その日は、春のように暖かくて。 〜とある日の昼下がり〜
プロットが一応ある程度できているものの短編です。時間ができたり、ストックが溜まったら連載するかもしれません。
壁にかかる、その絵を眺めていた。
カーテン越しに差し込む光が、それを鮮やかに彩っていく。僅かに開いた窓からは風がスルリと入り込み、あの懐かしい春の記憶を思い出させる。
出会って間もない頃に彼が描いてくれたその絵は、今では私の大事な宝物だ。
舞い散る桜吹雪の中、両手を広げてはしゃぐ私。
たまたま人のいない方へ、いない方へと道を進んで行った時に見つけた桜。そこで長い年月を過ごしてきたのだろう、ズッシリとした幹に大きく広がる枝、そして空を埋めつくさんばかりの花をいっぱいに咲かせていた。
よくよく見てみれば、多くの生命がその体を揺りかごとし、その木はまさに「母なる木」と言うにふさわしいものだった。
目を凝らして見ると、枝には多くの鳥。ひらひらと落ちる花びらを避けるように飛び回る小さな蝶のような生き物。
幹には今年になって初めて見た、小さな蟻。触角と触角を合わせ、仲間の確認をしながら上へ上へと登っていく。その小さな体で果てしない道を歩んでいく。時折、何かを咥えて降りてくる蟻を見つけては、ふっと頬を緩ませた。
自慢ではないが、私は虫が嫌いではない。田舎育ちで、虫は常にそこにいた。いるのが当たり前だと思っていた。だから部屋でカサカサと暗黒物質が動いていても動じずにぱっぱと外に放り出す。
そんな私には、小さい頃から思っていたことがある。蟻の足音は一体どんな音がするのだろうか。聞こえもしないその足音を聞こうとして、耳をすませる。髪の毛のように細い足が囁く音を探す。
まぁ、分かるわけがないのだが。
この桜の木を知っている人がどれだけいるのだろう。世界で私たちだけがこの木を知っているのかもしれない。そう思うと何故か嬉しくて、寂しくて。その時の感情はなんとも言い表し難いもので。
内から込み上げる感情を抑えきれなかった私は、あの時どんな顔をしていたのだろうか。
『ちょっと、そこに立ってみて』
彼の指示の通り、桜の幹に体を預けるようにして立った私。背中から感じる安心感は、まるで幼い頃に見上げていた父の背中のようだった。
春の暖かい陽射しと、柔らかく頬を撫でる地球の息吹。ほのかに香る春の匂いと相まって心がとても落ち着いた。
カシャッ。
安っぽいカメラの音が鳴り響く。その音源には、いつも持ち歩いているスマートフォンを持った彼がいた。「もう、何してんの」そう言おうとした、その時。
「きゃっ!?」
初めは、一斉に鳥が飛び立ったのかと思った。ついついらしくない声が出る。
それ程に大きな音をたてて枝が揺れる。吹き抜けていく風が髪を強引になびかせる。
かかった髪をはらって顔を上げると、一枚の花びらが目に飛び込んできた。いや、一枚ではない。数百枚、数千枚……はたまた数万枚にもなるだろうか、数え切れないほどの桜の花びらが視界を覆い尽くしていた。
「わぁ……すごい! こんなにいっぱいの花びら、初めて見た!」
思わず両手を広げてその場でクルクルと回る私。
花吹雪。この言葉を作った人は誰なのだろう。その時の光景はまさしく舞い散る桜の吹雪のようだった。
その時の光景を彼は絵にした。あれほどの景色は彼も見たことがなく、つい描きたくなってしまったのだという。
そんな彼は今どこで、何を想い、何を描いているのだろう。
この間から少しの間、海外に行っている彼はちゃんと生活できているのだろうか。一緒にいった付き添いの人に迷惑ばかりかけているのではないか。
彼の普段の様子を思い出すと、そんな事ばかりが頭の中を巡る。
「まったく……ずるいなぁ。私も行きたかったのに一人でヨーロッパに行くなんてさ。……私も頑張ろうっと」
彼ならきっと大丈夫。今頃は多分、外国人達の目を釘付けにしている筈だ。そう思うと、元気が出る。私も負けていられないっていう気持ちが湧く。
手元の音楽プレイヤーの電源をつけて、ヘッドホンで曲を聴きながら机に向かう。
いつも通り。
彼のことは一旦頭の片隅に移動させ、私は目の前の課題という悪魔を退治すべくペンを握った。