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後悔



 来週。いつも以上に張り切った千足が、家から出た。老中に勘ぐられそうになったが、千夜の助力もあり、なんとか誤魔化す事ができた。


 今日ばかりは煩わしく感じてしまう書道教室を終えてから、待ち合わせの場所へと向かった。


 習い事があるので、少し遅れてしまったが、それでも朝陽は笑って許してくれた。

 かくして二人は、登山を始めるのだった。






 千足が気になったのは朝陽の格好だった。いつも通りの軽装――鮮やかな空色シャツに、七分丈のズボン。それ以外には携帯と財布しか所持していない。それだけで、あの山を攻略できるのだろうか。それが不安だった。


 しかし、いつもあの山から下りて会っていると考えれば、大した事では無いのかもしれない。そしてその体力に脱帽した。


 最悪、千足は小さなバックに色々詰め込んで来たので、心配はないと思うが。


「朝陽君は軽装で凄いですね。山くらいランニングコースって感じ」

「なんで分かったの?」


 え。分かったとは……。


「ランニングコースにしてるんだよね。下山から登頂まで。休憩したりはするけどさ」

「やっぱりお猿さん」


 口から出てしまった言葉を、千足は慌てて飲み込む。

 朝陽には聞こえてなかったようで、一安心。





「千足ちゃんこそ、その統一精神は凄いと思うよ。ずっと和服だもん」

 指摘した通り、千足が朝陽と会うときは常に和服であった。偶々……というわけではない。


 今も袖が短く、ズボン型で動きやすさに特化した和服を着ている。白に桔梗がモチーフの。


「私、和服しか持ってなくて」寝間着以外と、その後で付け加える。


「ナニソレ、めっちゃ高貴な家庭じゃん」


「そんなんじゃないですよ。それだったら、朝陽君こそ」

「家が敷居高いように見える?」


 一度しか、家を拝んだ事は無い。外観でいえば、昔ながらの上流家庭。しかし中は、少しだらしなさが見て取れてしまう。


 肯定もできなかったので、千足は愛想笑いをした。





 それから二人は登山を再開した。休憩をとったりはしたが、順調に進んでいる。朝陽が歩きやすいルートをチョイスしてくれたおかげで、初めて上った時よりも比較的安全に。


 途中で千足はおやつを取り出した。千夜に振る舞った時にあまらせておいた食材で、よもぎ餅を作っておいたのだ。

 糖分チャージも済み、二人はまた歩き出す。




「日が暮れてきた。ちょっと急がないとやばいかも」空を見上げてから、朝陽は言った。「走れる?」

 千足は勿論、頷く。


 ここまで来て目的を達成せずには帰れない。多少、足に痛みはあったが我慢できない程ではない。黙って足を速める。





 数分走り、高い草木を掻き分けた時だった……。


 目の前に崖が出現した。草木で視界が遮られていた為、千足は畏怖する。とはいえ多少、距離があるが。


 直後、顔を上げた時、視線の先には夕陽が映った。


 オレンジと深いブルーのコントラスト。夕陽がのどかな町並みを包み込むように、照らしている。

 その風景を一望できるこの場所は、神様が宇宙を見下ろす景色にも比喩できる。


 ――綺麗。


 心の底から、自然とその言葉が出た。短く安直だが、千足の心を形容するにはこれ以上の言葉は無かった。





「俺の好きな場所、千足ちゃんが気に入ってくれて嬉しいぜ」


 二人は顔を見合わせ、その風景を眺めた。 


 今では眼前の崖も、夕陽に映えていて、景色と同化している。それ全てがパレット上の絵画のように。

 そして日は奥底へと沈む。


 その時間はあまりに短ったが、二人にはとても長く、感傷的な時間だった。




「今見た夕陽と、朝陽君が兄弟みたいな想像しちゃいました」


「え。それってどういう……」

「いつも明るくて元気な朝陽君と、寄り添って、寂しさを埋めてくれる夕陽。ていうふうな」

 あくまで朝陽と夕陽が対になってると思い当たり、言ってみただけなのだが、朝陽の反応はなぜか暗いものだった。


 思わず千足も尋ねる。

「どうしました、朝陽君?」

「いや、なんでもな――」




 刹那、背後から声がした。二人の男の声が。


「やっと見つけたぜ」

「一発、殴らせろ」


 素っ頓狂なその声は、少なくともさっきまで見ていた景色とは調和しない。


 もう一度、千足と朝陽は顔を見合わせる。前に襲ってきた男とは似ても似つかない。かといって、知った顔でもなかった。


 第一、恨まれる筋合いも無い。





 男達は段々と、二人に近づいてくる。どちらかといえば、朝陽に標準を合わせている様だ。


「誰かと間違えてませんか」

 あくまで朝陽は冷静に話しかける。


 しかし男達は、頭に血が上っているようで、聞く耳をもたない。

「いいから殴らせれば発散されるんだよ」

 突如、一人が走り出した。千足を庇うように、朝陽は前に出た。


 そして男は振りかぶり、右からのストレートを放った。中々のスピードで、前なら避けるのでも一苦労だっただろう。しかし一度、喧嘩を経験して見慣れているそれは、恐れる程では無かった。


 朝陽は利き手でそれを受け止める。同時に掌に、ジーンとした痛みが奔る。



「調子に乗りやがって」

 今度はもう一人の男が迫ってくる。


 さすがに二人で攻撃されたら、防ぐすべが無い。冷や汗を掻いた時、千足が朝陽の前に歩み出た。



 するとなぜか、男の動きは鈍った。


 そして直ぐ後に、男達は真横に吹き飛んだ。まるで超能力で吹き飛ばされたように。


 一人が打ち所が悪かったようで、頭から流血している。それを見て、千足は直ぐに駆け寄った。

「大丈夫ですか、直ぐに治療を……」



 しかし男達は予想以上に狼狽をしていた。深い傷では無い。どちらかといえば雑菌が心配な部類のものだ。子供ならまだしも、大人が慌てる程ではない。



 一人の男が叫んだ。「なんだよこれ……。意味わかんねえよ」

 二人は足をふらつかせながら、その場から去った。


 一体、なんだったのだろう……。





「危ないところだったね」爽やかな声を発したのは、背の高い青年だった。


 朝陽をその青年を見ても、ぴんと来ていない。しかし直ぐ後に、千足は思い出す。

 朝陽のそばに駆け寄ってから、もう一度、確認する。……やっぱり。





「郡山さんですよね」


 郡山は、書道教室で一緒の、少し理屈っぽい青年だ。彼もまた呪術士である。推測すると、あの男達をおっぱらったのは彼なのだろう。苦手ではあるけれど、お礼もしないのは不義だ。



「千足さんが無事で良かったよ」

 近づいてくる郡山に、朝陽は軽く頭を下げた。「助かりました」



 その時、彼が嫌そうな目をしたのを千足は見逃さなかった。


 それから色々な考えが脳裏に過った。本当に助けてくれただけなのだろうか。二人組の男は明らかに様子がおかしかった。頭をぶつけた途端の狼狽ぶりといい。


 郡山はなぜこんな山にいるのか。偶々、遭遇したにも不自然過ぎる。朝陽が知らないところを見ると、

六車の身近な人間でもない様だ。

 それになにより、胸騒ぎがする。嫌な感じが。




「それ以上、近づかないで下さい」

 気づけば、鋭い声で千足は咎めていた。郡山は面食らった顔する。



「助けてくれた人に、そんな言い方は無くない千足ちゃん」


 朝陽の言葉が、千足の胸に刺さった。これで濡れ衣だったら、朝陽に嫌われるかもしれない。

 ただそれでも、危険な目に合わせるのはもっと嫌だ。




「郡山さんがなぜここにいるんですか?」鋭い声はなおも健在で、千足は疑いを向ける。


「それは……。偶々、山を登っていて、声が聞こえたから」


 その返答を聞き、朝陽も疑念を抱いた。「ここは六車の所有地。呪術関係者なら、無作為に近づいたりしないはずですよ。どんな用件で来たんスか?」



 明らかに困惑し、次の言葉に詰まっている様だ。論理的で計画的な人ほど、アドリブには弱いらしい。


 千足は尚も、質問を続けた。「あの人達を操って、差し向けたのですか? 前から私を付けていたのも、郡山さんですか?」



 郡山はおもむろに頭を掻く。

 このまま続ければ、少ない確率だが交戦になる。六車の所有地なのだから、可能性としては低いだろうが。



 とはいえ万が一も考えて、千足は郡山を説得しようとした。


 しかしその前に、郡山の苛立ちは極限状態を迎えていた。



「なんなんだよクソが! そいつみたいに助けてやったら、千足さんは僕に惚れるんじゃないのかよ! なんで上手くいかないんだよ! ふざけるな!」


 支離滅裂な理論に、千足の身体が震える。 



 しかしそれ以上に、朝陽の表情に驚く。今までに一度でも見せた事の無かった、怒りの表情。憤怒と称しても、差し支えない程だった。 


 低い声で、目の前の男に朝陽は言い放つ。「誰だか知らないけどさ。千足ちゃんの優しさに付け入るようなマネすんじゃねえよ」



 明らかに郡山の様子がおかしさを増す。呼吸が荒くなり、独り言を呟きだす。かと思えば、今度は怒鳴り散らす。


「お前なんかが千足さんを語るな!」


 その瞬間、郡山はいっきに距離を詰め、裏拳が朝陽の頭蓋にヒットする。噛み締めるような声を漏らし、朝陽は倒れる。




 千足が朝陽の名を叫んだ時、郡山に腕を掴まれた。強い力で、些細な抵抗など意に介してない。


「放して下さい」

「なにを言ってるんだい。僕はそこの男から千足ちゃんを助けたんだよ?」


 強引に引っ張り、千足を歩かせようとした時、痛い、と声が漏れた。すると掴んでいた手が優しくなり、心配そうな顔を向けてくる。


「大丈夫、千足さん? 痛かったねー」




 郡山が千足の頭に触ろうとした時、朝陽が立ち上がっていた。そのまま突進し、千足から郡山が離れたが、反動で尻もちを付いてしまう。


 だが彼が倒れる事はなく、朝陽を強い力で受け止めている。



「不愉快だ。僕に触れるな」



 それは一瞬の事だった。朝陽が郡山から離れた、衝撃波によって後方へ吹っ飛んだのだ。


 呪術士には呪力を使い、幾つかの呪術を使う事ができる。超能力じみたその技は、一戒の発。

 朝陽はその威力に吐血をし、崖の手前まで転がった。ふら付いた右手の下にはもう、足場は無い。



 その光景は、平和な暮らしをして来た千足に初めて、死を連想させた。自分の世界にそんな異次元的な事が起こるなんて、その瞬間まで考えもしなかった。いや、今でも受け入れられない。






 郡山はゆっくりと朝陽に近づいた。

「絶景ですねこの崖の下。誰にも知られずに死ぬ事ができる場所なんて、珍しいですよ」不敵な笑みを、朝陽に向ける。


 その場に倒れ、千足を守れない朝陽の悔しさは、舌を噛みきりそうな程だった。


「うるせぇよ。千足ちゃんは俺が守る。これ以上、好き勝手なんかさせね――」途中で強く咽、もう一

度、血を吐いた。


「満身創痍のくせに。……そしてそれは、僕の台詞だ!」

 郡山は今、崖の前で千足に背を見せている。その状況に、一つの考えが浮かんだ。



 ばれずに背後から押せば、彼だけを崖の下に落とせるのでは。そうすれば、朝陽は助かる。大事な人が生きていてくれる。勿論、朝陽を巻き込んでしまうリスクもあるが……。


 ただ今は、それしかない。





 立ち上がろうとした時、自分の全身が震えている事に気づいた。十文字千足という人間の全てがそれを拒否しているのだ。


 朝陽は大事な人だ。でも、郡山さんは死んで良い人なのだろうか……。そう考えた時に、頷けるわけなどなかった。全ての命が平等にあり、彼女の天秤にどんなに楽しい思い出を乗せても、揺れ動く事は無かったのだ。




 千足の本質が、全てが破綻してしまう状況に、頭がおかしくなりそうだった。



 刹那、郡山は朝陽の首根っこを掴み、自分よりも高い場所まで持ち上げた。地から離れた足は、バタバタと震えている。驚異の腕力ではなく、呪力が腕に籠っていた。それを利用して、常人を遥かに超える力を得ているのだ。



「最高に苦しんでから、死ねよ」


 首に爪が食い込み、息が思うようにできず朝陽はもがく。しかし抵抗むなしく、意識が遠のいた。



 数々の記憶が、朝陽の脳裏を過った。走馬燈……だろうか。自然とそう考える。


 六車での暮らし。上手くいかなかった学校生活。消し去りたい過去と記憶。許せない人間の顔。兄弟みたいに接してくれた大我。崖から落ちてきた――。天使の様な笑顔をする――。一緒に歩いた栃木の街。嫌な事があると見た夕陽――千足と見た……夕陽。



 千足の顔ばっか出てくる。そんな走馬燈に、思わず心の中で笑ってしまう。


 後悔ばっかりで、辛いばっかりの人生だった。でもいつか、それ以上の幸福が返ってくるって信じて、生きてきた。諦めた時に出会ったのが千足だった。


 最後のチャンスな気がして。……頑張った。そして気づけば、かけがえのない存在に変わっていた。



 地獄みたいな場所から生まれ落ちて、大きな鎖に繋がれたままだった俺を、その天使は地上へと連れ出してくれた。


 希望が――見えたんだ。



 だから……。死ねない。





 意識を取り戻し、最後の力で郡山の腕を掴んだ。そのまま身を翻し、油断していた彼のみぞおちに蹴りを浴びせた。


 郡山は腹を抑え、苦痛の表情をする。同時に朝陽も咳き込んだ。




「朝陽君!」

 千足が立ち上がり、彼の前へと歩み出た。そして治療を始めようとする。しかしそれを、朝陽は止めた。



「千足ちゃんは逃げて。今すぐに」

「駄目だよ。このままだと死んじゃう! 止血しないと」

 千足の目に溜まった涙が、溢れだした。そんな彼女の顔を見ているのが辛かった。



 朝陽は、優しく手を握り、囁いた。「俺を信じて」


 たったその一言で、どうにかなる気がする。強くなれる気がした。



「振り返らずに、走って」

 朝陽が叫ぶと、千足は涙を拭って走り出した。



「あー! 千足さん、待って!」

 追いかけようとする郡山に声を掛け、制止させる。


 彼女がここからいなくなっただけで、随分と気が楽になった。



 振り返った郡山の顔は鬼の様だった。だがそんな彼にも、物怖じしない。懐から、注射器を取り出し、安全用の器具を外す。


「なにをしようとお前如きじゃ、僕から千足さんは奪えない」


 正直、自らの手で刺すことになるなんて思わなかった。正直、注射怖いし。

 でもこれしかないなら、やるしかない。


 ただ不安は無くなった。彼女が教えてくれた気がしたからだ。兄貴を怖がらなくたっていいって。受け入れていんだって。


 刹那、自分に向けて、朝陽は注射器を突き刺した。一切の躊躇を見せず。



「バカが、乱心したか」



 ここまで千足に引っ張って来てもらった。だから繋がれた鎖くらい、自分の手でぶち破る。 


 血が逆流するような錯覚をおぼえる。色んな感情が、全身から入って来て、苦痛が広がる。頭が割れそうだった。



 けどこれがたった一人のかけがえのない。兄貴――夕陽なんだ。受け入れてやるよ。



 朝陽の心が深い闇に沈む直前、目にしたのは、いつの間にか地に落ちていた携帯だった。それに付いた、手作りの人形。 


 最後の後悔だった……。


















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