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あたしはアヒル3  作者: るりまつ
17/48

ローリングスルー、します


 井田は崖の脇から素早く入水し、パドルを開始した。

 3本のフィンを備えた、ほっそりしたペパーミントグリーンのロングボードは、嬉々としてへタレのインサイドを進んで行く。

 本当は井田のお気に入りのボードは、ハイエースに取り残された真っ赤な、ぼってりと厚みのあるシングルフィンの方だった。

 そいつでモモコシくらいの波に乗り、ちょろっとノーズライドなんかしてみたり……それが井田の好きな、お気楽小波サーフスタイルだった。

 そして今ヘタレに入水した、この細身のトライフィンのボードは、鵠沼の馴染みのサーフショップのオヤジに、


「井田ちゃん、これ乗ってみない?今までのサーフィン、なんだったの??って、目からウロコ落ちちゃうよ〜!?」


 と延々半日、その操作性の良さについて語られているうちに、一応そういうのも一本くらいは持ってたほうが良いかもな、とその気にさせられ、衝動買いしてしまったモノだった。

 しかし買ってはみたものの、はっきり言って小波にしか乗らない井田がボードをグリングリンと取りまわし、波の斜面を縦横無尽に舐めつくす機会なんて無いわけで、井田としてもやっぱり、存在感のある一本牙のボードを、メローな波の柔肌に食い込ませ、横にボーっと気持ち良く滑って行かれればそれで良かったのだ。

 なので買った当初は何回か乗ってみたけれど、ボードの良さをそれほど実感することも無く、目からウロコが落ちることも無く、ただ翌月に通帳から25万円が落ちただけだった。

 なんだか痩せすぎた菜食主義の、ファッションモデルみたいなアウトラインも、


『ご主人様のご指示のままに動きます』

 

 と言うような優等生ヅラも、これと言った指示の無い井田にとってはどうにも馴染めなくて、結局その後、このトライフィンの出番はほとんど無かった。

 そんな気の合わない美人の優等生を、この一大事に抜擢ばってきしたのはなぜか。

 それはショップオヤジの、


『これ一本で、スネヒザからオーバーヘッドも、巻き巻きの掘れ掘れもOK牧場!』


 という、腐り果てた古いギャグを交えたセールストークが、頭によみがえったからだ。

 なので、本日久々の出番となり、三本牙のペパーミントグリーンは張り切っていた。

 そしてへタレのカレントは来るものを拒まず、その三本牙を快く沖へと誘い、井田のパドルなんて要らないんじゃないかと思うような勢いで、勝手にどんどん大きなウネリを越えて行く。


 うっわ〜!これ、超楽勝なんだけど!?

 このまま乾いた髪で、爽やかにアウトに到達か?!


 井田は首に巻いた白いラッシュガードをはためかせてほくそ笑んだ。

 しかしそれは甘かった。

 やっぱり来るモノは来る。

 ホナミ達のいる方に視線を向けると、沖から、波のセットが入って来るのが見えた。

 セットとは、通常より一回り大きな波の一群だ。

 例えば『今日の波はムネカタ、セットアタマオーバー』と言われたら、『平均して胸から肩の高さの波だけど、たまに身長の高さを越える2メートル位の波が、立て続けに3〜5本来るよ』という意味で、その一群が去るとまた通常サイズの波に戻り、それがおよそ5分から15分位の周期で繰り返される。


 そして今、ちょうど頭くらいのセットが、沖から悠然と入ってきた。

 井田は、ホナミがこの中の一本に乗ってしまうのではないかと焦ったが、それより先にショートボードの青年が波を取り、左にテイクオフしていった。

 その後、波は破裂するような音を立て、飛沫を上げて砕け散り、ついに真っ白なスープが、もんどり打ちながら井田の目の前に迫って来た。


 プッシングスルーじゃちょっと無理?!


 と思いつつ、井田は一か八かで、レールを掴んだ両腕を真っ直ぐ伸ばし、押し寄せるスープを胸とボードの間に通そうとしてみたが、その厚みは腕の長さを上回り、井田は顔面平手打ちのような衝撃を食らって、大きく後ろに押し戻された。

 そして危うくボードを手から離しそうになった時、自分がリーシュコードを付け忘れている事に気が付いた。


 やっべー!ウソでしょ!?なんでこんな時に限って!!


 自分の左足首とボードを繋ぐ、泳ぎの苦手な井田にとっては命綱のような存在でもあるリーシュコードを付け忘れる。*

 それは致命的な失敗に思えた。

 しかし、今さら岸に戻っている時間は無い。

 こうしている間にも、ホナミは波に乗ろうと方向転換し、岸に並んだササラやローカル青年達に乳を晒して、テイクオフしてしまうかも知れないのだ。


 それだけは、何としても阻止しなければっっ!!


 次の波もやはり大きく、今度は誰も乗れないまま虚しく崩れ、そのスープの第二弾が、暴走する白い羊の群れのようにドドドと押し寄せてくる。


 はうぅっ、、、もはやローリングスルーしかないっ!!

 

 大きく息を吸い込み、井田が海中に転がり込むのとほぼ同時に、ズンッ、、という音がして、波が板の裏を打つ。

 その衝撃でボードが深く沈みこみ、表側にしがみ付いていた井田の額にぶち当たる。

 危険を感じ、反射的にボードから離れようと腕を伸ばしてのけ反ると、井田の体重がノーズ側に大きく掛かり、更にグッとボードが沈み、その上を波がドラムロールのような音を立てながら、一気に駆け抜けて行く。


 絶対、手ぇ離すなよ、俺ぇぇぇっ!!! 


 ノーリーシュのボードを波に奪われてなるものか、と固く決意し口を閉じ、握る手に力を込めてじっと耐える。

 今、そうまでして井田を沖へと駆り立てているのは、


『ホナミの胸を誰にも見せたくない』


 という、なぜかちょっとした独占欲……であることに本人はまだ気付いていなかった。


 沈めたボードがふと軽くなるのを腕に感じ、井田はそのタイミングを逃さず海面に浮上して、再びボードを表に返し、素早くその上に這い上がった。

 中途半端に長い髪が、オールフロントで顔全体にへばりつく。


「んもぉう、だからイヤなんだよぉぉぉぉーーーー!!!」


 犬のように頭を左右にブルブルッと振り、すぐさまパドルを開始。

 と思ったら、気付けば既に唯一の難関を抜けていて、少し左前方には、もう波待ちするローカル達の姿が見えていた。

 どうやら井田は、三度目のスープ攻撃を免れたのだ。



 おぉぉっぉ俺、抜けられたぁぁぁぁぁっ??!!奇跡だ!!



 たった一回のローリングスルーでアウトに出られた事に感動し、井田はへタレのカレントに心から感謝した。

 ピークでは、ホナミがまだ神妙に波待ちしている姿が見える。

 そして急いで乱れた髪をササッと整え、鼻から水が垂れていないか確かめてから、ローカル達の方へパドルして行く井田。


「こんにちは〜!」


 爽やかな作り笑顔を浮かべて、大きな声で挨拶をすると、すぐにホナミが気が付いて、嬉々とした声を上げる。


「あ!リョウさんだ!!」


 一緒にいたローカル4人が、一斉に井田の方を振り向く。


「あれ、こんにちは」


 さっき一本、波に乗った、ロングボードの角刈りの熟年男が、今更ながら入水してきた井田を不思議そうに見て挨拶を返した。

 他の3人も、それに続く。


「こんちわーす」

「ちゃーっす」

「ちゅぃーっす」


 反応は悪くない。むしろ好意的だ。

 一番手前の角刈り熟年以外は、みなショートボーダー。

 一人は坊主頭の中学生くらいで、その奥の一人は、染めたばかりの金髪のロン毛を後ろで一つに縛り、もう一人は、モッサリとした枯れたブロッコリーのような茶色い髪で、二人とも20代前半のヤンキー仲間と言った感じの青年だ。

 その一番奥は、スッキリとした短髪に目鼻の整った高校生くらいの男子で


 ……いや、違う、ナカムラさんだし。


「リョウさん、やっぱり来たんじゃん!」

「んでもよ、そろそろ上がる時間だっぺ?」


 角刈り熟年は、まだ新しいグレーのスプリングのウェットスーツを着ていたが、中学生やヤンキー青年達は、海パンに上半身裸か、ヨレヨレのTシャツという姿だ。

 その中に、レモンイエローの海パン一丁のホナミは違和感なく溶け込んでいて、誰もホナミの性別に、疑問を抱いている様子は無い。


「あーはい、そうみたいなんですが、ちょっと『彼』に渡すモノがあって……ナカムラ君、ちょっとこっち来て……いや、やっぱりジッとしてて」

「え?なに、どっちよ??」

「や、このラッシュを着なさい……」

「はぁ?なんでそんなもん!!」

「いや、いいからとにかくね、、、」


 井田の気も知らずに、余計なおせっかいと言わんばかりに口を尖らし、不機嫌になるホナミ。

 しかしここまで来たら無理にでも着せるしかない。

 井田はホナミの胸を見ないように気を付けながら、首に巻いた白いラッシュを外しにかかる。

が、結び目が濡れたせいか、なんだか固く締まって上手く解けない。


「あれ、どうしよう。取れなくなっちゃった」

「もう、リョウさん、何のためにそんな物わざわざ……」

「ねえ、ロングのお兄さん!」


 突然、坊主頭の中学生が井田に話しかけて来た。


「え?」

「東京のサーフショップの店長さんなんだって?ボディボのあんちゃんが、さっき教えてくれたんだ。かっこいい店なんだってね」


 中学生は、好奇心で目をキラキラと輝かせている。



 ボディボのあんちゃん……



「よぉ、店長さん、なんでラッシュなんて首に巻いてんすか?」

「バカだなオマエ、そういうの、きっと流行ってるんすよね?ね??」

「え、いや、そんなわけじゃ、、、」

「東京の人って、夏でもみんな靴と靴下はいてるってホントっすか??」

「へ?!いや、それは、、、」

「やっぱ、買い物は基本、シブヤっすか??」


 今度は中学生につられて、ヤンキー青年二人も、矢継ぎ早に質問をしてくる。

 その間に形良いセットが入って来たが、みんな喋るのに夢中で、それをあっさりスルーした。

 井田はさっさとラッシュを外したいのに、ピンボケな会話に気が散って、結び目がどうなっているのか分からない。

 そこへ角刈り熟年まで割り込んできた。


「俺ぁ最後に東京行ったのぁ〜もう10年以上前になっぺかなぁ〜?浅草でちょいとハメ外してよぉ〜。でへへへ〜」

「じっちゃん、なんかエロい笑いかたしてんじゃねーよ」


 角刈り熟年と中学生は、驚いた事に祖父と孫の関係のようだった。


「あんときゃぁ参ったな〜 財布すっからかんになってよ〜」

「オジサン、ヘンな店連れてかれたの?」

「おっさん、エロっすね〜」

「いや〜なんかちょっとイイ女いるって言われちまってよ〜」

「なあょぉ〜あんちゃん、こんどオレたち東京行ったらクラブ連れてってくれねーか?」 

「クラブぅ?そんなのより、自分がバイトしてる新宿の店、おいでよ!!

「バイトって?」

「何の店?」   

「きゃば」  

「え?」 

「ええ??」

「キャバ??」

「キャバクラ??」

「ウソだぁ〜キャバクラだって」

「あんちゃん 呼び込みでもやってんのかぁ?!」

「ホントだよ!あんちゃんじゃないよ、自分オンナだし!!」


  ワハハ! そっか、ほんじゃ二丁目の店だっぺ?  


   実はオカマだっぺや〜!? ワハハハハ!!  


  オカマじゃないよ! 


   わかったわかった、じゃあゲイバーだっぺ?


  面白そう、オカマバー! ボクも行きたいよ! 


   オマエは未成年だからダメだ!!


  ケチ!! ワハハハハ!!! 

  

   オカマじゃなくてホント、アタシ、オンナだってば!!


  アタシだって! ますますオカマっぽいじゃん ワハハハハ!!!



『ホナミは新宿のキャバクラでバイトをしている』


 井田はその姿からは想像しがたい事実に動揺した。

 そしてもう、ホナミが男だという前提でこの場に居続けるのは限界と判断し、話を切るように口を挟んだ。


「ナカムラ君、いいから黙ってさっさと……」


「だってオンナが裸でいるわけあんめーよ」


 角刈り熟年の一言に、井田は心臓が止まりそうになった。


「はぁ?はだかぁ?」


 ホナミがきょとんと、角刈り熟年に問い返した時、



「来たああああああああああああぁっ!!」



 と、金のロン毛と枯れたブロッコリーが、ほぼ同時に叫び、真剣な目つきで沖を指差したので、オカマとハダカの話は打ち切られ、みな一斉にその方向を見た。

 すると遠目にも、波のうねりが今までより明らかに広く高く、モリモリと膨張していくのが分かった。


「おぉぉっ!これはかなりデカそうだべ!!」

「化けセット!あんちゃん、ゴ—!頑張れっ!!」

「よっしゃぁぁぁぁっ!!」


 角刈り熟年と孫坊主に煽られ、ホナミはPK合戦に挑むエースストライカーのように、腹の底から気合の入った声で叫ぶと、白いフィンを、パァン!!と打ち鳴らしてキッキングを開始した。



「ちょ、ちょっと待って、ナカムラさん、や、ナカムラ君!!」



 波が、今までのラインよりだいぶ沖寄りでそそり立つ。

 ホナミは自慢の脚力で、全速でアウトに移動を始めたが、話に気を取られていた分だけ出遅れてしまい、

ピークは早くも崩れそうに、白くさざめいている。

 今いる位置では、テイクオフのタイミングが合わないと判断したホナミは、その波が上からのしかかってくる前に、なんとか登って越えて行き、次の二本目に向かった。

 孫坊主は、ここぞとばかりに、見切りを付けられた波を拾って、ギリギリの位置からテイクオフ。


「イェーイッ!!」


 そして、雄叫びと共に波の向こうに見えなくなった。


 その頃、ホナミも含め、無事一本目の波を登り超えた他の5人が、目の当たりにしたセットの二本目。

 美しく広い肩幅のその波は、一本目より更にサイズアップの頭半。

 本日のへタレ一番とも言えるその波のピークには、極め付けにピンクの可愛いトッピングが乗っていた。



「うぎゃああああああ!!!!」



 井田が引きつり声で叫んだので、金のロン毛は、井田がビビったのかと勘違いし、

 波に向かってパドルしながら、大きく声を掛けた。


「落ちつけよ!兄さん、サーフショップの店長なんだろっ!?おい、オッサンも!もっとアウトにパドルしな!!そんなとこに居っと、まともに波、食らうぞっ!!!」


 そしてまた横で甲高い奇声が上がる。



「あああアレ!!アタシの、ビキニーーーーー!!!!」



 その声は、へタレの入り江じゅうに響き渡った。



「へっ?!」

       「アタシの!?」

               「ビキニ?!?!」



 崩れそうな大波を前に、今まさに深いドルフィンスルーをしようと、ボードのレールを抑え、大きく息を吸い込んだ金のロン毛と枯れたブロッコリーは、思わずホナミの方を見た。

 角刈り熟年は『アタシのビキニ』という、自分の日常とは縁の無い言葉に混乱し、状況がよく飲み込めないまま、ただただ目を見開き、壁のように迫り来る、高さ2.5メートルの波の頂きに君臨する、ピンクの乳首のような突起を茫然と見上げていた。


 そこから先は、全てが一瞬の出来事のようでもあり、スローモーションのようでもあった。







リーシュコードは、ライディングに失敗してサーファーが海中に放り出された時、板だけが遠くに流れて行ってしまうことを防ぐための物です。

波が大きい時は、水の勢いで切れてしまうこともあるので、泳げない人が命綱として考えるのは本来間違っています。

海底の岩礁などに絡まり、逆に溺れる危険性もあるので、いざという時はリーシュを外さなければならない場合もあります。

そんな時でも沖から自力で帰ってこれるよう、日頃からしっかり泳力をつけておく必要があります。

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