2-5 親父が何処かへ出かけた日(その1)~変な想像しないで~
4年になって暫く経った。三鷹台から久我山に向かって流れる神田川の両岸の桜はすっかり葉桜になって、遊歩道の脇の民家の藤棚の大きな花の房がそよ風に揺れて、葉擦れの音も暖かくて気持ちよくなった。そんな4月中頃の木曜日、ねだっていたゲーム『トラクエ』を親父が買って帰って来た。
「ほら、翔太、これ」
「なに?」
俺はその包みを開けた。
「あ、『トラクエ』だ。ありがとう親父!」
「ああ、誕生日、不満そうだったからな。」
「えへへ」
「ウイークデーは最大1時間だからな!」
「うん。わかってる。」
翌日の金曜日、俺は順平とマサちゃんを誘って『トラクエ』をやろうと思って、2時間目が終わって間もなく廊下に飛び出した。その時、出会い頭に女子と衝突した。宮田早苗だった。弾みで俺も転んだが、早苗も転んだ。
「痛ったー」
「痛たたー」
まず俺が謝った。
「ごめん。大丈夫?」
「わかんないよ!、痛いから。」
「どこが痛いの?」
「左腕のこの辺。」
「ここ?」
「やだ、触んないでよ!」
「あっ、ごめん。」
「中西は痛くないの?」
「俺も左腕。」
「急に飛び出さないでよね!」
「わりい。てか、宮田も走ってたろ!」
「私はいつも走ってんの!」
「おいおい、『廊下は走らない』って事になってんだろ!」
「おかしいなあ!、いつもなら避けられるのに。」
「本当に他に痛いところは無いか?」
「うん、大丈夫みたい。」
「じゃあ、おあいこって事で良いか?」
「だめ。あんた男子なんだから、ちゃんと謝って!」
「こう云う時だけ男子扱いだな。」
「男子じゃないの?」
俺はため息を一つして、
「だから俺が悪かったって言ったろ!」
「ちゃんと言ってよ!」
「ああ・・・ごめんな!」
「うん。じゃあ、許したげる。」
そこへ順平がハンカチをポケットに押し込みながら帰って来た。
「翔ちゃんどうしたの?」
「ぶつかった。宮田と。」
「早苗、お前また走ってたんだろ!」
「うっさい。いつもの事よ!」
「いつか大怪我するぜ!」
「大丈夫。・・・じゃあね。私急ぐから。」
「おい、走るなって!」
早苗は順平の声が聴こえたのかそうでないのか、階段の方へ走って行った。
「やれやれ!・・・ところで順平、トラクエ最新版昨日ゲットしたんだけど!」
「本当か?」
「やんない?」
「するする。」
「どこでする?」
「そりゃ、翔ちゃん家だろ。」
「OK!」
「じゃあ、3時頃行くよ。」
「うん、待ってる。」
それから、俺はマサちゃんを誘おうと1組に行った。1組を覗くと、矢島剛が居た。
「翔ちゃん、何か用?」
「マサちゃん居る?」
「えっと、さっきまで居たんだけど。」
そこへマサちゃんが帰って来た。
「翔ちゃん、どうした?」
「トラクエ最新版ゲットだぜ!」
「本当か?」
「3時頃、俺ん家集合!」
「他に誰来んの?」
「順平。」
「わかった。行く。」
「剛ちゃんも来ない?」
「ああ、行きたいけど、今日は爺ちゃんとこへ行く約束したからまた今度。」
「そっか。・・・じゃあ。」
「うん。」
放課後、俺はいつもの様にガクモンに寄ってそれから児童館に寄って急いで用事を済ませた。用事と言っても顔を見せるだけだ。先生や主事さんが安心するように。それから家に帰って2人を待った。3時にマサちゃんが来てそれから順平が来て、3人で交代にゲームをした。俺達位のRPGのベテランになるとまず死ぬことは無い。つまり、ゲームオーバーってのは無いから、セーブポイントを決めて交代するってやり方だ。
「今度のはなんかストーリーが面白いね。」と順平。
「うん。やっぱ、お姫様を救出するってのが基本だね。」と俺。
「まあでも、キラーアイテムをゲットしないと先に進めないってパターンには変わりない。」とマサちゃん。
「それはそうだね。キラーアイテムが何処にあるかのクエストだね。」と俺。
順平が壁の時計を見て叫んだ。
「あれ、もう6時過ぎてんじゃん。」
「だね。ゲームしてるとあっという間だね。」
「じゃあ、僕帰るわ!」
「僕も。」
「うん。」
俺は順平とマサちゃんを見送りに玄関に行った。
「じゃあまた!」と順平。
「面白かった。また来る。」とマサちゃん。
「うん、それじゃあ!」
2人が帰った後、2階に上がって、トラクエのテーマを口ずさみながら、食べ散らかしたお菓子の袋を片付けていると、下で電話が鳴って居る音に気が付いた。急いでリビングに降りて子機を取った。
「もしもし」
「もしもし、上原です。」
「・・・?・・・」
「翔太君?」
「・・・あ、ハルちゃんの小母ちゃん?」
「そうよ!、覚えてくれてた?」
「うん。こんばんは小母ちゃん。」
「こんばんは!・・・お父さん居る?」
「あぁ、まだ帰って来てないです。」
「そう。いつも何時頃帰っておいでかしら?」
「えっと、もうすぐ帰って来ると思います。」
「そう。・・・あ、丁度いいわ、春香が傍に居るの、話す?」
「は、はい。」
電話越しにハルちゃんと小母さんの声が聴こえた。
『春香、翔太君よ!』
『ホント!』
「もしもし、翔ちゃん?」
「うん。ハルちゃん?」
「うん。」
「元気?」
「うん、元気。翔ちゃんは?」
「うん、げんき、元気。・・・さっきまで順平が来てたんだ。」
「そう。順平君も元気なんだ。」
「うん。・・・友達できた?」
「うん。できたよ!」
「そっか。」
「翔ちゃんは大きくなった?」
「急に何言うんだい!、でも少しだけど大きくなったよ!」
「へー、また会いたいね。」
「うん。ハルちゃんは、なんか声変わった?」
「そんな事無いよ!、変わってないよ!」
「そうかなあ、なんか、お姉さんになったみたいだ。」
「そおぉ?、私も少し大きくなったからね。」
「ふうーん。ハルちゃんが大きくなったんだ・・・」
俺の脳裏にマシュマロマンがのそっと登場しかけた。
「変な想像しないで!」
「あ、うん。」
「でも、翔ちゃんと話が出来て良かった!」
「うん。」
そこへおやじが帰って来た。
「だだいま、おお、珍しい、電話中か。」
「ハルちゃん、親父が帰って来た。」
「じゃあ、私は母さんに代わるわ。」
「そうだね。こっちも親父に代わるよ。」
「また翔ちゃんとお話ししたい。」
「うん。また話したいね。」
「じゃあ、また。」
「うん、じゃあ」
俺は親父に子機を差し出して、
「ハルちゃんの小母さんから電話。」
「おお、そうか。」
親父は子機を受け取って、
「もしもし、上原?」
「・・・・・」(小母さんの声は聞こえない)
俺はのどが渇いたので、キッチンに行ってお湯を沸かし、親父の分のも入れてリビングに行くとまだ電話で話しをしていた。
「ここにお茶置くよ。」
俺がローテーブルにお茶を置くと、親父は左手でサンキューの様な合図をした。俺は仕方が無いのでお茶を持って2階の自分の部屋に上がった。
ハルちゃんが転校してから、何度会いたいと思ったろう。何度話したいと思ったろう。それが叶わなくても、何度声を聴きたいって思ったろう。ハルちゃんが居なくなって、本当に寂しかった。それなのに、さっき電話で『元気』って事しか話ができなかった。もっと聞きたいことが有ったはずなのに。もっと伝えたいことが有ったはずなのに。俺はなんでなんにも聞けないんだろう。言えないんだろう。俺はハルちゃんに何をしてあげたかったんだろう。あれだけ頼りにしていたのに、あれだけ大好きだったのに、お別れしてから2年とちょっとの間に、大切だったことをすっかり忘れてしまっている。ハルちゃんは俺の恩人なのに・・・俺はなんてバカなんだろう。自己嫌悪って言葉はまだ知らなくて、ただ胸の真ん中がひどく痛んだ。
30分ほどした頃、インターフォンで親父の『メシ来たぞー』が聴こえた。この頃は、三鷹台給食センターと言う所からディナーセットを取ることが多かった。速い話が日替わり定食の出前だ。たぶん、親父は会社を出る前にそこへ電話して帰るのだろう。すると丁度いい頃に配達されるという事らしい。この日のメニューは生姜焼きだった。美味かった。
夕食後、お茶を飲みながら親父がこんな事を言い出した。
「翔太、お母さんの事を覚えてるか?」
「うん。なんとなく覚えてる。」
「そうか。・・・帰って来て欲しいか?」
「うん。・・・でも、帰って来れなくても平気だよ!」
「どうして?」
「母さんが居なくても困ることは無いから。」
「そうか。」
「うん。」
「お前は男の子だからな。」
「俺が女だったら困ることが有るのか?」
「そりゃあ、女の子だったらお父さんに言えない事の1つや2つはあるだろう。」
「俺だってあるぜ!」
「本当か?、何だ?」
「言えないよ。」
「そっか。・・・そうだな。」
まてよ、なんか変だ。親父に言えない事って、たとえば、俺がチビで、皆にバカにされて困る事とかだけど、それって・・・そうか、つまり俺には言えない秘密みたいなのは無くて、言ったってしょうが無い事だから言えないってだけだ。そう思うと、俺が男だって事がなんか悔しい気がした。
「翔太・・・」
「なに?」
「新しいお母さんが来たらどうする?」
「新しいお母さん?」
「ああ、翔子母さんじゃないお母さんだ。」
「中野さんみたいな人?」
「いや、そう言う人じゃない。お前のお母さんになってくれる人だ。」
「つまり、親父が母さんじゃない人と結婚するって事か?」
「ああ、そうだ。解ってるじゃないか。」
「じゃあ、母さんはもう帰って来れなくなるんだよね。」
「そうだな。」
「・・・わからない。」
「どう言う事だ?」
「俺は母さんは居無くても困ってない。だから、親父がそうしたいのなら、そうすれば?」
「そうなるかどうかはまだ判らんが、父さんはお前の気持ちを確かめたいんだ。」
「俺の気持ち?」
「ああ」
「・・・そうなってみないと・・・」
「そうか。」
「うん。」
これまであまり深く考えた事は無かったけど、俺は母さんの事をほぼ忘れてしまっている。どんなだったかと思い返しても、顔も声も・・・思い出せない。匂いも。でも、会えば、聴けば、嗅げば、抱きしめられたら・・・思い出せそうな気がする。不思議だけど、ハルちゃんとハルちゃんの小母ちゃんの事だったらまだ思い出せる。
「じゃあ、父さんが結婚するのは良いのか?」
「母さんじゃない人と?」
「ああ」
「まあ、そう云うの、ゲームにもあるし。」
「翔太、ゲームじゃない。リセットは出来ないんだ。」
「うん。判ってる。・・・良いよ、親父がそうしたいんだったら。」
「そうか。」
「うん。」
「新しい母さんと上手くやってくれるか?」
「・・・やっぱり、そうなってみないと判らない。」
「そうか。・・・もう1ついいか?」
「なに?」
「新しいお母さんに子供が居たら、お前の『キョウダイ』って事になるが、どうだ?」
「・・・わからない。たぶん、そいつ次第だと思う。」
「そうか。」
「・・・親父は俺の味方になってくれるのか?」
「そうだな。そのつもりだ。だが、確かに翔太が言う様に『そうなってみないと判らん』だな。」
「ひょっとすると、俺には味方が無くなるって事だね。」
「そんなことは無い。そうならないようにする。」
「やっぱり判らない。でも俺はたぶん、新しい母さんやキョウダイとなるべく上手くやりたいと思うだろうと思う。」
「そうか。」
親父はなんでこんなことを言うんだろう。親父には母さん以外に結婚したい女が居るんだろうか。しかも子連れの!。思えば、俺は家に居る親父しか知らない。会社で何をしているのか知らない。ひょっとしたら、親父が居なくなったら、1週間もしない内に、思い出せなくなるかも知れないと思う。俺は親の事を忘れる前に何も知らないじゃあ無いだろうか?。そんな事が頭の中でぐるぐる回って、そう云う時はいつもそうだが、また胸の真ん中が痛くなった。