視線
小さなトンネルを抜けると、井田とホナミは思わず歓声を上げた。
そこは右側を今くぐって来た小高い崖、左側をもう一回り高く長い二つの崖に挟まれた、東西の風をかわす絶好のポイントだった。
二本の腕のように厳つい崖は入江を抱き、強い風をピシャリと遮断しながら、白い波頭の立つ沖合のうねりだけを引き寄せる。
うねりは左の腕に従いながら、大きな波の隊列へと生まれ変わり、規則正しく行進を始める。
そして右に向かって挙手すると、その白手袋を、内側へ内側へと巻き込みながら崩れて行き、それからふつふつ沸き立つ泡へと還り、岸いっぱいに広がり尽くす。
あとは右の腕に沿う流れとなって、静かに沖へ戻って行く……
それはこの辺りの海岸線に点在する、台風や猛烈な低気圧が通過する時だけ波が立つ、ローカルサーファー達の為の、小さな秘密の遊び場だ。
「すげーいい波!」
「胸肩、たまに頭、といったカンジですかね、、、」
それはホナミの希望よりは小さく、井田の希望よりはデカかった。
「ナカムラさん、ここでよろしいですか?」
「うんうんうんうん、全然OK!早く入ろう!!」
「そうですね……」
井田は悩んだ。
波はイイ。想像した以上にイイ。
しかも、こんなに良いのに、海に入っているサーファーはたった4人。
これなら、多少ヘマこいてボードをすっ飛ばしても許されそうだ。
しかしそれは無事、沖に出られてから悩むべき問題だ。
今、井田にとって一番問題なのは、この比較的大きな速い波の中、
『ローリングスルーしないで、アウトに出られるのか?』
ということだった。
サーフィンするには、波が最初に崩れ始めるベストポジション『ピーク』まで、自力で行く必要がある。
そのためにサーファーは、サーフボードに腹ばいになり、クロールのように水を掻く、パドリングという動作をしながらアウトサイド(沖・通称アウト)へと向かう。
しかしその途中、アウトで既に崩れた波の、スープと呼ばれる、
真っ白な泡攻撃を受けるのは免れない。
泡と言うと軽そうに聞こえるが、元の波が大きければ、そのボリュームと押し寄せるエネルギーはかなりのものだ。
また、岸近くで割れる波も侮れない。
海水浴のシーズンになると、浮き輪で果敢に波を越えようとして、そのまま裏返しにひっくり返され、逆さクラゲのように脚を上にし、スープに揉まれて岸に打ち上げられる人の姿を見ることがある。
そうならないように、サーファーは上ではなく、下に潜るという方法で、様々な波の攻撃をかわす。
板が短く薄いショートボードの場合は、パドリング中、目の前に波が押し寄せて来たら、腹這いの状態から板の両側を掴み、腕立て伏せのような体勢で、下に向かって体重をかけ、ボードと身体を海中深く押し沈め、背中の上に波を通す。
しかしロングボードは、長さと厚みによる浮力があるので、上から腕で押したぐらいでは沈められない。
なのでレールを掴むまでは同じなのだが、そこから押すのではなく、波が被る直前に、海面で真横にパタリと自ら板をひっくり返す。
そして、その裏返った板の上に波を通し、自分はその板の下でやり過ごし、波が去った頃合いを見て、再び板を表に返し、急いで這い上がってパドルを開始するのだ。
しかし井田は、ローリングスルーが大嫌いだった。
それをすると、顔に前髪が海苔のようにへばり付くし、鼻から海水が入る。
それがアフターサーフの思わぬ時に、例えば気の利いたカフェなんかで、女の子とお茶してる時に限って突然、鼻から垂れてくるからタチが悪い。
大体その動作自体が気に入らない。
棺桶のフタをパタンと引っくり返して出たり入ったりする、お化け屋敷の情けない幽霊みたいで、どうしても好きになれない。
ロングボードのプロサーファーの中には、デカい板でもコツとタイミングで上手く沈めて、ドルフィンスルーのようにカッコ良く波をくぐる者もいる。
けれど井田はそれを目指して練習したりしない。
というより、素人で普通そんな練習するヤツはいない。
練習するなら、ひたすらローリングスルーだ。
上手く出来なくてもローリングスルー。上手く出来るまでローリングスルー。
それでも井田は、ローリングスルーの練習をしない。
だからいざ波がデカい時、どうしてもインサイドを超えてアウトサイドに行かれない。
なので結局、そのままパドルとプッシングスルーだけで抜けられる、コシハラ程度の波に甘え続け、気付けば早8年ほどが経過していた。
それでも良かったのだ。今までは。
それでも楽しく仲間達と、
それにカワイイ湘南ガールズと
俺は波乗りを楽しんできたんだ。
誰も俺を責める奴なんていなかった。
俺はそういう男で許されてきたんだ。
しかし……今、状況は変わってしまった。
『サーフショップの店長サンが、胸肩の波で沖にゲッティングアウトできない』
それはマズイのだ。
そんなみっともない姿を、、、
俺の知らない他人の前ならまだしも……
今、この生意気な小娘に見られたくないっ!!!
井田の、ちっぽけなプライドになんて気付きもせず、すっかりテンションの上がったホナミは、頭に乗せていたサングラスをダッシュボードに放り出すと、早くもオーバーオールの金具をカチャカチャ外し始めた。
「ちょちょちょちょっと待ってよ、ナカムラさん!今、車停めるから……!!」
へタレの波と、まさにへタレな自分の事情に気を取られ、トンネルを出たところでボーっと、ハイエースを停止したままだった井田は、慌ててて駐車スペースを探そうと、辺りを見渡した。
改めて見てみると、この小さな砂浜には特に駐車場というものは無く、海水浴客のための監視場やトイレも無い。
サーファー達の車は、波打ち際より高い砂地に、崖肌に沿って、
微妙な間隔を置いて停めてある。
その数はざっと10台くらい。ナンバープレートは全て地元、袖ヶ浦ナンバー。
見た限り、もうハイエースが入り込めそうなスペースは無かった。
どこに停めさせてもらおうか……
それぞれの車には、海から上がった男達が一人ずついて、着替えをしたり、タバコを一服したりしながら、しかし、確実に、じっと、練馬ナンバーのシルバーのハイエースを見ている。
おっと、、、風はかわしてるけど、視線はガンガン吹き付けてますな〜
そして、その刺さるような視線を送って来る中に、トンネルの穴から車3台離れた所に立っている、地元の消防団のハッピを着た男がいた。
ハッピの男は二人いた。
一人は痩せて、背が高く、崖の方を向いて、携帯電話で誰かと話しこんでいる様子だ。
もう一人は背が低く、ガッチリしていて、井田と目が合うと、『ようやく気付きやがったか』というような険しい表情で、両腕を胸の前で大きくクロスさせながら、ハイエースの方へずかずかと歩いて来た。
ホナミは、オーバーオールの前をダラリと下げたまま、大きな目を見開いて、その男が近づいて来るのを見つめている。
井田は口を曲げて小さくため息をつくと、扉を開けて「よっこらしょ」と、車から降りた。
「こんにちは」
「あんたら何の用?」
男は挨拶抜きで、単刀直入に分かりきった事を訊ねてきた。
「あ、はいあの……海、入らせてもらおうと思って来たんですが……」
「東京から?」
「はい」
「誰に聞いた?」
「はい?」
「ココ、誰に聞いたかってよ!?」
男がいきなり語気を強めてきたので、井田が
ノガワタケル……
と、答えて良いのかどうか一瞬迷った時、車の中からホナミが加勢するように、高い声で言った。
「ねえ、オジサン!!ササラ君のこと、今日どっかで見なかった?!」
ハッとして振り返った井田に、ホナミがニッ!と笑って、男からは見えない位置でピースする。
そうだ!インネン付けられる前に、
その名前でハッタリかませって言われたんだった!!
すっかり忘れていた井田は、同じくハッピの男に見えないように、ホナミに向かって歯を剥いてニッと笑い返す。
「ササラぁ?」
「そう、ササラ君!」
井田が、オウム返しにその名前を口にする。
すると男は眉をひそめ、井田とホナミの顔を呆れたように交互に見てから言った。
「ササラなら、あすこにいんじゃねーか」
「ええっ?!」
「ええっ!?}
井田とホナミは同時に声をあげた。
「おーーーーーい、ササラぁ!!」
その呼び声に、消防団のハッピを着た、背の高い方の男が、携帯電話を耳に当てたまま、ゆっくりと振り返る。
うそぉ!?!?
「こん人ら、東京からオメ—にわざわざ合いに来たんだとよぉ!!」
なんでココに居ちゃうわけぇぇ!?!?
ササラと呼ばれた男は、携帯電話をパタンと閉じると、ハイエースの方をじっと見た。
凍りつく井田とホナミ。
冷たい切れ長の目をしたその男は、井田と目が合うと、下まぶたをスッと上げ、更に目を細めた。
そして一時も目を逸らさずに、こちらに向かって歩いてくると、井田のすぐ目の前で立ち止まり、ハイエースのサイドミラーに遠慮なく手を掛けた。
「オメーは俺の知り合いか?」
井田が返事に詰まり、引きつり顏で立ち尽くしていると、その男は獲物を見つけたトカゲのよう舌を出し、やけに真っ直ぐ生え揃った上の前歯を、右から左にチロリと舐めた。