ローリングスルー、します
井田は崖の脇から素早く入水し、パドルを開始した。
3本のフィンを備えた、ほっそりしたペパーミントグリーンのロングボードは、嬉々としてへタレのインサイドを進んで行く。
本当は井田のお気に入りのボードは、ハイエースに取り残された真っ赤な、ぼってりと厚みのあるシングルフィンの方だった。
そいつでモモコシくらいの波に乗り、ちょろっとノーズライドなんかしてみたり……それが井田の好きな、お気楽小波サーフスタイルだった。
そして今ヘタレに入水した、この細身のトライフィンのボードは、鵠沼の馴染みのサーフショップのオヤジに、
「井田ちゃん、これ乗ってみない?今までのサーフィン、なんだったの??って、目からウロコ落ちちゃうよ〜!?」
と延々半日、その操作性の良さについて語られているうちに、一応そういうのも一本くらいは持ってたほうが良いかもな、とその気にさせられ、衝動買いしてしまったモノだった。
しかし買ってはみたものの、はっきり言って小波にしか乗らない井田がボードをグリングリンと取りまわし、波の斜面を縦横無尽に舐めつくす機会なんて無いわけで、井田としてもやっぱり、存在感のある一本牙のボードを、メローな波の柔肌に食い込ませ、横にボーっと気持ち良く滑って行かれればそれで良かったのだ。
なので買った当初は何回か乗ってみたけれど、ボードの良さをそれほど実感することも無く、目からウロコが落ちることも無く、ただ翌月に通帳から25万円が落ちただけだった。
なんだか痩せすぎた菜食主義の、ファッションモデルみたいなアウトラインも、
『ご主人様のご指示のままに動きます』
と言うような優等生ヅラも、これと言った指示の無い井田にとってはどうにも馴染めなくて、結局その後、このトライフィンの出番はほとんど無かった。
そんな気の合わない美人の優等生を、この一大事に抜擢したのはなぜか。
それはショップオヤジの、
『これ一本で、スネヒザからオーバーヘッドも、巻き巻きの掘れ掘れもOK牧場!』
という、腐り果てた古いギャグを交えたセールストークが、頭に蘇ったからだ。
なので、本日久々の出番となり、三本牙のペパーミントグリーンは張り切っていた。
そしてへタレのカレントは来るものを拒まず、その三本牙を快く沖へと誘い、井田のパドルなんて要らないんじゃないかと思うような勢いで、勝手にどんどん大きなウネリを越えて行く。
うっわ〜!これ、超楽勝なんだけど!?
このまま乾いた髪で、爽やかにアウトに到達か?!
井田は首に巻いた白いラッシュガードをはためかせてほくそ笑んだ。
しかしそれは甘かった。
やっぱり来るモノは来る。
ホナミ達のいる方に視線を向けると、沖から、波のセットが入って来るのが見えた。
セットとは、通常より一回り大きな波の一群だ。
例えば『今日の波はムネカタ、セットアタマオーバー』と言われたら、『平均して胸から肩の高さの波だけど、たまに身長の高さを越える2メートル位の波が、立て続けに3〜5本来るよ』という意味で、その一群が去るとまた通常サイズの波に戻り、それがおよそ5分から15分位の周期で繰り返される。
そして今、ちょうど頭くらいのセットが、沖から悠然と入ってきた。
井田は、ホナミがこの中の一本に乗ってしまうのではないかと焦ったが、それより先にショートボードの青年が波を取り、左にテイクオフしていった。
その後、波は破裂するような音を立て、飛沫を上げて砕け散り、ついに真っ白なスープが、もんどり打ちながら井田の目の前に迫って来た。
プッシングスルーじゃちょっと無理?!
と思いつつ、井田は一か八かで、レールを掴んだ両腕を真っ直ぐ伸ばし、押し寄せるスープを胸とボードの間に通そうとしてみたが、その厚みは腕の長さを上回り、井田は顔面平手打ちのような衝撃を食らって、大きく後ろに押し戻された。
そして危うくボードを手から離しそうになった時、自分がリーシュコードを付け忘れている事に気が付いた。
やっべー!ウソでしょ!?なんでこんな時に限って!!
自分の左足首とボードを繋ぐ、泳ぎの苦手な井田にとっては命綱のような存在でもあるリーシュコードを付け忘れる。*
それは致命的な失敗に思えた。
しかし、今さら岸に戻っている時間は無い。
こうしている間にも、ホナミは波に乗ろうと方向転換し、岸に並んだササラやローカル青年達に乳を晒して、テイクオフしてしまうかも知れないのだ。
それだけは、何としても阻止しなければっっ!!
次の波もやはり大きく、今度は誰も乗れないまま虚しく崩れ、そのスープの第二弾が、暴走する白い羊の群れのようにドドドと押し寄せてくる。
はうぅっ、、、もはやローリングスルーしかないっ!!
大きく息を吸い込み、井田が海中に転がり込むのとほぼ同時に、ズンッ、、という音がして、波が板の裏を打つ。
その衝撃でボードが深く沈みこみ、表側にしがみ付いていた井田の額にぶち当たる。
危険を感じ、反射的にボードから離れようと腕を伸ばしてのけ反ると、井田の体重がノーズ側に大きく掛かり、更にグッとボードが沈み、その上を波がドラムロールのような音を立てながら、一気に駆け抜けて行く。
絶対、手ぇ離すなよ、俺ぇぇぇっ!!!
ノーリーシュのボードを波に奪われてなるものか、と固く決意し口を閉じ、握る手に力を込めてじっと耐える。
今、そうまでして井田を沖へと駆り立てているのは、
『ホナミの胸を誰にも見せたくない』
という、なぜかちょっとした独占欲……であることに本人はまだ気付いていなかった。
沈めたボードがふと軽くなるのを腕に感じ、井田はそのタイミングを逃さず海面に浮上して、再びボードを表に返し、素早くその上に這い上がった。
中途半端に長い髪が、オールフロントで顔全体にへばりつく。
「んもぉう、だからイヤなんだよぉぉぉぉーーーー!!!」
犬のように頭を左右にブルブルッと振り、すぐさまパドルを開始。
と思ったら、気付けば既に唯一の難関を抜けていて、少し左前方には、もう波待ちするローカル達の姿が見えていた。
どうやら井田は、三度目のスープ攻撃を免れたのだ。
おぉぉっぉ俺、抜けられたぁぁぁぁぁっ??!!奇跡だ!!
たった一回のローリングスルーでアウトに出られた事に感動し、井田はへタレのカレントに心から感謝した。
ピークでは、ホナミがまだ神妙に波待ちしている姿が見える。
そして急いで乱れた髪をササッと整え、鼻から水が垂れていないか確かめてから、ローカル達の方へパドルして行く井田。
「こんにちは〜!」
爽やかな作り笑顔を浮かべて、大きな声で挨拶をすると、すぐにホナミが気が付いて、嬉々とした声を上げる。
「あ!リョウさんだ!!」
一緒にいたローカル4人が、一斉に井田の方を振り向く。
「あれ、こんにちは」
さっき一本、波に乗った、ロングボードの角刈りの熟年男が、今更ながら入水してきた井田を不思議そうに見て挨拶を返した。
他の3人も、それに続く。
「こんちわーす」
「ちゃーっす」
「ちゅぃーっす」
反応は悪くない。むしろ好意的だ。
一番手前の角刈り熟年以外は、みなショートボーダー。
一人は坊主頭の中学生くらいで、その奥の一人は、染めたばかりの金髪のロン毛を後ろで一つに縛り、もう一人は、モッサリとした枯れたブロッコリーのような茶色い髪で、二人とも20代前半のヤンキー仲間と言った感じの青年だ。
その一番奥は、スッキリとした短髪に目鼻の整った高校生くらいの男子で
……いや、違う、ナカムラさんだし。
「リョウさん、やっぱり来たんじゃん!」
「んでもよ、そろそろ上がる時間だっぺ?」
角刈り熟年は、まだ新しいグレーのスプリングのウェットスーツを着ていたが、中学生やヤンキー青年達は、海パンに上半身裸か、ヨレヨレのTシャツという姿だ。
その中に、レモンイエローの海パン一丁のホナミは違和感なく溶け込んでいて、誰もホナミの性別に、疑問を抱いている様子は無い。
「あーはい、そうみたいなんですが、ちょっと『彼』に渡すモノがあって……ナカムラ君、ちょっとこっち来て……いや、やっぱりジッとしてて」
「え?なに、どっちよ??」
「や、このラッシュを着なさい……」
「はぁ?なんでそんなもん!!」
「いや、いいからとにかくね、、、」
井田の気も知らずに、余計なおせっかいと言わんばかりに口を尖らし、不機嫌になるホナミ。
しかしここまで来たら無理にでも着せるしかない。
井田はホナミの胸を見ないように気を付けながら、首に巻いた白いラッシュを外しにかかる。
が、結び目が濡れたせいか、なんだか固く締まって上手く解けない。
「あれ、どうしよう。取れなくなっちゃった」
「もう、リョウさん、何のためにそんな物わざわざ……」
「ねえ、ロングのお兄さん!」
突然、坊主頭の中学生が井田に話しかけて来た。
「え?」
「東京のサーフショップの店長さんなんだって?ボディボのあんちゃんが、さっき教えてくれたんだ。かっこいい店なんだってね」
中学生は、好奇心で目をキラキラと輝かせている。
ボディボのあんちゃん……
「よぉ、店長さん、なんでラッシュなんて首に巻いてんすか?」
「バカだなオマエ、そういうの、きっと流行ってるんすよね?ね??」
「え、いや、そんなわけじゃ、、、」
「東京の人って、夏でもみんな靴と靴下はいてるってホントっすか??」
「へ?!いや、それは、、、」
「やっぱ、買い物は基本、シブヤっすか??」
今度は中学生につられて、ヤンキー青年二人も、矢継ぎ早に質問をしてくる。
その間に形良いセットが入って来たが、みんな喋るのに夢中で、それをあっさりスルーした。
井田はさっさとラッシュを外したいのに、ピンボケな会話に気が散って、結び目がどうなっているのか分からない。
そこへ角刈り熟年まで割り込んできた。
「俺ぁ最後に東京行ったのぁ〜もう10年以上前になっぺかなぁ〜?浅草でちょいとハメ外してよぉ〜。でへへへ〜」
「じっちゃん、なんかエロい笑いかたしてんじゃねーよ」
角刈り熟年と中学生は、驚いた事に祖父と孫の関係のようだった。
「あんときゃぁ参ったな〜 財布すっからかんになってよ〜」
「オジサン、ヘンな店連れてかれたの?」
「おっさん、エロっすね〜」
「いや〜なんかちょっとイイ女いるって言われちまってよ〜」
「なあょぉ〜あんちゃん、こんどオレたち東京行ったらクラブ連れてってくれねーか?」
「クラブぅ?そんなのより、自分がバイトしてる新宿の店、おいでよ!!
「バイトって?」
「何の店?」
「きゃば」
「え?」
「ええ??」
「キャバ??」
「キャバクラ??」
「ウソだぁ〜キャバクラだって」
「あんちゃん 呼び込みでもやってんのかぁ?!」
「ホントだよ!あんちゃんじゃないよ、自分オンナだし!!」
ワハハ! そっか、ほんじゃ二丁目の店だっぺ?
実はオカマだっぺや〜!? ワハハハハ!!
オカマじゃないよ!
わかったわかった、じゃあゲイバーだっぺ?
面白そう、オカマバー! ボクも行きたいよ!
オマエは未成年だからダメだ!!
ケチ!! ワハハハハ!!!
オカマじゃなくてホント、アタシ、オンナだってば!!
アタシだって! ますますオカマっぽいじゃん ワハハハハ!!!
『ホナミは新宿のキャバクラでバイトをしている』
井田はその姿からは想像しがたい事実に動揺した。
そしてもう、ホナミが男だという前提でこの場に居続けるのは限界と判断し、話を切るように口を挟んだ。
「ナカムラ君、いいから黙ってさっさと……」
「だってオンナが裸でいるわけあんめーよ」
角刈り熟年の一言に、井田は心臓が止まりそうになった。
「はぁ?はだかぁ?」
ホナミがきょとんと、角刈り熟年に問い返した時、
「来たああああああああああああぁっ!!」
と、金のロン毛と枯れたブロッコリーが、ほぼ同時に叫び、真剣な目つきで沖を指差したので、オカマとハダカの話は打ち切られ、みな一斉にその方向を見た。
すると遠目にも、波のうねりが今までより明らかに広く高く、モリモリと膨張していくのが分かった。
「おぉぉっ!これはかなりデカそうだべ!!」
「化けセット!あんちゃん、ゴ—!頑張れっ!!」
「よっしゃぁぁぁぁっ!!」
角刈り熟年と孫坊主に煽られ、ホナミはPK合戦に挑むエースストライカーのように、腹の底から気合の入った声で叫ぶと、白いフィンを、パァン!!と打ち鳴らしてキッキングを開始した。
「ちょ、ちょっと待って、ナカムラさん、や、ナカムラ君!!」
波が、今までのラインよりだいぶ沖寄りでそそり立つ。
ホナミは自慢の脚力で、全速でアウトに移動を始めたが、話に気を取られていた分だけ出遅れてしまい、
ピークは早くも崩れそうに、白くさざめいている。
今いる位置では、テイクオフのタイミングが合わないと判断したホナミは、その波が上からのしかかってくる前に、なんとか登って越えて行き、次の二本目に向かった。
孫坊主は、ここぞとばかりに、見切りを付けられた波を拾って、ギリギリの位置からテイクオフ。
「イェーイッ!!」
そして、雄叫びと共に波の向こうに見えなくなった。
その頃、ホナミも含め、無事一本目の波を登り超えた他の5人が、目の当たりにしたセットの二本目。
美しく広い肩幅のその波は、一本目より更にサイズアップの頭半。
本日のへタレ一番とも言えるその波のピークには、極め付けにピンクの可愛いトッピングが乗っていた。
「うぎゃああああああ!!!!」
井田が引きつり声で叫んだので、金のロン毛は、井田がビビったのかと勘違いし、
波に向かってパドルしながら、大きく声を掛けた。
「落ちつけよ!兄さん、サーフショップの店長なんだろっ!?おい、オッサンも!もっとアウトにパドルしな!!そんなとこに居っと、まともに波、食らうぞっ!!!」
そしてまた横で甲高い奇声が上がる。
「あああアレ!!アタシの、ビキニーーーーー!!!!」
その声は、へタレの入り江じゅうに響き渡った。
「へっ?!」
「アタシの!?」
「ビキニ?!?!」
崩れそうな大波を前に、今まさに深いドルフィンスルーをしようと、ボードのレールを抑え、大きく息を吸い込んだ金のロン毛と枯れたブロッコリーは、思わずホナミの方を見た。
角刈り熟年は『アタシのビキニ』という、自分の日常とは縁の無い言葉に混乱し、状況がよく飲み込めないまま、ただただ目を見開き、壁のように迫り来る、高さ2.5メートルの波の頂きに君臨する、ピンクの乳首のような突起を茫然と見上げていた。
そこから先は、全てが一瞬の出来事のようでもあり、スローモーションのようでもあった。
リーシュコードは、ライディングに失敗してサーファーが海中に放り出された時、板だけが遠くに流れて行ってしまうことを防ぐための物です。
波が大きい時は、水の勢いで切れてしまうこともあるので、泳げない人が命綱として考えるのは本来間違っています。
海底の岩礁などに絡まり、逆に溺れる危険性もあるので、いざという時はリーシュを外さなければならない場合もあります。
そんな時でも沖から自力で帰ってこれるよう、日頃からしっかり泳力をつけておく必要があります。




