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matataki

哀遇愛逢相合傘

作者: 大橋 秀人

瞬くと、黒ずんだ曇天から舞い落ちる無数の糸雨が、僕の全身に優しく針を突き刺していた。

 いいんだもう。誰だっていい。デブでもブサイクでも、出っ歯でもしゃくれでも、未成年でもオバサンでも。なんだってかまやしない。今夜は夜通し誰かと抱き合っていたい。メチャクチャにして、メチャクチャになりたかった。

と言っても、人と話すのが大の苦手である僕が行き交う女性に声をかけられるわけもない。

 霧雨が降り出した駅前のロータリー。一歩も前へ踏み出せないくせにモノ言いたげな目を向ける冴えない男は、女性たちにあからさまに避けられるのがオチだった。

 傘を差すか迷うほどの雨は、右往左往する時間とともにシャツに染み、髪を濡らし、いつしか腕を上げるのも億劫なほどずっしりとした重みをもたらしていた。髪が額に張り付いて不快だ。シャツが肌に張り付いて不快だ。僕は今、どんな顔をしているだろう。遠くで、母親の懐に入って雨をしのいでいる黄色い長靴の女の子と目が合った。が、少女はこちらに気づくと肉付きのいい女性のズボンの裾をきつく掴んでその股の間に隠れてしまった。

 僕は額についた煩わしい前髪をいっそ乱暴にかき上げながら、そそくさと立ち去るその親子が消えるのを目で追った。

 雨は静かで、行き交う人々の足音を消し去る。いつしか雨音も聞こえなくなり、自分の呼吸音だけが耳の奥から響くようになる。見上げた空は一面ねずみ色で、これからなお一層陰鬱な暗闇を迎え入れようとしているのだった。

 また、夜が来る。

 一息つくと、僕はスイッチが入ったように確固とした歩調でその場を後にした。 

 

 一軒の飲み屋に入った。

 暖簾のあるような、古くからあるこじんまりとした居酒屋だった。

 二台あるテーブル席の一つが埋まり、六人がけのカウンター席には誰も腰掛けていなかった。

「傘、持っていなかったんですか」

 五十代前半くらいの女主人であろう女性がカウンター越しにタオルを寄越す。

 僕は二度頷き、受け取ったタオルで届く範囲の水気を拭う。

「何にします」

 湿ったタオルを差し出すと、代わりにほうれん草の煮浸しがカウンターに置かれた。僕は自分でも聞き取るのがやっとの声で、ビールを、と呟き、小鉢に入ったお通しを箸でつつき始めた。

 瓶ビールが置かれると、僕はそれをコップに移し、喉に流し込み、また注ぎ、空けるという行為を中身がなくなるまで繰り返した。

 ビールは、瓶が空いた瞬間にまた置かれた。それがこの店のシステムのようだった。僕は立て続けに三本の瓶を空にした。

「日本酒、季節じゃないですが、お燗でどうです?」

 女主人はそう言って燗をカウンター越しに差し出す。寒くて凍えていた僕は、人肌に温められたの燗を震える手で持ち、お猪口に注いだ。それを舐めると、舌が痺れた。啜ると、咽喉から胃までが焼けるようだった。酒は空きっ腹の隅々にまで染み渡った。

「温まるでしょ」

 噎せ返りながら飲み続ける男にも、女主人は笑顔を向けた。

「失恋ですか」

 唐突に女主人はそう告げた。驚き顔を上げると、その顔にはやはり笑みが湛えられていた。

「なぜ」

「ええ、飲み方で、だいたい」

 主人ははにかんで、ごゆっくりどうぞ、と言ってまた少し離れた場所でつまみを作り始めた。

 

 女主人はおでんを突いてその具合を確かめている。切れ切れに吐き出される湯気が冷風にかき消され、思わず首を縮めた。

「いらっしゃい」

 言葉の先に目をやると、自分に負けないくらい顔色の冴えない女性が立っていた。

 女は一言も発さないままカウンター席の端に腰掛けた。やはり傘を差してこなかったようで、肩を覆う長い黒髪が湿気を帯びてあちこちに跳ねていた。

「傘がなかったのですか」

 考えるより先にそんな言葉をかけていた。

 女は声をかけられて初めてこちらの存在に気づいたようで、まるで眠りから醒めたような顔を向けた。

「ええ」

 そういいながら、忙しなくタオルを動かす。そして徐々にその速度を落としていく。それに合わせて俯き、表情がなくなり、手が止まるのと同時に、今度はゆっくりと口角だけが上がっていった。

「今夜、付き合っていただけませんか」

 その笑顔は、明らかに作り笑いだった。それも、ひどくへたくそな。

 僕は少し面食らったが、すでに出来上がっていた勢いに乗り、思い切って女の隣に席を移した。

「日本酒でいいですか」

 徳利を翳すと、主人がいいタイミングでお猪口をカウンターに置いた。女性は自らの言葉とは裏腹に、身を硬直させる。

「温まりますよ」

 お猪口を満たしていく酒を見ながら僕は言った。女はさっきまでの自分と同じような震える手でそれを持ち、恐る恐る口付けた。

 

 テーブルにいた客が帰り、店内は一層の静けさに満たされた。僕はカウンターの上に堆く積もった静寂をなかなか取り除けないでいた。隣で黙々と飲み続ける女のお猪口が空くのを従順な犬のように徳利を持って待っているばかりだった。

 女は、飲んだ。普段を知らない自分でも、とにかく誰が見ても無茶な飲み方をその女はしていた。

「失恋、ですか」

 僕は思わず、いつぞやの自分を見ているような気持ちになり、そう訊いていた。

「なぜ」

 女は驚いたような顔をこちらに向ける。

「ええ、飲み方で、ね」

 言いながらおでんの方に目をやると、女主人が茶色い卵と睨めっこして笑っていた。

「なぜ、人は人を好きになり、そして嫌いになってしまうのでしょう」

 思いつめた顔で言った後、女は思い直したように咳払いをする。

「ごめんなさい。つまらないこと言ってしまいました」

「いいや、ちょうど私もそのことについて考えていたところでして」

 僕は恥ずかしまぎれに頭を掻いてみせる。

「……あなたもまさか?」

「はい、実は私も」

 驚き顔の女を見てどこか可笑しくなり、僕は苦笑いをした。クリクリした目を一層丸めた女の顔は、案外、リスのようだった。

 僕たちはどちらも顔を赤らめて、並々と注いだお猪口で軽く乾杯した後、また黙って杯を傾け続けた。


 しかし僕は、なかなか口を開かなかった。隣の女に少なからずの親近感を抱いたにもかかわらず、話す言葉が見つからなかった。

「話さないんですね」

「いや、その……」

 言葉に詰まってお猪口を煽る。

 女は、なにやら楽しげな目でこちらを見上げてくる。

「無口なんですね」

「え? ええ、まあ……」

 僕が空のお猪口をもう一度煽ると、女はくすくす笑って徳利を差し出してくる。

「何か話してください。私は聞いていますから」

 たまらずそう口にすると、一転、女は俯いてしまった。

「いや、その……、今夜はずっと雨ですかねぇ」

 何かまずいことでも言ってしまったのかと慌てて僕は見当違いのことを言ってみせる。大きな咳払いで何とかこの沈黙を打ち破ろうとする。が、咳払いの止んだ店内には一層濃い静寂が残るだけだった。

「今夜、これから、お時間ありますか?」

 微笑んでいた女はこちらを向くと、意を決した表情でそう言った。




店を出てからの女の歩調には、迷いがなかった。二人は一言も口を開くことなく、降り続く雨に濡れる道を歩いた。店を出る際、女主人は僕たちに一本の傘を差し出した。二人はそれを使って雨を凌いだのだが、身を寄せるでもなかったので、ホテルの部屋に入る頃には片方の肩がずぶ濡れになっていた。

 料金の割りに無駄に広い室内に、二人とも居場所を探す。僕は平静を装って、風邪をひいてしまうから、と女にシャワーを浴びるよう促した。

 二人がけのソファーに身を預け、整理しきれない今の状況に思いを馳せる。が、何も紐解かれはしない。酔っているのも手伝って、ちっとも状況を把握できない。ソファーを立ったり座ったりしているうちに、シャワーの音が止んでしまった。

 女はそそくさと洗面台の前に立ち、ドライヤーで髪を乾かし始めた。騒々しい排気音をこれほどありがたく感じたことは今までなかった。白いガウンから見え隠れする細長い足から、今も微かに湯気が立ち上っている。

 僕は長い髪が乾ききる前に脱衣所に入り、濡れて肌にぺったり張り付いた衣服を剥いで、シャワー室に足を踏み入れた。立ち上ったままの湯気が妙に生々しく、女の存在を意識せずにいられなかった。熱いシャワーを頭から浴びながら、何度も顔を強く擦る。どうしても現実感が伴わない。そういえば、まだ名前も聞いていない。前髪の先から滴る水滴をぼんやりと眺めながらそんなことを思う。自分は女のことを何一つ知らないのだな、と。そして、それにもかかわらずこんなところに来たのか、と。

 シャワーから上がると、女はベッドの端で横になっていた。白いシーツを頬まで引き上げ、そっぽを向いて眠っている。その表情を窺い知ることは叶わない。どこからともなく唾が滲み出してくる。それを一つ飲み込むと、聞こえたのではないかというほど大きな音を立てた。

「眠っているのですか」

 言いながら僕はベッドに滑り込む。シーツの冷たい感触が肌に心地よい。女に近づくと、徐々にぬくもりがこちらに伝わってきた。

 女からの返事はなかった。雨にずいぶん長い時間打たれていたようだから、ひどく消耗したのだろう。もしかしたら本当に疲れて眠ってしまったのかもしれない。そう思うとなんだか安堵のため息が漏れた。

 一度深呼吸して極限まで脱力した僕は、ホテルの天井を眺めた。何もない、真っ白な天井だった。


 しばらくすると女は一つ、寝返りを打つ。

 女はきっと、寝ていなかった。澄ました横顔をしているが、やはりヘタクソな狸寝入りに違いなかった。眠っていないからじっとしていられない。浅い、潜めた呼吸が何よりの証拠だった。

 そんな憶測を確信に変えるべく近づくと、女は案の定、身を固めた。

「だいぶ消耗していたんでしょう」

 僕もまた、三文芝居に気付かぬふりをしてそう呟く。眠っている人に対しての独り言としてなら、案外、自然に喋れた。

「あんなに濡れて、あんなに飲んだんだから、温まって心地よいベッドに入ったなら、すぐに眠りが訪れるのも無理のないことです」

 そう言って、振り向かせウソを暴こうとした手を恐る恐るその形の良い小さな頭に乗せた。

 女は一瞬、かすかに身を縮める。が、僕が頭を撫ぜているのをわかると、体は徐々に弛緩していった。

「明日になったらきっと楽になっているから」

 誰に向けて放たれたかわからない言葉が部屋の静寂に吸い込まれていく。そうすると僕の心はどうしようもなくなって、悲しみを押し出すように涙を滲ませた。

 気づけば女も泣いていた。

 僕は一方の手で肩肘をつき、もう一方の手でゆっくりと慎重に頭を撫ぜる。

 鼻水を時折すすりながら。

 女の泣き声を搔き消すようにしゃくり上げる。

 どういうわけか、そうすることで自分自身が慰められている気持ちになっていた。


 いつしか女は泣き疲れ、深い寝息を立て始める。

 自分の涙もいつしか乾いた。

 僕はその安らかな音を耳にしながら遠慮がちにも小さな頭を撫ぜ続けた。




 

 朝。

 自動車が窓外を行き交う音で起きた。

 どうやら世界は今日も正常運転のようだ。

 

 いつの間にか眠っていたらしい。

 寝ぼけ眼を擦って起き上がると、隣にいたはずの女はすでにベッドから抜け出し、身なりも整えてソファで僕が起きるのを待っていた。

「早くしないと延長料金ですよ」

 どこか可笑し気に女はそう言って、こちらを急かした。


 慌てて部屋を出ると、二人は何事もなかったように慣れ親しんだ雑踏の中に溶け込みながらも、僅かな時間、並んで歩いた。

「昨日は本当に申し訳ありませんでした」

「いえいえ、何をおっしゃいますかそんなこと。こちらこそです」

 前を見ながら言われた言葉に、必要以上に遜ってしまう自分が嫌だった。

 でも、女はそんな僕を見て笑った。

 そして、

「なぜ人は人を好きになり、嫌気が差すのに、また人を好きになってしまうのでしょう」

 と、そんなことを少し恥じらいながら呟いた。

「また、あのお店に来てくれますか」

 たじろいでいる僕を尻目に、女は徐々に距離を開けていく。

「今度ご一緒できた時は、お名前を聞かせてくれますか」

 そう言い放つと、女は返事を待たずに駅の方角へ向かう人の流れに紛れていった。


 雨続きの秋。

 今日も曇天に変わりない。

 でも、昨日にはなかった雲の切れ間があった。

 僕は朝の日差しに手をかざし、露の煌めきの中を歩く女の背中を見送ったのだった。

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