シークレットポイントを探しに
「えーと、ここがウラタだよな……?」
バックミラーに青い胴体の鼻オバケをビヨンビヨンとぶら下げて、
井田は広い弓型の海岸を右手に見ながらハイエースの速度を緩めると、ハザードランプを点けて路肩に停車した。
「あ!鳥居だ」
ホナミが高い声で叫び、指差した方向に、赤い大きな鳥居が見えた。
この日は大潮で、しかもちょうど干潮の時刻だったので、めいっぱい海水の退いた砂浜の所どころに、武骨な岩が顔を覗かせていた。
そして岸から100メートルくらい沖合に、小島のように盛り上がった岩があり、鳥居はその高い位置に立っていた。
沖からやってくる大きなうねりが、小高い岩にブチ当たると、激しい音と共に飛沫が空高く噴き上がる。
勢い余り、岩の裏から這い上がって来た海水は、白い泡をたっぷり含み、ひと塊りとなって赤い鳥居をくぐり抜け、滝のように流れ落ちる。
その眺めは、海の底に潜む鬼神の群れが、この時とばかりに浮上して、こちらの世界に紛れ込んでくるかのように見える。
「すげー。ニッポン!!ってカンジ」
ホナミが貧相な感想を漏らし、運転席の方に身を乗り出してきたので、井田は良く見えるように、海側のパワーウィンドーを開いてやった。
強い風が、唾液の溜まった笛のような音を立てて吹き込み、ホナミの短い髪を乱し、甘い香を撒き散らす。
井田は窓枠に肘を付き、目にかかる前髪を片手で押え、波の様子をチェックした。
うねりは、鳥居のある岩場の背後で二つに別れ、岩肌に沿ってぐるりと周って再び出会い、そこからしっかりと高さのある波となる。
青い三角形の頂点が白くさざめき、左右均等に崩れて行く。
そしてその波面には次第にグイグイと、トンネルのような空間が生み出され、ショートボーダーにはたまらない巻き波に見えた。
けれど掘れ上がる深緑色の波の底辺には、黒い鬼のような岩影が透けて見える。
白い泡に覆い尽くされた岸近くの水面下にも、それらが隠れているのは間違いない。
板をすっ飛ばしてワイプアウトしたら、ボードも体も傷だらけになりそうだ。
遊泳禁止の赤い旗が、東から西へ休むこと無くはためき、海水浴客の姿は全く無い。
砂浜には海の家が数件あったが、その入口も窓にも、既に戸板がしっかり打たれ、店仕舞いとなっている。
海岸に隣接する無料駐車場には、サーファー達の車が何台か駐車されていた。
しかし、潮が引ききる前には海から上がった様子で、もうすっかり着替えを済ませ、タバコを吸ったりしながら、波の恩恵を頂いた余韻に浸っている。
「ウラタはビーチ・ブレイクって聞いてたけど、ほとんどリーフみたいなもんだな。ボトムの地形が分かってないと危ないね」※
「ねえ、ここで入るの?」
「いや、もうちょっと先かな」
「こんな岩っぽいとこ見たの初めて」
「僕も入った事は一度も無い。……もう2時間くらい早く来てれば、潮も上げててまだ入れたかもよ。ナカムラさん好みの、掘れててデカめの波なのに、残念でした」
井田が少しからかうように言うと、ホナミは小さく肩をすくめた。
「リョウさんは、この辺ではあんまりやらないの?」
「ほとんど通り過ぎるだけで、やりませんね。こっちは波もローカルもキツいイメージあるから、僕にはなかなか敷居が高くて」
井田が正直に言うと、ホナミはきょとんとして、
「ローカルって何??」
と訊いてきた。
「えっ?!……ローカルってのは、、、ローカルサーファー。そのポイントの近くに住んでる、地元のサーファー……のことだよね?」
あまりにも普段から口にしている言葉だったので、改めて訊かれると、ひょっとして自分が何か間違った使い方をしたのかと不安になった。
「それがキツイってどういう事?」
「どうって……そういう話、聞いたこと無い?地元のサーファーが、よそから来たサーファーを……なんつーか、うーん、、、いじめるとか」
「いじめるの?どうやって?殴ったりとか??」
ふざけているでもなく、真面目に答えを待つホナミ。
その瞳に、井田は今朝に引き続き、何かしっくりこないものを感じた。
「……いや、今はさすがに殴るって話は聞かなくなったけど、、、まあ例えば、邪魔して波に乗らせないとかさ」
「へーそうなんだ。つまんないことすんだね」
「はい、そうですね……」
どこかピンボケに感じる質問を曖昧に切り上げて、井田はハザードランプを止めると再び車を発進させた。
波を見て、無意識にアクセルを踏む足に力が入る。
台風はどんどん近付いて来ているし、空の端が徐々に暗い雲に覆われ始めている。
それにノガワという男に教えられた『へタレ』という、今まで聞いたことも無いようなポイントが、果たしてどんな場所なのか興味があった。
一応、井田のちっこいサーファー魂にも火がついたようで、不安や恐れよりも、未知の波に対する好奇心の方が先立った。
少し走ってウラタ海岸が後ろに見えなくなると、すぐに国道から右へと分岐していく道があったので、井田は電話で聞いた通り、迷わず右へと進んだ。
細いひと気のない道路には、黒い屋根瓦に、焦げ茶色の壁板の家が並んでいて、通りの片隅には赤い鋳物の円柱ポストが、郵便物を投げ込まれるのを辛抱強く待っている。
大きな間口の金物屋の外壁には、昔のスポーツドリンクの鉄看板が取り付けられていて、円い黒ぶち眼鏡をかけた男が、鼻の下を伸ばして笑っていた。
昭和の時代に滑り込んでしまったかのような、古い民家の間を過ぎると、舗装道路はぷつりと終り、そこから先は葦が高く生えそびえる草原で、その間を細い泥のデコボコ道が続いている。
数日前に降った雨のせいで、道には深いタイヤの痕が、そのままの形で固まっていて走りにくく、土埃がもうもうと舞い上がり、ハイエースの後ろに煙幕のように広がった。
車内では揺れに合わせて、長いコイルストラップ付きの鼻オバケが、上下左右にさらに激しく伸び縮みを繰り返し、鬱陶しくてたまらない。
「ちょっとナカムラさん、、、コレ、邪魔なんだけど!外すか抑えるかしてもらえないかな」
井田がさも迷惑と言うように、片手で鼻オバケを押しやってきたので、ホナミは不満そうに薄い上唇を鼻につけ、それを受け取ろうとした。
その時、片手運転で進んでいたハイエースのタイヤが、グリッ!と轍にはまり、ハンドルが取られて大きく揺れた。
「きゃあっ!!」
「おっと、、、」
ホナミは咄嗟に、そこにあった井田の左手を引っつかみ、そのまま縋るように鼻お化けもろとも自分の胸に抱き込んだ。
ムニュッ、ゴリッ!!
二つの相反する感触。
そして次には、
「ヘンタイッ!!」
というお決まりの罵声が浴びせられたが、井田はもう謝らなかった。
ただ、今朝の『ムニュ』より、今の『ムニュ』の方が、大きさと柔らかさを増していたようなのが気になったが、基本的には尻好きの井田にとって、そんな事はどうでも良く、忌々しげにホナミの胸元から自分の手を引き抜くと、水を触った猫のように、指先をピピッと払った。
ふんっ。自分で押し付けといて、どっちがヘンタイだっ!
そして冷静にハンドルを元に戻し、二度と片手運転なんかするまいと固く決意し、小高い崖の下にようやく見えてきた低いトンネルの入口だけを真っすぐ見た。
あのトンネルの先が『へタレ』か……
もう、未知との遭遇にすっかり気を取られている井田の横で、ホナミは、人工まつ毛のこびりついた目を少し伏せ、井田の手の感触が残った自分の胸に、そっと鼻オバケを押し当てた。
ビーチ・ブレイクの波・・・海底が砂の海で割れる波
リーフ・ブレイクの波・・・海底が岩礁、サンゴ礁の海で割れる波