算数と土の思い出
タロウは空き地の隅に屈み込んで、地面をじっと見つめていた。
彼はよく空き地に遊びに来た。他の子供が来ると一緒に遊ぶこともあったが、大抵は隅っこの方で、一人で地面を眺めていた。
彼が見ているのは虫だった。僅かな草の間にもたくさんの虫が住んでいて、しかも一匹一匹がそれぞれのやり方で生きている。少し手で草をかき分けてやると、驚いて跳んで逃げる者もいれば、慌てて走り去る者もいる。そこら辺の石をどけてみても、やっぱりいろいろな虫が姿を現す。
この世は生き物に満ちている。そう考えると、彼はなぜかいつも心から嬉しかった。その嬉しさを人に伝えることは難しい。たまに同じように感じる人もいるみたいだけれど、彼らも結局のところ、自分でそういう気持ちを発見してきたようだった。
あるとき、一人の女の子がその空き地に遊びに来た。彼女は空き地の真ん中で遊んでいる子供たちに声を掛けて、仲間に入れてもらおうとしていた。しかし子供たちは彼女を仲間に入れてやろうとしないだけでなく、むしろ除け者にしようとした。彼女を除け者にすることこそ、最高の遊びだとでも言わんばかりだった。
彼女は泣きべそをかきながら空き地の隅の方にやってきた。そして、そこで一人で遊んでいたタロウに声を掛けた。
「ねえ、君。あなたはみんなと一緒に遊ばないの?」
タロウは返事に困ったあと、少し考えてから言った。
「うん、たぶん」
「どうして?」
「どうしてって言われても」と今度はタロウも首を捻った。「たまには一緒に遊ぶこともあるけど、今日は一緒に遊んでいないってだけだよ」
「そうなの?」
どうも不満気な顔つきだ。納得の行く答えではなかったのかもしれない。
「あなたは何をしていたの?」と彼女は訊いてきた。
「僕? 僕は虫を見てた」
「虫?」と女の子は眉をひそめて言った。
「そうだよ」とタロウ。「虫だよ。足が六本あって、触覚のあるやつ」
「あのさ、虫なんか見ていて面白いの?」
「面白いから見てるんだよ」
「へえ……」
女の子は言ったが、タロウと同じように草むらに屈み込むことはなかった。彼女はしばらくの間、タロウのやることを見ていた。タロウが木の脇にあった石ころのところへ行くと、彼女は後ろからついてきた。タロウが石をどけると、小さな虫が現れて彼女のほうにぴょんと跳ねた。彼女は悲鳴を上げて逃げた。
「もう! 先に言ってよ!」
「僕だってそんなのがいるなんて知らなかったし」
本当はよくあることなのだが、彼はあえて知らない振りをした。
「でも、まあ、こうやっていろいろ出てくるんだってことは分かった。私が見ていないだけで、たくさんの虫が隠れているのね」と女の子は言って、腰に手を当てた。「でも、分かったけれど、あんまり面白いと思えないのはどうして?」
「虫が嫌いだからじゃない?」
「もちろん、それはそうなんだけどさ」
彼女は不貞腐れたような顔になるが、その場から立ち去ろうとはしなかった。
「他のところへ行かないの?」とタロウは訊いた。
すると彼女は少し怒ったような顔になった。
「他のところって、どこ? 私はここでいいの。虫なんてあんまり好きじゃないし、土も触りたくはないけど、這いずり回ってるあなたを見ているのは、そこそこ楽しいから」
まさか自分が虫のように観察されることになるとは思っていなかった。
それからしばらく、タロウは虫を追い駆け、彼女はタロウを追い駆けた。ずっと見られているというのはどうにも気持ちの悪いものだ、とタロウは思った。それに何だか自然な動きをするのが憚られる気がして、どうもやりづらかった。
ひょっとして、自分に観察されている虫たちも同じような気分になるのだろうか? タロウはそんなことを考え始めた。しかし虫たちなら、嫌だったら逃げればいいだけだ。籠などに無理やり閉じ込めてやらない限り、いつでもどこかへ行くことができる。人間はどうしてそうしないのだろう?
そんなことを漠然と考えていると、ボールが飛んできて公園の柵にぶつかり、タロウのほうに転がってきた。彼はそのボールを受け止めた。公園の真ん中で遊んでいる子供たちのほうから飛んできたものだった。
タロウがそのボールを投げ渡そうと振りかぶったとき、あの女の子がひょいと両手で横から取った。彼女は他の子供たちのほうに向かって、声を張り上げた。
「これ、返してほしい?」
「何言ってんだよ、早く返せよ」と子供たちの一人が言った。
「ふうん、そうなんだ」と言って女の子は不敵な笑みを浮かべた。
タロウは彼女の横顔を眺めていたが、何を企んでいるのか分からなかった。これは余計な争いを起こしているだけではないのか?
「さあ、どうしよう」と彼女は言った。「私をそっちの遊びに入れてくれたら、ボールは返してあげようかな。でも入れてくれなかったら、このボールは公園の外に投げちゃうかも」
「おい、待てよ。分かったから」
「入れてやるって。だからボール返せ」
子供たちは口々に声を上げた。
彼女はタロウのほうを向くと、ウインクしてみせた。
「じゃあね。虫取り、頑張ってね」
彼女はそう言い残すと、ボールを持って向こうの子供たちの中に入って行った。
タロウはほっと胸を撫で下ろした。何だか分からないけれど、小うるさい見張りから解放されたような気分になった。
それからしばらくして、そろそろ別の場所へ行こうかと彼が考え始めたとき、さっきの女の子がまたやって来た。
「あのね、私がいるとゲームにならないんだってさ」と彼女は簡潔に報告した。
「僕は他のところに行くけれど」とタロウ。
「他のところって?」
「たぶん、あっちのほうにある雑木林かな」
タロウはそう言いながら住宅地の向こう側を指差した。
「ほら、マンションの横にあるやつだよ」
「雑木林ね……。私、あんまり服が汚れるところには行きたくないんだけどな」
「なんでついてくることになってるの?」
「なんでって……。なんででもいいでしょう?」
彼女は口をへの字に曲げ、なぜか腕組みをして胸を張った。
それから二人は一緒に公園を出た。住宅街の道を進んで行くと、ボール遊びをしている子供たちの喧噪が離れて行き、代わりに車道を走る車の音が近くなる。
「ちょっと、歩くの早いんだけど」
彼女はそう言いながら駆け足でタロウを追い抜かし、振り返った。
「ねえ、君。名前は何て言うの?」
「タロウ」とタロウは言った。
「へえ、タロウね。いかにも普通の名前って感じ」
「普通かな」
「普通だよ。昔話ってだいたい『太郎』の話じゃない?」
「でも、同じクラスで同じ名前に会ったことはないよ」
「算数の文章題にもよく出てくるよね、『太郎』って」
「次郎とか花子とかと一緒にね」
「太郎が池の周りを時速十キロメートルで走っています。池の周りの長さは二十キロメートルです。太郎が一周走るのに何時間かかるでしょう?」
「二時間。でも、そんな速さで走り続けるのは無理だと思う」
「あ、私の名前はヒメって言うんだけど」
「うん」
「大げさだって言われる。だって、お姫様みたいだから」
「駄目なの?」
「本物のお姫様じゃないのにお姫様みたいな名前をしているから駄目なの」
「でも、王っていう人は僕の学年にいるよ。王様の王。苗字のほうだけど」
「男の子?」
「うん。名前のことでいろいろ言われても、これは苗字だから変えられないんだって言ってる」
「じゃあ私も苗字がこれだったら良かったな。変えたかったら結婚して変えればいいわけだし」
「それだと、お父さんが悪口を言われてたんじゃない?」
「お父さん?」
ヒメは小さく首を傾げ、瞬きをして、それからぽんと手を打った。
「ああ、そういうことね。タロウ君、ひょっとして頭の回転が速いほうでしょう?」
「分からない。誰かと比べたことないし」
「そうだ、予定変更!」とヒメは急に元気になって言った。「ねえ、今からうちに来ない? 勉強教えてよ」
「学校の宿題?」
「うん。特に算数の文章題とか」
「算数なんて、言葉の意味が分かれば分かると思うんだけど……」
「あのさ。君、本は読む?」
「うん、まあ」
「読んで意味が分かる?」
「たぶん、分かってると思うけど」
「私はね、読んでいくうちに端からぼろぼろ消えていって、次の行まで読んだときにはもう前の行を忘れていたりするわけ。算数の文章題もそれと同じ。あれを全部、頭に入れるなんてとてもできない」
「じゃあ、計算に必要な部分だけを取り出して、メモしながら読めばいいんじゃない?」
「簡単に言ってくれるけどね、私はどこが必要か分からないから困ってるの。あれってわざと分かりにくく書いてるよね、絶対」
「そうじゃないと問題にならないからね」
「そこがもう嫌。先生はいつだって分かりやすく書けってみんなに言うのに、先生のほうはああやって難しい問題にして書くんだからさ。ずるいじゃない」
「本当に易しく書いたら、答えまで書くことになっちゃうよ」
そんな話をしているうちに、二人は雑木林の近くまで来た。
「ほら、あれ」
ヒメはタロウの手を引きながら道の向こうを指差した。
「マンション?」
「そう。私のうち」
「別に行ってもいいけど」とタロウは答えた。
「やった! じゃあ行きましょう」
彼女はタロウの手を取ったまま、横断歩道を渡り出した。ずいぶんと喜んでいるようだった。どちらかと言えば雑木林のほうが魅力的だとタロウは思っていたが、こんなに喜んでいるのを断ることもできなかった。
彼女の手は湿っていて柔らかく、暖かかった。これと似た感触がどこかにあったな、と彼は思い、しばらく考えてから、掘り返した土の感覚だと気がついた。
マンションの横には小さな公園があった。滑り台、ブランコ、砂場、水飲み場。公園にありそうなものは一通り揃っていたが、ボール遊びをできる広さはなかった。
「また公園で遊びたくなったの?」とヒメはタロウの視線を辿って言った。
「いや、そうじゃないけど」とタロウは歩みを止めずに言った。「いろいろ邪魔だな、と思って」
「邪魔って、滑り台とか?」
「うん。そういうのは全部どかして、地面を掘って、山を作って、でこぼこにしたい。そのほうが絶対に楽しい気がするんだ」
「そうかなあ。土ばかりじゃ飽きちゃうんじゃない?」
「飽きたらまた工事し直して、形を変えるんだよ」
「ふうん。ねえ、君、土を掘り返すのが好きなの?」
「え? さあ、どうだろう……」
タロウはちょっと考え込んだ。
「うーん、たぶん、ちょうど良くなるように形を変えたいんだよ」
「変わってるよね、君って」
「自分の好きなもの、作りたいと思わない?」
「お人形とかで遊ぶことはあるけれど、作りたいって思ったことはないなあ」
二人はマンションに入り、ガラスの自動ドアを通った。もう一つ奥にも同じものがあって、その手前の壁にインターフォンがあった。ヒメはそれに部屋番号を打ち込んで待った。
「はい。あ、ヒメ?」とスピーカーから声が聞こえた。
たぶん母親だろう。カメラでこちらのことが見えるようだ。
「友達を連れてきたよ」とヒメが言った。
「あら、珍しい。じゃあ開けるね」
ガラスのドアが横にスライドして開いた。二人はその扉をくぐり、エレベーターに乗って四階まで上がった。ヒメの家は四階の一番端にあった。
「ただいま」と言ってヒメはドアを開けた。
「おかえり」と言いながら奥の部屋から女性が出てきた。
「お母さん、これがタロウ君」とヒメは母にタロウのことを紹介した。
「あら、どうぞ、上がって上がって」
タロウも玄関から上がり、ヒメに続いて台所の流しで手を洗った。
一つ気づいたことがあった。彼の手には空き地で掘り返した土がついていたのだが、ヒメはそれを握っていたのだった。気にしていないといいんだけど、と彼は思った。
奥の部屋に入ると、四人掛けのテーブルの上にお菓子が用意してあった。ヒメは別の部屋に駆けて行き、すぐに勉強道具を持って戻ってきた。彼女はテーブルの上に算数の教科書を広げた。
問題文に『太郎』が出てくるたびに彼女が笑うので、だいぶ時間が掛かった。一時間ほど経った頃、彼女はようやく数式のありがたみを理解したようだった。
時計を見ると四時半になっていた。
「もうそろそろ帰らなきゃ」と言って、タロウは立ち上がった。
「夕飯、うちで食べて行けば?」
ヒメはそう言って、廊下に出て母を呼んだ。
「ねえ、お母さん。タロウ君の分も作れるでしょう?」
母は別の部屋から廊下を通ってやって来た。
「作れるけれど、タロウ君はどうする? うちで食べて行く?」
「えっと、帰ったほうがいいと思います」とタロウは言った。「僕が帰らないとお母さんが一人で食べることになるから」
「あら、それじゃあ今度、お母さんも誘ってうちへいらっしゃい。四人でお食事会にしましょう」
それなら良いかもしれない。彼はそのことを頭の中のメモ帳に記録した。
ヒメがマンションの出入り口まで見送りについてきた。
「それじゃ、ばいばい」と彼女は手を振る。「あ、そうだ。タロウ君、同じ学校だよね?」
彼女は小学校の名前を言った。
「そうだよ。四年一組」
「私は五年三組。一年前に引っ越してきたから、まだあまり知り合いがいないの。学校でも声を掛けていい?」
「いいよ」
「じゃあ、またね」
手を振る彼女に見送られて、タロウはマンションを出た。
彼は雑木林の前の道を通り、公園を通り過ぎ、そして自分の家に辿り着いた。いつもと違う場所へ行くことは冒険だが、そこから帰って来ることもまた違う種類の冒険に思えた。
家の前では彼の母が掃き掃除をしていた。彼は今日あったことを報告した。
「そう、道理で手が綺麗なわけね」と母は微笑んで言った。