4-25 ロケに行った日(その1)~自己管理~
4月29日(昭和の日)の朝、彩香の声で目が覚めた。
「お兄ちゃん起きて、お兄ちゃん! おはようだよ!」
彩香は俺にまたがって乗っている。
「おはよう彩香、今何時?」
「8時半」
「わかった。起きるからどいてくれ。」
「うん。」
カーテンを開けると眩しい朝日が部屋に充満した。今日は良い天気みたいだ。俺は彩香に手を引かれてパジャマのまま1階に降りた。顔を洗ってダイニングに行くと姉ちゃんが朝食を配膳していた。
「おはよう、姉ちゃん。」
「おはよう、翔ちゃん。はい、牛乳。」
「サンキュ!」
俺は牛乳パックを受け取ってコップに注いで飲んだ。その様子を黙って見ていた姉ちゃんは、両手を腰に着けて、呆れ顔で、
「翔ちゃん、飲むんじゃなくて、みんなに配ってよ。」
「えっ! へいへい。」
そこへリビングから親父がやって来た。
「おはよう、翔太。まだパジャマか。」
「うん。おはよう。」
俺が親父を見ると、親父はニヤッとして、
「白いヒゲが生えとる。」
「あら、本当だわ!」
姉ちゃんも俺を見て苦笑した。
「お兄ちゃん、はい。」
「サンキュ、彩香。」
俺はティッシュを受け取って口を拭いた。そこへ、母さんもキッチンから出てきて全員テーブルに着いた。
『ただきます。』
俺は、スクランブルエッグ、ウインナー、トースト、オレンジを食べて、仕上げにまた牛乳を2杯飲んだ。
「あなたたちは何時頃出掛けるの?」
「そうね、お昼前かしら。」
「じゃあ、お昼の支度はしとか無くて良いわね。」
「お昼にかかる様だったら私が何か作るから良いわ。」
「じゃ、お願い。」
「それで良いよね、翔ちゃん。」
「姉ちゃん、どっか出かけるの?」
「何言ってんの、翔ちゃんもよ! 服を買うんでしょ!」
「え? あ、そうか。忘れてた。」
「もう、翔ちゃんったら!」
「ごめん。」
「翔太、ハルちゃんに頼り切ってたら駄目だぞ!」
「いや、単純に忘れてただけだから。」
「そうか?」
「ああ。」
「翔ちゃんは興味が無い事はたいてい上の空だからね。」
「そうね。お父さん似だわね。」
「おいおい、そんな事は・・・まあ、時々あるか。」
母さんと姉ちゃんは顔を見合わせて苦笑している。
「サヤは似てないよね。」
「これからだんだん似てくるんじゃないか?」と、俺。
「嫌だー!」
「大丈夫よ。彩ちゃんはお母さん似だから。」と、姉ちゃん。
「良かったー。」
「で、翔ちゃん、どうする?」
「うん、お昼前で良いよ。買い物の後で御殿山スタジオに行かないとね。」
「そっか。確か1時半以降だったわね。」
「ああ。」
「彩も一緒だからね。」
「あいよ! 吉祥寺の駅地下でなんか食べよう。」
「あら、彩ちゃんはお兄ちゃん達と行くの?」と母さん。
「えぇ? みんな一緒じゃないの?」
「お父さんとお母さんは池袋に行くんだけど。」
彩香は俺の顔を1度見たが、俺が人差し指を上に曲げて『おいでおいで』をしているのを見て、
「サヤは・・・池袋が良い!」
「あらら、サヤちゃんは先が計算出来るようになったのね。」と姉ちゃん。
「俺達と一緒じゃつまんないもんな。」
「翔ちゃんこそそう思ってんでしょ!」
「いえいえ、姉ちゃんとデートは久しぶりだからワクワクしてます。」
「ほらね、その言い方!」
「ほんと、本当!」
「喧嘩しないで! 仲良しじゃ無きゃ駄目だよ!」
「はい。サヤの言う通りです。」
「もう!」
母さんは俺達3人の会話を微笑んで聴きながら席を立って、ダイニングの奥の大事な物入れから姉ちゃんと俺のカードを取り出した。
「今日は沖縄に着て行く服を買いに行くのよね。・・・はい、カード。無駄遣いしちゃダメよ!」
「はいー、了解です。」
「私のは?」
「いま両方翔ちゃんに渡したわよ!」
俺はカードの裏の署名を見て、
「こっちが姉ちゃんのだ。」
「ありがとう。」
姉ちゃんと俺はクレジットカードをまだ自己管理させてもらえない。確かに、いつも自分で持ってると、ついつい欲しい物を買ってしまいそうな気がする。怖いのは、50万円まで自動融資で、それの利子が年率18%だって事だ。つまり、借りたお金を4年返さないと2倍に、7年で3倍を超え、10年で5倍以上になる計算だ。なんて考えていたら、親父が意外な事を言い出した。
「2人共もう高校2年生だからそろそろクレジットカードぐらい自己管理させてみるか!」
「そうね、そろそろ良いわね。」
「本当?」
「ああ、ただし、収入以上の支出は許さん。」
「それって、援助なしって事?」
「当然だろ、普通なら小遣の範囲でやり繰りするもんだ。」
「父さん、私、お小遣いもう要らないかも。」
「姉ちゃん、それはまだ早計だと思う。」
「あら、翔ちゃんにしては慎重な発言ね!」
「援助が期待できないって事だから。収入は多いほど安心だろ!」
「ハルちゃんだけなら援助するぞ!」
「それ、エロオヤジの台詞に聞こえる。」
「そうならないのを前提に言ってるだけだ。」
「あぁぁ、朝から頭痛くなりそうだ。」
母さんはくっついた彩香の頭を撫でながら微笑んでいる。
「私は無駄遣いしないつもりだから、お父さんの期待通り、たぶん援助はもう必要ないわ!」
「よし、じゃあ今月から2人共小遣い無しで良いな!」
「うーん・・・わかった。だけど、授業料とか参考書とか教材とかは頼む。」
「まあ、純粋小遣い以外はこれまで通りだ。」
「了解。だけど、来月からにしてくれないか?」
「何で?」
「今月分はもう貰って半分以上使ってしまった。」
「あ、私もだわ!」
「まあ、今月分は仕方ないか!」
「ありがとう、お父さん。」
こうして姉ちゃんと俺は小遣いをもらうと言う子供の権利を放棄する代わりに、クレジットカードを自己管理すると言う権利を獲得した。
午後、姉ちゃんと俺は吉祥寺駅南口にほど近いデパートの入り口に居た。今日のデートの目的は宮古島に着て行く服と宮古島で着る水着の買い物だ。時間的な効率を考えると、当然俺の買い物が先だ。
「まず俺のパーカーと水着だよね。」
「何言ってるの、レディー・ファーストでしょ!」
「うぇ?」
「だって。翔ちゃんの買い物先にしたら、飽きちゃって、私のを選ぶのいい加減になるでしょ!」
なるほど、お見通しだ。
「はい。そう言われれば、ひょっとしたらそうなるかも知れません。」
「解れば良し!」
「へいへい。じゃあ、先に水着?」
「どっちが良い?」
「どっちでも!」
「あら、水着って言うかと思ったわ!」
「お昼食べたところだから、後が良いかも。」
「それ、どういう事?」
「お腹ポッコリとか?」
「ん?・・・こら! また妄想してる。」
「そうじゃなくて、店員さんに見られるとか?」
「あのね、試着しないから!」
「そうなの?」
「翔ちゃんは水着試着するの?」
「・・・しない。」
「ほらね。」
「女子は試着するんじゃないの?」
「私はよっぽどじゃ無いとしないわ!」
「そっか、そうなのか・・・。」
「またぁ妄想・・・ばかね!」
エレベータの前に来た。それに乗って3階に上がった。エレベータを出るとすぐ右側に水着売り場があった。俺は・・・ハズい。何処を見てもハズい。こう言うのを『目のやり場が無い』って言うんだろうか。
「翔ちゃん、こっち。」
「う、うん。」
まだ4月の終わりなので水着を買う人が少ないのが救いだが、それでも女の人が数人居て、俺はハズくてなるべく目線が合わない様に努力した。それでも、なんか視線を感じた。
「これどう?」
姉ちゃんが持っていたのはオーソドックスなワンピースだった。
「それ、スクミズ?」
「違うよ!・・・でも遠くから見たらそう見えるかも。」
「セパが良いのでは?」
「そうね。中学の時みたいな白いの?」
「せっかく、沖縄だから。」
「じゃあ、赤いのにしよっか?」
「う、うん。」
「これどう?」
「その左の黄色いのが俺的には・・・」
「これ?」
「うん。」
「そうね。じゃあこれにするわ!」
「決まったー!」
「何言ってるの! 全部見てからよ!」
「えぇえー!」
宣言通り、姉ちゃんは1時間位掛けてほとんど全部のハンガーラックを見て回った。その間、俺はハズくて、なんか情けなかった。しかし、実は姉ちゃんは本当に全部を見てまわったのではなく、ビキニとハイレグのラックをパスしていた。俺はやめとけば良いのに、
「姉ちゃん、この列は見ないの?」
「見てどうするの?」
「・・・・・」
「妄想するんだね。」
「め、滅相も無い!」
「フフフ、大きくなったら着てあげるから、もう少し待ってね!」
「ほ、本当?」
「さあ。」
俺は姉ちゃんの頭に手を当てて、
「早く大きくなぁれ!」
「バカ・・・」
「そうだ、カメラ貸して!」
「どうすんの?」
「姉ちゃんが選んでるところ。」
「そうね。でも、翔ちゃんが選んでくれてるところの方が画になるわね。」
「ええぇー!」
姉ちゃんはショルダーから赤いミラーレスを取り出した。
「はい。」
「どうも。」
俺はストラップを首に掛けて、姉ちゃんが水着を選んでいる様子を次々にスナップに納めた。セパレートの水着が専用のハンガーに『のしイカ』の様にしてある。それを片手で持って品定めする格好は、浜で乾物を作っているお姉さんが渇き具合を見ている様にも見える。姉ちゃんはちょっと気に入ると、それを胸の前に当てて鏡を見るのだが、のしイカから着た状態を想像するのは妄想以外の何物でも無いと思う。
最終的にブルーのシンプルなのと黄色系のフリルのとが候補に残った。俺が初めに推したのは既に忘れ去られている。まあ、俺的にはどれでも良いから早く決断して欲しい。
「どっちにしよっかなあ・・・翔ちゃん、カメラばっかり見てないで何か言ってよ!」
俺は赤いミラーレスのディスプレイを見ているフリをしているが、実は周囲の女の人が気になって、視界の外周に意識を集中させていた。姉ちゃんの声にハッと我に返って感想を取って付けた。
「えっと、沖縄の海はコバルトブルーだそうだよ。」
「どう言う事?」
「コバルトブルーの中にブルーは、闇夜のカラスか雪原の白兎ではないかと。」
「そっか、翔ちゃん賢い!」
「今日初めて褒められました。」
「じゃあこっちにするね。」
「海人のTシャツにも合うと思う。」
「そっか。」
「中学の時付けてたパレオも合うかも。」
「そうね。覚えてるのね。」
「うん。姉ちゃん可愛かった。」
姉ちゃんがこっちを見た。笑顔だった。シャッターを押した。
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ!」
「でね、反対側のラックに同じデザインのサロペットってのがあるんだけど?」
「あら翔ちゃん、目聡いね。それ、私もいいなあって思ってたの。」
「買いますか?」
「翔ちゃん店員さんみたい。」
「店員じゃない証拠に、良かったら、プレゼントしますけど?」
「ほんと?」
「ほんと。」
「なんか企んで無い?」
「とんでもない。」
「怪しいわね。」
「いやいや、似合うと思ったから。」
「ありがとう。嬉しい。」
「どういたしまして。」
姉ちゃんと俺は見詰め合った。姉ちゃんは今日1番の可愛い笑顔だった。店員さんに合図をして、姉ちゃんが水着を、俺がサロペットを買った。店員さんの笑顔がなんかわざとらしく感じて、超ハズかった。その後、姉ちゃんと俺は同じフロアで汗をよく吸ってくれそうなパーカーを買った。お揃で。それからエスカレータで4階に上がって俺の水着を買った。10分も掛からなかった。さらに、5階のスポーツ用品店でゴーグルとシュノーケルを買った。
「ねえ翔ちゃん、足ヒレはどうする?」
「潜る訳じゃないから要らないと思う。」
「そうよね。」
グローブも買おうかと思ったが、スキューバ用品はどれも結構高い。山内さんが機材用の軍手で充分だと言っていたのでそうする事にした。
姉ちゃんと俺は、御殿山のスタジオに2時頃到着した。吉村さんから飛行機のチケットを受け取る約束をしている。祝日なのでスタイルKは表向き休みだが、リモートオフィスの方が集中できるそうで、締め切りに追われた人が出社している。雑誌社って休みが無い会社みたいだ。薄暗い玄関に入って受付のインターホンの受話器を取ると、少しして、いつもの森田さんが出た。
「お待たせしました!」
「おはようございます。中西です。」
「おはよう。今開ける。」
姉ちゃんと俺は受付のカウンターの後ろのドアからオフィスに入った。正面はパーテで目隠しされているが、その奥に両側に腰の高さのキャビネットで仕切らた通路があって、通路右の入り口側が営業、奥が社会課と総務課で、通路左入り口側が機材置き場でその奥が映像課で更にその奥が編集課だ。このフロア全体が編集部だそうだ。ざっと見て40人分位のデスクがあるが、今日は10人くらいの締め切りに追われた社員さんが居るみたいだ。
「翔太君、春香ちゃん、おはよう!」
野太い吉村さんの声がした。
『おはようございます。』
姉ちゃんと俺は吉村さんのデスクの前に行った。吉村さんのデスクは綺麗に片付いているが、両側のデスクの書類が崩れそうになっている。吉村さんは椅子に座ったままくるりと回って、
「はい、これ。チケット。」
吉村さんはA4のコピーを2枚差し出した。
「これですか?」と俺。
「この2次元バーコードを空港の読み取り機にかざしてください。」
「こんなので良いんですか?」と、姉ちゃんも不安そうだ。
「チケット・レスです。帰りの飛行機も同じ2次元バーコードです。向こうで無くさないでください。」
「分りました。」
姉ちゃんと俺はそれを受け取って、ひとまず姉ちゃんがまとめてショルダーに仕舞った。
「それじゃあ、5月3日遅れないようによろしくお願いします。」
『はい。』
「あ、それから、2人に支給品があります。」
「何ですか?」
「これです。」
吉村さんが指差した足元を見ると、キャスターとハンドル付のメタリックなスーツケースが2つ置いてある。1つがワインレッドでもう1つはコバルトブルーだ。どちらのスーツケースにも『スタイルK』のロゴマークのシールが貼ってあって、ワインレッドには『HAR』ブルーには『SYO』と書いてある。
「うわぁ・・・ありがとうございます。」と俺。
「綺麗!」と姉ちゃん。
「わが社の支給品です。ロケには必ずこれで行ってください。」
『分りました。』
姉ちゃんと俺は、デパートで買った水着とパーカーとゴーグルとシュノーケルとそれらが入っていた紙袋をスーツケースに入れ直した。姉ちゃんは、ハンドルを伸ばしてそれに手を置いた俺のドヤ顔のスナップ撮りを忘れなかった。もちろん俺も姉ちゃんを撮った。バックに苦笑している吉村さんを入れた。ピンボケで。




