てて大きく息を吸い込み、そこに立つ誰かの身体に無我夢中でよじ登り、ヤシの木に捕まるサルのように両手を回してしがみついた。
そしてその相手の肩に顔を乗せ、何度も激しくむせた後、肺がパンクしそうなほど深呼吸を繰り返した。
その間、あやすように背中を軽く叩き続ける手に、ようやく心が落ち着つき始め、改めて今、自分のいる場所を見てみると、そこは何てことは無い腰位の深さしかないインサイドだった。
そして恐る恐るしがみ付いた腕を解き、その相手の顔を見てみると、それは消防団のハッピを着た、ずぶ濡れのササラだった。
「サ、ササラ君……」
ササラは史上最強の強盗犯のような顔に、心配そうな表情を浮かべて、ホナミの目を覗き込み、
「おい、アンタだいじょう……」
と言いかけて、そのまま徐々に解かれた腕の間に視線が下がったところで無言になった。
その視線の先にあったのは
(・ )( ・)
ホナミは自分の上半身を見てギョッとした。
そして再び息を吸い込み、
「痴漢ぁんっ!!!」
と一声叫ぶなり、ササラの顔面に強烈なヘディングをぶちかました。
「ぶっ・・・・・・」
泥棒のあとは痴漢かよ……
情けねぇ……
ササラはそのまま一本の木のように、静かに海に倒れていった。
インサイドでそんなことが起こっている間に、アウトではピンクのブラが巧みな上下運動を繰り返し、掘れ上がる波のフェイスを疾走していた。
金のロン毛も枯れたブロッコリーも、一瞬目に入ってしまったホナミの斜めから見た
・) ・)
に気を取られ、共にドルフィンスルーを失敗。
中途半端に潜ったせいで波のパワーに負けてしまい、背中に強烈な水の鉄拳を食らった後、インサイドまで転がされて行った。
そして最後は「もっと、ちゃんと見とけばよかったな」と、お互い肩を叩き合い、ボードを拾って終了。
一方、角刈り熟年は何を血迷ったのか、疾走するブラに猛然と向かって行った。
そしてオスの本能の赴くままに「うおおぉっ!!」と叫び、ブラに片手を伸ばした直後、バランスが崩れてボードが前につんのめり、そのまま何がなんだか分からないうちに、岸に打ち上げられて終了。
そして最後に取り残された井田。
井田は波の端っこで、凍りついたように一部始終を見ていた。
そしていよいよそれが自分の方に迫って来ている。
『スノボのパイプとそんなには変わらないだろう』なんて漠然と思っていたが、それは全く甘かった。
何と言っても波は動いている。
しかも、早い、掘れる、崩れる。
ホナミを先頭に、金のロン毛達が、こてんぱに打ちのめされ、欲望に目の眩らんだ角刈り熟年が、今まさに消えていった。
早くここから少しでもアウトに退避しなくては、自分も同じ目に遭う。
なのにこの期に及んで、まだ決断ができない。
ボードに跨ったまま、岸にも沖にも行かれない。
突っ込むか、逃げるか?!どうすんだよ、俺!!
そして目の前を、角刈り熟年の魔手を逃れたピンクのブラが、井田を小馬鹿にするようにヒラヒラしながら通過した。
その時、股の間で、
≪ この役立たずのへタレ野郎っっ!!! ≫
という声が聞こえた気がした。
瞬間、井田はど突かれたようにボードに這いつくばり、ノーズを岸に、つまり『突っ込む』方へとパドルを始めた。
それは無理に近い、出遅れ気味のスタートだった。
しかしペパーミントグリーンのボードは『そんなことは承知の上』と言うように、急な斜面を速やかに滑り出し、それに合わせて井田が驚くほど落ち着いてテイクオフすると、ボードは鋭い角度でありながら、危なげ無いボトムターンを決めて見せ、そこから一気に加速して、先を行くピンクのブラを追撃し始めた。
巻き上がる、硬く締まった斜面に弾かれないよう、ボードはがっちり波の横っ腹にレールを噛ませ、スピードの最も乗るパワーゾーンに井田をセットした。
そして井田は、身長を優に超える波の壁と、初めて向き合った。
足元からグイグイと頭上へ押し上げられて行く水の塊り。
それが凄まじい威圧感を伴って、自分の方へと傾いてくる。
いつもの井田だったら、それを見た途端に怖じ気づき、ボードを捨てて自ら海中に飛びこんでしまったかもしれない。
しかしこの時、井田の頭はペパーミントグリーンのボードと直結され、恐怖を感じる回路も遮断されているかのようだった。
ボードは逃げるピンクのブラに、あっという間に追い付いた。
それは井田の肩の高さで、斜面を微妙に上下に蛇行しながら進んでいる。
全神経を集中させ、前脚加重で更に加速し、右手をそっと差し伸べる。
もうちょい上……ちょい上、、、
微妙に位置を合わせながら、肩より上に手を伸ばした途端、ボードは『上』という井田の意思に過剰に反応し、パワーゾーンを外れて、波のトップに向けて斜面を駆け登り始めた。
あっ!わわわわっ!!
振り落とされないよう何とか腕でバランスを取ったが、ブラは完全に取り逃がし、しかも見失ってしまった。
ボードは昇りつめた頂点で緩やかな弧を描き、空に高く飛沫を放つと、そのまま横に滑りながらテールを波の上唇に噛ませた。
ノーズが、やや先の下がった飛び込み台のように長く突き出て見える。
そのボードの上で、井田はおもむろに一歩、足を前に踏み出した。
ありゃー…どこ行っちゃったんだろ、おかしいなぁ、、、
キョロキョロしながら、もう一歩前へ。
ピンクの塊りを必死で探す。
けれど見当たらない。おかしい。
さらにもう一歩前へ。
しかしやっぱりどこにも無い。
「おおっ!あの店長さん、あんなデカい波でノーズライド、おっぱじめたよ!!」
岸に打ち上げられた後、そのまま事の成行きを見守っていた角刈り熟年が、井田の動きを見て思わず感嘆の声を上げた。
おかしい、どこに行った?さっきまですぐそこにあったのに。
まさか、ボードの真下で並走してるとか?そんなバカな??
井田は更に前進して、ノーズに片足の先をチョイと引っ掛けると、腰を屈めてボードの下を覗き込もうとした。
「すげえっ!今度はチーターファイブかっ!?」
角刈り熟年はもちろんのこと、他のローカル達からも、にわかにどよめきが起こり始めた。
下を覗き込んだ途端、ボードが大きくぶれたので、井田が急いで小股で二、三歩、後ろに下がると、重心がノーズからテール寄りに戻り、ボードは再び安定感を取り戻した。
下にも無い……。仕方ない、もう諦めるか……
これだけ探せば充分だろ?……いや、でも絶対あるはずなんだ。
そうだ、ここまで来たんだ!最後までやり切れっ!!
井田は決意を固めると、今度は一気にボードの先端まで歩みを進め、両足のつま先をノーズに掛けて、スクッと立った。
それからゆるく膝を曲げ、顔の前に手をかざしながらぐるりとヘタレのインサイドを見渡した。
「うほっ、なんて気の抜けたハングテンをしやがんだ!」
「じっちゃん、それを言うなら力の抜けた、だろ?!」
「あの店長さん、一番ビビリっぽかったけどやるじゃんかっ!?」
「ありゃ、ただもんじゃねえべ!!」
「リョウさん、すげーーー!!」
「はぁ〜ん……井田さん、なかなか見せつけてくれんなぁ〜」
波打ち際に集まったギャラリーは、井田の足ワザに釘付けとなった。
ロングボードの見せどころの一つは、ショートボードのような派手なエアー系の技とは違い、その『長い』という板の特徴を生かした独特のステップ技だ。
経験を重ね、後ろ寄りのレールとテールに、崩れゆく波が上手く被さるよう、ボードの位置をセットできるようになると、被った波が、例えばシーソーで誰かが片一方を抑えてくれているような役目を果たし、その反対側の、ボードの末端に立ったとしても、前につんのめることなく、そのままの状態で波を横に滑って行かれるようになる。
その時、もはや視界にボードは映らず、海しか見えない。
まるで自分の身一つで海に立ち、風を切って波の上を走っているような、何とも言えない爽快感が味わえるという。
それにはもちろん、加速の付いたボードの上で、前に足を踏み出す勇気と、生き物のように自由に振る舞う波の動きを、瞬時に捉える繊細な感覚、そしてその波に自分を合わせる、心と身体の柔軟性が必要だ。
今、井田は、小気味良くボードの上を前後に移動し、ボードはボードで、波の上を揺るぎなく突き進んでいた。
しかし井田本人には、ワザを決めているという自覚は無かった。
ただ頭の中にあるのは、ブラの回収のことだけだった。
もしかして追い越しちゃったか?
またちょこちょこっとテールに戻り、波のブレイクしている方を右肩越しに振り向く。
するとそこには案の定、ピンクのビキニトップが、クジラのように口を開いた波のチューブから逃れようと、必死に井田の後ろを追っているのが見えた。
「あ、あったっ!!」
思わず声を上げてブラの方を指さすと、ボードは素早く反応し、差した通りに弧を描き、進行方向を左に変えた。
「うわわ、そっちダメ!飲まれるっ!!」
ボードが波の掘れ口に向かって突進し始めたので、井田は慌てて腰を屈め、夢中で両腕を振り被った。
すると今度は、さっきより更に深く切れた角度で、ボードは見事なターンを披露し、再び進路を右へ戻した。
その時になって、井田はハッとした。
誰?このボード乗ってんの。
大きなスプレーを上げて、ギリギリのカットバックが決まった瞬間、ペパーミントグリーンのボードと、へタレの波が一緒になって、クククククッと笑う振動を、井田は足の裏に感じた気がした。
そして美人の三本牙の優等生は、そのまま井田を波の中腹にセットする。
再び波と向かい合う井田。
しかし今度は、さっきより全く心が落ち着いている。
自分の足元に、頼もしい相棒がいる。そんな確信があった。
そしてピンクのビキニが後方にあることを、素早く横目で確認する。
今度こそ捕まえてやる。 頼むぞ……
ボードを踏み込み合図を送る。
姿勢を低く抑え、左手を広げて波に触れ、そのままフェイスを掻くように爪を立てる。
青い壁に、白いムチが跳ね上がり、ボードが一気に減速する。
引っ掛かれっ! どうかこの手に・・・!!
波に爪痕を刻みつけ、祈るように進行方向を見つめる。
瞬間、岸で大騒ぎしているギャラリーの野次も聞こえなくなり、景色が涙型の青いフレームに包み込まれて行くように見えた。
そしてそのフレームの左奥から、ピンク色のクラゲのようなものがヒラヒラと見えて来て、波を掻く井田の指にビシッ!と絡みついた。
それを即座に握りしめ、斜面に食い込ませていた左手を、音を立てて引き抜く。
その手に絡んでいたのは、紛れもなくホナミのピンクのエアーパット入りビキニだった。
「うおおおっ!!やったああああああっっ!!!」
井田は感極まり、大きく雄叫びを上げると、ボードの上でウンコ座りのように身を屈め、それから一気に立ち上がり、両手を頭上高く突き上げた。
その時、スポッ!という音がして、狭まっていた視界が突然開け、聴覚が元に戻った。
「 あ 」
空が見えた。
その空を駆ける雲が見え、
後ろで波の崩れる音が聞こえた。
何が起きたのかわからないまま、井田がガッツポーズで岸を見ると、そこにはホナミ、ササラ、一緒に波待ちしていた角刈り熟年、孫坊主、金のロン毛、枯れたブロッコリー、その他、集まったローカル達が、井田に向かって惜しげない拍手と歓声を送っていた。
それは、三本牙の優等生が、井田を乗せて、見事にチューブを抜けた瞬間だった。
ボードは最後に、へタレの波と別れを惜しむように、優雅なターンをそのインサイドに描いて見せると、そのままゆっくり、真っ直ぐに、井田を岸へと運んで行った。
ホナミが、ササラのハッピを羽織って、子ザルのように走って来る。
それを見て、井田は初めてホナミに対し、心の底から笑顔になった。
首にはまだ、白いラッシュガードがスーパーマンのようにはためいていて……
それはペパーミントグリーンのボードが起こした、二度とない奇跡だった。
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<カガミハマ・ローカルサーフクラブ防災日誌>
8月×日 (火)12:00 担当 笹良 艪美雄
平貝海岸、台風接近のため全員撤収のち閉鎖。
怪我人ナシ
・波の大小にかかわらず、入水する時は必ずリーシュコードはつけよう。
・自分の力量にあった波のサイズでサーフィンしよう。
・サーフィン中は相応のウェットスーツ、水着を着用しよう。
・自分たちの持ちこんだゴミは必ず家に持ち帰ろう。
・犬の糞、踏んでたら教えろっつーの。
以上
サーフシーンはコメディとして、大げさに、かなりありえないシチュエーションを描いております。
特にビキニが、サーフボードより早く波の上を走ることは絶対にありえません。ご了承下さい(^^)




