2-7 順平が川に落ちた日(その1)~甲虫展~
4年生になった。同級生の中でも俺は相変わらず小さくて、みんなから弟扱いというか、ひどい時には邪魔者扱いされた。特に体育はどんなに頑張っても一番になれるものなんかなかった。ただ、算数と図工だけはどういう訳か得意で、特に算数は『ガクモンのドリルで』十分に練習しているので、2桁の掛け算、割り算、それから歯抜け問題なんかが得意で、1学期が終わるころには、誰にも負けない自信すら持つようになっていた。順平は俺より体格が大きく、俺とは反対に、体育では何かと目立っていた。俺達は幼馴染だし互いに学校でライバルみたく張り合う事が無かったので仲が良かった。
最近は東京では蝉が鳴かなくなったと言う人が居るが、神田川や玉川上水沿いの雑木林はうるさいくらい鳴いている。当然俺達の探検と狩猟の場になっていた。川の土手は立ち入り禁止で、当然危険なところもあるが、俺達は『決まり』よりも『好奇心』の方に従順だった。
夏休みが始まって直ぐの頃だ。
「翔ちゃん居るか?」
表で順平の声がした。
「居るよー」
「遊ぼう。」
「ちょっと待ってて、すぐ行く」
俺達の1日はこんな感じでいつも普通に始まる。そして、子供用自転車に昆虫採集用の網をくくりつけて出かけるのだ。もちろん目的地はたいてい川沿いの雑木林だ。
「今日はどっちにする?」
「神田川に行ってみよう。」
「じゃあポンプ小屋を回って行こう。」
三鷹台から久我山の間の神田川沿いにはたくさんの桜の木がある。その桜の幹は抱き着いても手が届かないくらいの大木なので、蝉は頭の中に響き渡るくらい鳴いているのだが、たいてい網が届かない。
「見える?」
「うーん。アブラ蝉は上の方だから分からないね。」
「川側の幹をよく見るといるよ。」
「・・・あ、さっそく見つけ。」
「落ちるなよ!」
「うん。大丈夫。」
俺は緑色の金網のフェンスに足をかける。順平は俺が川に落ちないように足を持ってくれる。川の方を見るのは、実はすごく怖い。このあたりの神田川は5メートルも深く掘ってあって、両岸がコンクリートで固めてあるからだ。落ちたら死ぬ。・・・と思う。俺は、順平を信じて目いっぱい体を伸ばし、そしてそいつを捕まえた。
「ニイニイ蝉だ。」
「もっと大きいの捕りたいね。」
「ここじゃやっぱ捕れないね。」
「あっち行くか?」
「そうしよう。」
俺達は久我山の南の坂を上がって玉川上水の林に移動する。
「なあ翔太、神田川がなんであんなに深くしてあるか知ってるか?」
「ああ、3年の社会で習ったじゃん。大雨が降っても溢れないようにしてあるって。」
「そうだったっけ?」
「忘れたの?」
順平は豆知識を自慢するのが好きだ。てか、むしろ癖だ。だが、俺も負けてはいない。たいてい知っている。
そしてまもなく、玉川上水に到着した。このあたりの樹木もかなり背が高くて網が届かない。ただし、柵を超えた川沿いの土手には低木も生えている。俺達の狙いはその低木だ。
「よし、ここから入ろう。」
「翔太、カブレるから左のハゼの木に気を付けろ!」
「了解。」
ガサゴソと土手に入ると、蝉の鳴き声が遠のく。
「居るか?」
「ダメだ。逃げられた。」
「順平、右のイチジクの木にカミキリ虫が居るかも。」
「うーん。おお、あたり。2匹居いる。」
こんな調子で、玉川上水を三鷹台方向に移動しながら俺達は狩猟に夢中になるのだ。
「なあ順平、三鷹台団地にも林みたいなのがあったよな!」
「ああ。行ってみるか!」
三鷹台団地は玉川上水からさらに2百メートル程南にある。俺達は自転車を飛ばして、団地へ移動する。
団地の東側にある児童館まで来た時だ。マサちゃん(伊藤正文)に呼び止められた。
「順平、翔太。何やってんの?」
「蝉取り。」と順平が答えた。
「取れた?」
「それが、さっぱり。」と俺。
「下手なんじゃないの?」
「木が大きすぎて網が届かないんだ。」
「そうだね。その網じゃ無理だ。」
「マサちゃんは何してるの?」
「ここで子供会の集まりがあったんだけど、抜け出してきた。」
「子供会って?」と順平が聞くと、
「読み聞かせっつって、昔話の本をおばさんが読むんだ。」
俺はそういうのに少し興味があった。
「へー、それ、面白いの?」
「面白いんだけど、知ってる話が多いんだ。」
「つまり、小さい子には受けるんだ。」
その時、マサちゃんが何か思いついた。
「そうだ! 市役所でカブトムシ展やってるの知ってる?」
「本当?」と俺、
「うん。小学生はたぶんタダで見れるよ!」
「じゃあ、行ってみよう。」と順平。
「コープの前で待ってて、僕も行くから。」
マサちゃんは走って団地に入って行った。
順平と俺は団地を南に横切って、家庭農園の横を抜け、東八道路のコープの前に移動した。
しばらく待っていると、モトクロス風の新品自転車に乗ったマサちゃんが颯爽と現れた。
「さあ行こう!」
俺達は東八道路の広い歩道を三鷹に向かって疾走した。子供自転車のスピードで。
「ねえ、マサちゃん恰好いいのに乗ってるね。」
「うん。夏休み前に、前乗ってたのが壊れたんで、買ってもらったんだ。」
「いいなあ、変速ついてるし。」
「うん。前2段で、後ろ4段。」
「後で乗せてくれる?」
「うん、良いよ。」
順平は平気な顔でぐいぐい進んでいる。マサちゃんは変速機に慣れてないのか、少し喘いでいる。俺はというと・・・かなりしんどい。マサちゃんが俺の様子を気遣って、
「順平、ちょっと休むか?」
「え、もう休むの?」
「だって、翔ちゃんが苦しそうだよ!」
「ほんと?、翔ちゃん、大丈夫か?」
「うん。大丈夫。」
俺は少し虚勢を張っている。
「大丈夫ならいいや。」
順平はそう言いながら、スピードを落としてくれる。
2時半頃目的地近くに到着した。郵便局の自転車置き場に自転車を置いて、隣の市役所に行く。
順平が看板を見て、
「なあ、カブトムシ展じゃなくて『甲虫展』コウチュウテンって書いてあるぜ!」
「それ、カブトムシって読むんだ。」と俺がフォローする。
「へえー、そうなんだ。」とマサちゃんが意外な事を言う。
その甲虫展の会場は市役所の建物の外のテントの中だった。俺達がテントに近づくと、係のお姉さんが、
「君たち牟礼小?」
「いえ違います。三鷹台です。」
「じゃあ、こっちの紙に学年と名前書いてね。」
どうやら、学校別に用紙があるみたいだ。俺達は言われるままに学年と名前を書いた。
市役所の建物の日陰と言っても、テントの中はかなり蒸し暑い。そこへ入ると、蚊帳のような網で囲まれた部屋があって、その中に小さい林が作ってあった。足元には3センチ位の木屑が敷いてあり、カブトムシだけでなくクワガタも放してある。大人は監視員のお兄さんが一人、子供も俺達を含めて五人しか居ない。
「あんまり人居なくて良かったね。」と俺が言うと、
「暑いからじゃね?」とマサちゃん。
「そうだね。」
俺は自転車を必死でこいで来たので、髪の毛からも汗がポタポタ滴っていた。
さっそく虫をつかまえた。
「カブトムシってツルツルかと思ってたけど、毛みたいなのが生えてるね。」
「種類によるかも。」
「そっか。」
順平は平気で掌の上にカブトムシを乗せている。俺も真似して乗せてみた。
「いてて! なんか引っかかれる。」
「かぎ爪になってるからね。」
と順平が自慢そうに言う。その横でマサちゃんがカブトムシを人差指と親指でつまんで持ち上げている。そのカブトムシが、敷いてあった木屑を抱えて放さない。
「すごい、すごい。力が強いんだ。ほら、木屑持ち上げるよ!」
係のお兄さんが、
「もっと大きい物でも2百グラム位なら軽く持ち上げるんだよ。」
と説明してくれた。
順平がクワガタを見つけた。
「おお、これはでかい。」
「それはミヤマクワガタだね。角の力が結構強いんだ。」
と係のお兄さんが教えてくれる。順平はそれを確かめるように、右手でクワガタをつまんで、左手を角の間に入れた時の事だ。
「痛い! いてててて・・・」
「どうした? 順平! 大丈夫?」
順平は左手と人差し指とそれを挟んで放さないクワガタを振り回している。
「ははは、指挟まれたんだ!」
「笑うな! すっげー痛い。」
次の瞬間、クワガタが飛んだ。自ら羽ばたいたのではない。振り飛ばされたのである。そして、3mほど離れた所にしゃがんでカブトムシを観察していた女子の背中に飛び込んだ。
「キャー!」
「ああっ! ごめん。」
順平がとっさに謝る。
「痛い、痛い!」
その近くに彼女の同級生らしい女子が居るが、
「わたし怖い。どうしよう・・・」
「痛い、痛い! 誰でもいいから早く取ってよ!」
順平は責任を感じているのか、その女子に近づいて、
「どこに行った?」
「背中よ! 早くして! バカ!」
俺も近づくが、どうしていいか分からない。係のお兄さんはニコニコしている。
順平は、
「ゴメン。」
と言って、彼女のTシャツの後ろ襟首をつまんで広げ、背中に手を入れて、
「ここか?」
「違う、もっと左、痛い痛い。」
「ここか?」
「下、下! 痛いから早くしてよ!」
こんな具合にあちこち探って、ついに犯人を捕まえて放り出した。
「ああ、良かった。もう大丈夫だよね。」
「・・・・・」不気味な沈黙があった。
その女子は半泣きで、ゆっくり立ち上がると、振り返って、
『キッ』
と順平を見据え、次の瞬間、
『パシッ』
順平にビンタを食らわせ、横に居た俺を突き飛ばし、走るようにテントから出て行った。
もう一人の女子もそれに続いた。
順平、茫然。俺、尻餅。マサちゃんと係のお兄さんは苦笑。
「ナッちゃん、大丈夫? ひどい人たちね。」
「あいつら三鷹台小だよきっと。」
という女子の声が聞こえた。
マサちゃんはその二人を目で見送りながら、
「今の女子は牟礼小だよなきっと。」
俺は尻餅の状態のまま、
「そうなの?」
「俺知ってんだよ、後から出て行ったのは確か『ユミ』って呼ばれてる。」
「なんで知ってるの?」
「同じ塾だと思う。」
「そっか。じゃあ学年も一緒だね。」
「うん。同じはず。違ってたら曜日が違うから。」
順平はまだ茫然としていたが、
「僕、帰る。左のほっぺたが熱い。」
そう言って左手でほっぺたをさすっている。俺はそのほっぺた見て驚いた。
「おおっ、順平、すごい。」
「何が?」
「手の跡がくっきりついてる。」
「ええーっ!」
すると、係のお兄さんが、
「出て左に行くと水道があるから、冷やすといい。」
すると、順平はものすごくばつが悪そうに、
「いえ、いいです。帰ります。」
こうして、俺達の甲虫展は終了した。
カブトムシやクワガタは、何かと『痛い虫』だということを覚えた。