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第一話 : まだ見ぬ人

 その日は、ものすごい土砂降りだった。


 まるで湖畔の上を建物の船が泳いでいるかのような景色。真っ暗な夜空を写した湖は、叩きつける雨で揺れていた。ネオンの灯りも雨に遮られ、水面まで届かない。

 テレビのニュースは引っ切り無しに、足元から水嵩が何センチだの、何処の電車が止まっただのと放送していた。

 会社の面々は早々に帰り支度を止め、緊急時のために備蓄している毛布等の準備に向かっている。


 その中で一人、白水しろうず 万里まりは鬼のような気迫を放っていた。


 同僚達が心配し、上司が引き止める中、万里は俄然として自らの帰宅を主張した。制止を半ば振り切るようにしてまで、彼女が帰路を急いだ理由――それは、今夜開催されている合コンに、どうしても赴きたかったからである。


 人生でもう二度とないだろう、会計士との合コン。

 もぎ取ってくれた友達に土下座し崇め奉り、ハグとキスをまき散らした。今夜の為にエステに通い、5時間も美容室の椅子に座り、デパート一階の化粧品コーナーにボーナスをつぎ込んだ。

 全てはそう……今日この日のため。


 朝から気合の入った服と化粧に色々と察していた同僚達は、万里を不憫な目で見つめた。血眼で「大丈夫だ、問題ない」と告げる万里に、ほろりと涙を流す。この雨の中、合コンが開催されていたとしても、辿り着くころには山姥よりも悲惨な格好になっているだろう。しかし誰も、万里を止めることは出来なかった。

 万里はエレベーターの待ち時間さえ惜しみ、階段を駆け下りた。後ろから聞こえる部長の叫び声を肩で切り、水を掻き分け、目を血眼にして進んだ。


 ――そして、足を滑らせ川に転落してしまった万里は、気付けば濁流に飲み込まれていた。


 もがく万里の声は、誰にも聞こえなかったのだろう。苦しい、息が吸いたい、そうして口を開けば開くほど、水が入ってくることが万里にもわかっていた。けれど、どうしようもないほど苦しくて、また口を開く。


 強い痛みは段々と鈍くなっていった。薄れゆく意識の中で、万里は願う。誰か助けて――と。




【 死んだ銭ゲバ女の、目指せ玉の輿計画! 】




「お嬢様! せめてもうしばらく安静に……!」

 邸内を歩くローズマリーの姿を見つけた侍女が、血相を変えて近づいてきた。ローズマリーは控えめに微笑んで庭を指さす。

「大丈夫よ。庭で日光浴をしようと思っているだけだから」

 途端に血の気を引かせた侍女が「僭越ながら、わたくしもご一緒させていただきます」と同行を願い出る。頑なに譲ろうとしない姿勢に、ローズマリーは苦笑する。

「ではお父様やお母様も呼んで、外で昼を取りましょうか」


 くるりとスカートを翻し、陽だまりの中で微笑むローズマリー。彼女はこの屋敷の主を父に持つ令嬢であった。およそ「令嬢」の模範である清楚でいてたおやかな彼女は、つい先週、一度、その心の臓の動きを止めた。


 必死の救命活動のおかげで何とか息を吹き返したが――誰もが待ち望んだローズマリーの帰還はならなかった。


「今日はココアがいいわ」

「ここあ……でございますか?」

「あっ、いえ。何でもないの、気にしないで。紅茶を――ミルクをたっぷりでお願いね」


 なぜなら、ローズマリーの中には、万里が入ってしまっていたからだ。


 合コンに意気込み濁流に飲み込まれ、万里が意識を深い水の中に沈めてすぐのこと――


 万里は再び意識を掴んだ。目が覚めた瞬間に、激しい衝動がこみ上げる。激しく咳き込み体を震わせる万里の隣で、甲高い悲鳴が聞こえる。


「あぁっ! ローズマリー! よかった、目が覚めて!」


 なんだその愉快なあだ名は。

 万里は目覚め一発目に、心の中で突っ込んだ。


 女性の声に呼応するように周囲から歓声が上がる。誰もが万里を覗き込み、安堵の表情を称えいていた。びしょびしょに濡れている万里をきつく抱きしめる女性を、隣にいた白衣を着た男性が止める。


「まだ無理をさせないように、そっと抱え起こしてさしあげて」

「あぁ、先生。娘を助けていただき、本当に、本当に何とお礼を申し上げればいいのか……!」

 感極まった女性が、声を震わせながら何度も首を縦に振る。


 万里はその時になってようやく自分の体を見ることができた。ごわんごわんと揺れる頭をずらして、自分の体を見下ろす。


 どれだけ気合を入れて合コンに望んだとしても、これはない。


 フランス人形が着ているようなアンティークピンクのドレスがそこにはあった。幾重にも重ねられたフリルや布が水を吸い、足を動かすことすらできない。


 これは、一体。どういう?

 アニメや漫画でたまにある、異世界トリップというやつでやんすか?


 あまりにも突然の出来事に、ちょっとばかり言葉遣いが乱れてしまった。なんにせよ、ここが合コン会場でないことは、あまりにも明白だ。

 未だ焦点が合わない万里を心配したのか、女性の隣で心配そうに万里を見つめていた男性が声をかける。


「ローズマリー、辛いのなら眠っていてもいいんだよ」

 万里は小さく首を横に振った。


「……ご心配を、おかけいたしました……」

 お父様、お母様。


 男性を見つめ返していると、自然と言葉が口を突いた。お母様と呼ばれた女性が顔を覆う。


「もう二度と、こんな心配をさせないでくれ」

 苦言を我慢しているのか、涙を我慢しているのか、苦々しく眉を潜めた父がそう言った。万里は、消え入りそうな声で「はい」と返事をする。

 25年間慣れ親しんだ自分の声とは違う、可憐な鈴のような声。しかし、その声に、言葉に、心底安心したように父は深い息を吐きだした。


「ローズマリー。お前が無事で――本当に、本当によかった」


 あの時の父の言葉を思い出す度、この体に心が反応するかのように、胸が痛んだ。

 ――彼らが待ち望んだローズマリーは、もういない。彼女の意識が消えてしまったことを知っているのは、万里一人だけ。


 しかし万里にとっては、知っているようで知らない他人だ。彼らの悲しみに寄り添うことが出来なかった。

 万里は、ローズマリーのことをよく知っている――というには、少し語弊があるかもしれない。

 万里は死んだローズマリーの体の中で生きることによって、彼女のこれまでの記憶を得た。

 おかげで万里は、人間関係や礼儀作法に悩まされることなく、ローズマリーになりきり、第二の人生を歩むことが出来る。亡くなったローズマリーからの、遺産のようなものだと万里は解釈していた。


 しかし、問題もあった。

 庭にある池に足を滑らせて落ちてしまった――とローズマリーは説明したが、周囲がそれを信じていないのは明白だった。池は、ドレスを着た貴婦人が簡単に足を滑らせるような設計にはなっていない。深く覗きこまなければ、滑り落ちるようなことはまずないのだ。

 池の周りにはすでに高い手すりが備え付けられ、もう二度と身を投げ出せないようになっている。


 真相はわからない。その時の記憶だけ、彼女の頭からぽっかり抜けてしまっているからだ。それがどうしてなのかはわからない。

 けれども、ローズマリーの両親が、そして使用人達が、彼女の身を案じていることを万里は心から喜んでいた。それは、ローズマリーが皆に愛されていた証拠であるからだ。


 骨と皮で出来た、ほっそりとした令嬢の手を見る。あかぎれ一つない白い肌。つややかな桜色の爪は、毎日使用人達の手によって磨かれている。これまでどれほど大事に慈しまれてきたのか。記憶がなくてもきっと、わかったことだろう。

 そうは言っても、この綺麗な手を見てほんの少しため息をつきたくなることもある。

 この手が洗剤に塗れたスポンジを持つことは、きっとこの先一生ないだろう。

 彼女はその細い指で針を持ち、鮮やかな刺繍を刺すことと、如何にお上品にスープを飲む事だけに心血を注げばいいからだ。万里とは、交差のしようもない人生だったはずだった。


 急遽開かれたピクニックランチの席で、ローズマリーはサンドウィッチに齧り付きながら大きく息を吐いた。

 そよそよと初夏の風が木々を揺らす庭園で、ローズマリーと父母が白いガーデンテーブルでランチを取っている。仲のいい家族の理想的な図の中で、行儀の悪い行動をとったローズマリーに、母が眉を顰める。


「ローズマリー、品のないことをしては――」

「まぁまぁ、こうして元気になっただけ、いいじゃないか」

 父の言葉に、母は口を噤んだ。そして上品にソーサーからカップを離す。ローズマリーは慌てて気を引き締めた。

 そんなローズマリーを見た父が、穏やかに笑う。


「またこうしてローズマリーと共にいられるだけでも、我々は天に感謝しなければ」

 父はローズマリーが事故後、稀にこのような粗野な行動が出ることに対し、鷹揚な態度を見せた。一度心臓が止まった――ということが彼の中で強い抑止力になっているのだろう。今は、先ほど彼が言ったように元気に過ごしてくれればそれでいいと思っているみたいだった。


 万里は入れ代わりがばれなかったことにほっとして、母に倣いカップに口づける。


「ごめんなさい、お母様。まだ本調子ではなかったようで……ほんの少しの散歩だったのに、思った以上に疲れてしまって」

「まぁ……まぁ。私ったら。そうよね、ローズマリー。咎めてしまってごめんなさい」

 ローズマリーの言い訳も素直に信じたのは、ひとえに今までローズマリーが父母に嘘をついたことがなかったからだろう。


 ローズマリーの17年間は、誠実で満ちていた。

 清廉でいて謙虚な少女。美少女とまでは言えないが、補って余りある穏やかさが彼女の魅力を引き立てていた。屋敷の使用人全ての者に好かれる心優しい子爵令嬢――それがローズマリーだ。

 会計士との合コンのために命を捨てるような馬鹿な真似は、絶対にしないだろうと心から言いきれる。


「病み上がりだ。あまり長いこと風に当たるのもよくないだろう――ローズマリー、これは後で部屋で読みなさい」

 父が胸から手紙を取り出す。そこに押された印を見て、母とローズマリーは目を見開いた。


「これは――」

「来月の中頃だそうだ。それまでには、しっかり体を治しておくんだぞ」


 父は、それがローズマリーを勇気づけると確信していた。母も顔を真っ赤にして喜んでいる。ローズマリーは手紙を受け取ると、挨拶もそこそこに自室に引き返す。


 自室に舞い戻ったローズマリーは、震える手で手紙を見た。封蝋には、この世界に生きる者なら誰もが知っている女王の紋章が押されてある。

 従僕や父が中身を検閲したために、封は開いていた。蝋印が欠けないよう慎重に手紙を取り出し、手紙を見つめる。あまりにも予想外のことに、目が滑り手が震えた。それでも全容を何とか把握できたローズマリーは、声高々に叫んだ。


「アメージーーング!」


 つい叫んでしまうのも、無理のない内容だった。

 王妃主催のお茶会――とは名ばかりの、王太子の花嫁探し。そこに、家格はパッとしないものの古くから王家と交流のあるオーグレン子爵家も招かれたのだ。


「王太子! 玉の輿!」


 天に突き刺した拳が震える。


「あぁ、神様! 嘆いてごめんなさい。 私きっと、こちらの世界でだって玉の輿に乗ってみせます!」


 ぐっと拳を握って、ローズマリーは天に誓ったのだった。





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