約束
次の朝、千足は書道教室があるの忘れていて慌てて飛び起きた。引っ越して来てから新しく通い始めた場所なので、まだ数回しか通っていない。それなのに遅刻するわけにはいかない。
慌てて和服に着替え、急いで家を出る。
書道教室に付くと、早速、筆を持たされて今日のお題を書くことになった。
学校の教室くらいの部屋に、十人程の生徒が筆を持って字を書いている。その中には知っている呪術士もいたりして、カモフラージュが理由でここを選んでいたりもする。
だけど今日は……。筆が進まない。
なにかと悩み事が募り、筆に迷いが生じていた。家の事や、これからの事。そしてもう一つ、多分、それは千足の憶測に過ぎなかったが。
「千足さん。今日は調子が優れないようですが」
心配して声をかけたのは、独特の雰囲気を持つ、書道の先生だ。丸眼鏡が特徴的なおじさん。
「疲れてるみたいで。でも今から頑張ります」
拳を上げて、宣言すると、その言葉通りに力強い筆捌きで書いてみせる。
『響』
その字を見た先生は感嘆の声を漏らす。「おー、これはビューティフル。今にもダンスしそうな字ですね。その調子なら次の段位も心配なさそうですな」
「有難う御座います、先生」
まるで姫様のように、千足は綺麗なお辞儀をした。
「その姿勢もベリーグッド! 謙虚でビューティフル!」
照れた笑いを浮かべた千足に、一人の男性が近づいて来た。年配の方が多い書道教室では、若く知的な印象の青年だ
「さすがは千足さん。字にも気品が溢れている」
「郡山さんの達筆な字には負けますよ」
褒められるとは思ってもいなかったのか、郡山は照れくさそうにする。
「貴方みたいに知性と気性のある人は少ないですからね。今の日本の女性はどうも受け入れがたい。はしたないというかなんというか……」
嫌悪感をみせる郡山に対し、千足は笑顔で言った。
「そのような事は無いですよ。みなさん、見えていないだけで宝石のような輝く所が存在します。郡山さんがちゃんと見ていないだけでは。……あ、すみません。出過ぎた事を言いました」
「はは、千足さんも冗談が過ぎるなぁ」
少しムッとする。「冗談じゃないですよ」
郡山は全く気付いていないようだが、二人が険悪なムードになりそうなのを、先生は見逃さず次の課題に移った。
郡山は習字が上手くて頭も良い。尊敬できる人ではあるけれど、偏った考え方には、千足も不信感を覚えていた。だから話すのに少し疲れてしまう。昨日の疲れもあってか、今日は頭に血が上ってるのかもしれない。
持って来ていた水筒を一服し、心を落ち着かせた。
書道教室が終わると、早めに家に帰る事にしたのだが、途中で夕飯の事を思い出した。
ほぼ毎日、家族の分の夕食は千足が作っているのだが、今日はその事をすっかり忘れていた。
家に具材もないので、なにを買って帰ろうかと悩んだが、簡単なシチューにする事にした。
本当ならスーパーまで買い物に行くのは、従者を付けないとまず許されないが、今日は仕方ない。叱られるかもしれないが。
千足はそのまま、スーパーではなく、途中で見つけた八百屋と肉屋で買い物を終え、帰路に向かっていた。なぜか色々とサービスしてもらい、バックが中々の重さになってしまった。
日も段々と暮れ始め、横目に見える公園も、既に街灯に照らされている。
早く帰らないとお叱りをうけそうだ。千足は気持ち、足を速めた。
その時、目の前にいた男。少なくとも千足の記憶には無い人物が、話しかけてきた。
「お、姉ちゃん、重そうな荷物持ってるね、持ってあげようか?」
好意的な発言に反して、表情はどこか怪しさを秘めていた。外見も派手で、千足が苦手とする部類だった。
とはいえ、優しさを邪険に扱う事もできない。
「気に掛けて頂き有難う御座います。でもこれくらいなら平気ですので」
立ち去ろうとする千足の腕を、男は強引に掴んだ。その驚きから、食材の入ったバックを落としてしまった。
「へー、君、面白いね」
箱入り娘の千足にも、この状況がまずい事は理解できた。しかし、男の力に抗う事はできなかった。
「止めて下さい」大きな声を出しても、男は怯む様子をみせない。
「少しだけ俺に付き合ってよ」
もう一本の腕が千足に伸びようとした時、思わず千足は目を瞑った。
なにをされるかとひやひやしたが、終にそれが届く事はなかった。さらに千足を引き留めていた手も払われる。勿論、千足の力で無理やりに引き離したわけではない。
「女の子に手荒なまねと、食べ物は粗末にしちゃダメだぜ。良い男ならな」
聞き覚えのある声に目を開けると、そこに、こんな町中にいるはずのない朝陽が立っていた。
「……朝陽君?」半信半疑で問いかける。しかし、男の声が重なった。
「は? 誰だよお前。邪魔すんな、萎えるから」先程までとは違う、低く威圧的な声。そして次の瞬間、いきなり男は朝陽に殴りかかってきた。間一髪で朝陽はそれを避ける。
男は舌打ちをする。
「あっぶな……。あはは、喧嘩はちょっと苦手なのよね」
ニヤリと笑った男は、身を翻して蹴りを放つ。見事に朝陽の腹部へと当たった。
その衝撃から、朝陽は蹲った。
「朝陽君!」
前に出て庇おうとする千足を、朝陽は強い力で止めた。
「こういう時くらい、格好付けさせてよ」
不意に、男の蹴りが飛んでくる。反射的に朝陽はそれを両腕ガードするが、態勢を崩してしまう。
しかし、直ぐに立ち上がり、朝陽が男に掴みかかった。ただ明らかに喧嘩慣れしている男と、まだ子供の朝陽とでは力の差は歴然だった。
倒され、殴られる。
そんな光景を見て、千足は足が震えた。なにをしていいか分からず、言葉も発せなくなってしまう。
「しつこいんだよ」
今度は蹴りを浴びせた男だが、朝陽は再度立ち上がり、男に掴みかかった。だがあっさりと振り払われてしまう。
千足の目に涙が溜まり、限界が来た時、サイレンが鳴った。赤い光に白と黒の車体。それは間違いなく警察の車だった。
誰かが見て、通報したのかもしれない。
男は一目散に逃げだした。
安堵し息を吐きだす千足だが、警察に聴取されるのはまずい事に気づいた。目の前には六車の朝陽君。……のはず。
彼と一緒に聴取されれば、親を呼ばれる可能性が高い。そうなれば密会と疑われてしまう。それはお互いの家の都合上、良くない。
かといって朝陽だけを残して立ち去る事など、千足にできるはずがなかった。
その時、沢山の傷を作った朝陽がよろめきながらも立ち上がり、千足の手を引いて走った。
背後から呼び止められる声がしたが、構わずに走った。朝陽は土地勘があるらしく、入り組んだ路地にを巧みに使って、警察を撒いた。
ベンチを見つけ、座ってから一息つく。
「ごめん、急に走らせて」
詫びる朝陽に対して、千足の胸は苦しくなった。謝りたいのはこっちの方なのに、今も笑顔で、痛みを我慢している。
「それより朝陽君の怪我……!」
「あー、こんなの全然、へー――」
朝陽はベンチで倒れ、身体を千足に預けた。
目を覚ました時には、眠る前まで痛んでいた箇所から傷が消えていた。そして頭の下には柔らかい感触……。
その体制のまま辺りを窺うと、千足が朝陽を見下ろす形になっていた。
その光景で頭の下にあるものがなにか、想像が付く。――太ももだ。
膝枕をされていたのだ。
反射的に飛び起きた朝陽を見て、千足は控えめに笑った。
「元気になって良かったです」
「そ、それよりなんで。ひ、ひざま……くらを……」
色々な可能性を考え、朝陽は一つの結論に至った。もしかして俺に惚れた!?
「気絶した時にそうなってしまったらしいのですけど、起こすのは悪いかと思いまして……」
あっさりと朝陽の淡い願望はぶった切られる。明らかに、気を落としている朝陽を見て、千足は言った。
「私如きの足では、寝心地悪かったですよね……」
「なに言ってんの! 寧ろ柔らかくて冬眠しちゃうくらいだったよ!」
慌てて弁解したが、沈黙が流れる。
そしてお互いに不可解な事を言っていることに気づき、笑みがこぼれた。
それから二人の話は、警察から逃げた理由へと戻る。千足は大我から聞いて、朝陽の事は見当を付けていたから、その判断に至った。
逆算して考えれば、朝陽も千足の正体を知っている事になる。こちらから一度、六車家に出向いたのだから、何分、不思議な事ではないが。
「朝陽君も知ってたのですね。私のこと」
思い切って問う千足に、朝陽はあっさりと頷いた。
「初めて会った時から、なんとなく。あんな山を登山する物好きなんかいないし、一緒にいた人達も家族に見えなかったから」
「鋭いのですね」
「まあ確信を得たのは、大我兄に聞いたからだけどさ」
朝陽は笑みを浮かべる。「改めて、六車朝陽。宜しくね」
千足もベンチから立ち上がり、丁寧に挨拶をした。「十文字千足です、宜しくお願いします」
「なんだか可笑しいな。俺達みたいのが、こんな形で話してるなんてさ」
それから二人は当たり前な、子供らしい話をした。ただ二人にはそれが特別だった。
千足は学校に通わせて貰えず、家庭教師に勉強を教えてもらっていた。習い事はこれまでに幾つかしていたが、同じくらいの年の子と、二人っきりで話す機会なんて皆無に等しかった。
同様に朝陽も中学を中退していて、六車家の関係者意外とこんなにも沢山、話すのは久しぶりの事だった。
自然と出る笑い声が、こんなにも心地よいなんて、二人は初めて知ったのかもしれない。
その間だけは、複雑な家庭環境の事など全て忘れていた。
朝陽は付けていた時計を確認する。
「やべっ、もうこんな時間だ。帰らないと」
既に夜が更けていた。
「本当ですね」言われるまで気づかなった事を、千足はほんの少し恥じた。
「うちは放任主義だから良いけど、千足ちゃんのとこはまずいよね。あーしくった。取りあえず、家の近くまで送るわ」
という流れで、二人は揃って帰る事になったのだが。夜道を異性と、しかも二人っきりで歩くという状況に、朝陽は少なからず緊張を覚えていた。
そのせいで沈黙があり、これはまずいと思った朝陽は考えなしに、話題をふる。
「つ、月が綺麗だね」
「月は見えないけど?」
空を見まわしてから、千足は首を傾げた。
「あ、あれ? おっかしいな、幻覚?」
「朝陽君。できたら、助けてくれたお礼をしたいんだけど……。ダメかな?」
「え、お礼? それなら治してくれたじゃん、俺の身体。それで十分だよ」
「傷ついてる人がいたら、助ける。それって相手に見返りを求める事じゃないですよね」
「それは千足ちゃんが優しいからであって、見返りを求める正当な理由に、十分なり得ると思うよ」
「あの……だから」
そのまま俯く千足を、朝陽は心配そうに見た。声をかけるべきかと、頭を悩ませる。
「お礼がしたいっていうのは、もう一度会うための理由がほしいだけで……。察しが悪いのはダメです」
千足は頬を紅らめた。
しかし薄暗く、朝陽はその事実に気づいてはいない。
「え、あ、そういう事! なら断然オッケーだよ!」
朝陽は返事をしたが、どういう意味か気づくのはそれから一時間後の事であった。
千足は足を止めた。「では一週間後に、またあのベンチでいいですか?」
「俺、ずっと暇だから大丈夫!」
「分かりました。忘れないように記憶します。家も近いですので、お見送りはこの辺で大丈夫ですよ」
千足が示唆する。
「そっか、じゃあ俺はここで! 来週ね! 後、治療ありがとね!」
手を振りながら、朝陽は駆け足で去っていく。
彼が去ってから、千足は大きくため息を吐いた。
本当はまだもう少し、家まで距離がある。けどあんな恥ずかしい事を言った後で、顔を見れる程、千足は経験が豊富ではなかった。
紅潮する顔を覆い、逸る心臓を制御しようとする。
そして案の定、家に帰った千足は生まれて初めて、お叱りを受けたのだった。




