第六話 : 後ろめたさ
その夜、就寝前にミルクを飲みながらローズマリーは一人ソファで項垂れていた。温められていたミルクはすっかりぬるくなっている。肩にかけた薄手のショールが、窓から入り込む風でふわりと揺れた。
私がいなくなったら、寂しがる人がいる。
そんな当たり前のことを、ローズマリーは今まで考えたことがなかった。貴族の結婚だから。格上の相手だから。きっと両親も使用人達も大喜びすると思っていたのだ。王太子、なんていう一番の目玉を捕まえたローズマリーを誇りこそすれ、寂しがる人がいるだなんて思ったこともなかった。
そうだよな、私だってお姉ちゃんが結婚したとき、わんわん泣いたもん。嫁いだらそりゃ淋しいわ。
ローズマリーにとって、姉といえば彼女だけであった。新しい命が入った大きなお腹を抱えながら、姪と一緒に多忙な万里を訪ねてきてくれる、大好きな姉。同じように、家族だって――白水家が本物の家族だと、漠然とそう思っていた。
こちらへは旅行へ来ているような感覚で――ホームステイ先の家庭での役職を呼んでいるような気分だった。お優しいお父様と、愛情深いお母様。その彼らが、ローズマリーにとって、今は本物の家族なのだ。
ぬるいミルクを舌にのせる。
「――変なの」
あまりにも現実味がなかった。現実だと、どこかで思わないようにしていた。あえて考えないように、心の奥深くに押し込んでいた。だって、それを取り出して、しっかりと見つめてしまったら――だって、それは、
私が、死んでいるということ。
怖い、怖かった。
あんなに簡単に、私の命は失われてしまったのだ。母の温かさも、父の穏やかさも、姉の愛情も、可愛い姪も、今度生まれる予定の甥も、会計士との合コンの席を一つ自分のために空けておいてくれた友人も、これまで会社で積み上げてきた実績も――全て、永遠に置き去りにして。
「うそ」
わかっているはずだった。死は、受け入れたはずだった。第二の人生歩ませてもらえるなんて、ラッキー……なんて。どうして思えていたんだろう。
恋しかった。前の世界が、万里と呼んでくれる人達が。
万里にも、きっといたのだ。結婚すると言ったら、寂しがってくれる人が。きっと何人も。
ローズマリー。
どうして、死んでしまったの。貴方はどうして。こんなにも心優しい人達を置いて、何処へ行ってしまったの。
***
ローズマリーが元気をなくしたことは、すぐに屋敷中が知ることとなった。あれほど浮かれていたのだ。誰にだって一目でわかっただろう。
まるで灯りを消したように、屋敷中が元気をなくしていた。
そんな時だった。
ローズマリーにとって、思いもよらない訪問者がやってきたのは。
「……シディリウス殿下?!」
「元気がないと聞いてね」
花束を抱えてやってきたシディリウスが、ローズマリーの私室に足を踏み入れる。ローズマリーは慌ててソファから立ち上がり席を勧める。
今日、侍女達が朝から張り切っていたのはこのためだったのか、とローズマリーは気づく。
「今度は私の番だ」
どうぞ、と手渡された花束を目にして、ローズマリーの目に涙が滲む。あの茂みでローズマリーの髪に刺した薔薇と、同じ色の薔薇を、セージ、カモミール、ローズマリーと、素朴な草花が彩っていた。オレンジ色のリボンをかけられた花束を胸に抱き、ローズマリーは潤んだ瞳でシディリウスを見上げた。
「……シディリウス殿下……これほど嬉しい贈り物は、初めてです。ありがとうございます」
彼の気遣いに心が潤う。そんなローズマリーを見下ろしたシディリウスの瞳を見て、ローズマリーは体中を駆け抜けていた熱が冷めるのを感じた。
「そう、よかった。君が元気になって」
シディリウスの瞳は、揺れていた。優しさに、愛しさに。
その瞳が、全てを物語っていた。言葉なんか、必要なかった。
濡れた瞳が、ローズマリーへの特別な愛を囁いていた。
どうしよう。
気遣いだなんて、笑止千万だ。何をちゃんちゃらおかしなことを言ってるんだ、とローズマリーは自分の頬を張り付けたくなった。気遣いな、わけがない。ローズマリーへの花束を「気遣い」だなんて言葉で括られたいはずがない。
「……あ……ありが、とう、ござい、ます」
言葉から罪悪感を引き剥がすことに苦心して、純粋な謝辞がつっかえる。
どうしてきちんと向き合ってこなかったんだろう。彼はずっと目の前で、私に話しかけてくれていたのに。
私にとっては玉の輿ゲームのようだったこのやりとりも――彼にとっては真剣で。
どうしよう、彼、私に――ローズマリーに。
恋をしている目をしてる。
***
シディリウスが、いつどうやって帰ったのか、無礼なことにローズマリーはよく覚えていなかった。執事に確認を取ったところ、ローズマリーの体調が万全ではなさそうだから、とシディリウスが気を使って早めに切り上げてくれたらしい。なんて失礼なことを、と落ち込むローズマリーに、執事は嬉しそうに語った。
「また近い内においでになるとおっしゃられてましたよ」
よかったですね、お嬢様。そう言う執事に、ローズマリーは力なく笑って部屋へと戻った。
後ろめたくて、仕方がなかった。
万里として過ごした25年間の中で、恋愛経験はそこそこにあった。今更純情を気取るつもりもない。その中で、万里は恋人から寄せられる愛情以上のものを返せたことが、一度もなかった。
いい人だと思う人はいた。失敗を可愛いなと思う人もいた。けれども誰も、骨の髄まで愛してるとまで思えなかった。
だから万里は、いつしか男性のスタイルを一番気にするようになった。外見の良し悪し、社会的地位、車のメーカー、ベルトのブランド、財布の厚み。結局、誰でも同じなのならと、いつの間にか諦めていた。
だから、突然舞い込んできた最高級の男を狙った。彼が魅力的だったからじゃない。彼の何かに惹かれたわけじゃない。彼自身のことなんて、何も知らない。私はただ――彼の、その、王太子というポジションに。
幾分か目立って、多少他の令嬢よりも好意を持たれれば大成功……その程度の望みだったのに。
ローズマリーは、重い鉛を吐きだすかのように息を吐いた。
誰かと付き合っていても、いつも申し訳なかった。いつも、いつ好きになるのだろうと思っていた。早く、早く好きにならなきゃと。思えば思うほど心も体も冷めていって――そうして、慣れが積もっていき、男性相手にときめくことが、ほとんどなくなってしまった。だから万里は、いつしか本気の恋を諦めていた。相手もそうだと、勝手に決めつけていた。
あぁそうか。と、ローズマリーは頷いた。
いくら万里に経験と知識があっても――この体はローズマリーのものだ。だから、男性との親しい距離に慣れないし、不意の接近に胸が高鳴る。25歳の万里が忘れてしまったすべてのことを、ローズマリーは持っていた。
ローズマリーが羨ましかった。眩しかった。海千山千の手練れを知っていたところで、男からの熱い視線に背を丸めるような意気地なし、誰にも愛し続けてもらえなくて当然なのだ。
けれど彼女は違うだろう。その素朴な明るさと柔らかさで、きっとどんな男だって真正面から好きになれる。熱い瞳で見つめられるだけで、胸を焦せる。
「……シディリウス殿下」
その名前を口に載せて見ても、感じるのは苦い痛みだけだった。