2-4 胸の真ん中の痛みが再発した日
たった数か月にしろ、一度身に付いた行動パターンはなかなか取れない。そのせいか、誰かに言われて『ハッ』として我に返ることがある。最初はたぶんそう思っていた。・・・その日も学校が終わって、さよならを言って、玄関を出た。そして、そこで立ち止まって、出てくる皆を漠然と眺めていた。無意識に。
「翔太、何してんの?誰か待ってんの?」
「あ、順平。べ、べつに!」
「そっか。じゃあ帰ろうぜ!」
「うん。」
「おーい、順平ちゃん、待ってくれー!」
「あ、(伊藤)マサちゃん、どうしたの?」
「えぇー?、一昨日約束したジャン!」
マサちゃんはブロス(コントローラ)を持つジェスチャーをしながら近づいてきた。
「あ、カートレースね。」
「そうだよ。忘れてたの?」
「そっか・・・翔ちゃんわりい。今日はマサちゃんとゲームするんだった。」
「翔ちゃんも来ないか?」
「ごめん、児童館に寄って帰るから。」
「そっか、じゃあな!」
「じゃあ!」
児童館には主事さんという先生が居る。主事さんは宿題をしたり本を読んでいて解らない事があったら解説してくれる。本は漫画でも良い。
「この漢字何て読むの?」
「それはマカイ『魔界』だね。前後関係から推察するとどうやら『魔人が棲んでいる世界』って事の様だ。」
「ふーん。魔法が使える所じゃないの?」
「魔法は何処でも使えるみたいだね。だから魔王城がある世界かな。」
「そっか。」
「それだけ?」
「うん。ありがとうございました。」
「どういたしまして。」
それから、時々だが、折り紙を教えてくれる小母さんも居る。最近羽ばたく鶴の折り方を教えてもらった。時々バッタみたいに複雑で面白いのも教えてくれる。大抵のものは折り紙になるって事を児童館で覚えた。
「翔太君、ここは山折りにするのよ!」
「こう?」
「そうそう。折ったら真ん中を指で押さえて両側を谷折りに・・・」
その時誰かがやって来た。
「こんにちわー」
思わず入口の方を見る。すると、手が折り紙から離れる。
「翔太君、指を放したら折角折った所が広がっちゃうよ!」
「あ、ほんとだ。」
「でも大丈夫。最初からやり直せば良いから。」
「うん。」
こんな感じの日常がしばらく続くと、同じ状況になる事が増えて、既知感に悩まされることが増える。すると、さすがになんか自分で自分が変だと気付く。・・・変だと気付くだけでどうする事も出来ないのに。
ハルちゃんとお別れして暫くは学校の玄関で足が止まる事があった。児童館に行っても誰かが入って来る度に自然に意識が入口に向いてしまった。女子が騒いでいると、無意識にその中にあの声を探している事があった。友達と遊ぶタイミングが合わなくても、夕方になって一人でコンビニ弁当を買いに行く時も、帰ってそれを食べる時も、僕は1人ボッチになったような気がした。明日になれば来るかも知れない『楽しさ』が楽しみにならない毎日だった。『逢いたい』と心が叫んでいるのに、どうする事も出来ない『へたれの』自分が居て、『あいたい』という言葉が口から出ないで、ただ胸の真ん中が痛むだけだった。喪失感という言葉を知るのはもっとずっと後、大きくなってからだと思うが、僕は言葉を覚える前に意味を知っていた事になる。
後になって思えば、この頃、つまり1年生の2学期頃から、僕はあえて1人ボッチになって、心の中に『寂しさ』を抱え込むような行動が増えたと思う。そうすることによってハルちゃんを忘れて行く速度を押さえることが出来るような気がしていたのだと思う。そして、その反面、孤独な自分を保つために『俺』と云う鎧を纏う必要があったんだと思う。
2年生になってすぐ、4月の中頃からガクモンの教室に遊び半分で行き始めた。ところが、そこはたぶん、ハルちゃんから貰っていたあらゆる感覚を忘れまいとして、無意識にあえて孤独になろうとする、『ボッチ志望』の俺には最適の場所だった。問題に集中している間は誰であろうと邪魔にならなかったし、出来上がった答えが合っていれば嬉しくなったからだ。
三鷹台団地の南にあるガクモンの教室に向かう途中、新緑に覆われた玉川上水の歩道で声を掛けられた。
「翔太、何処へ行くんだ?」
「あ、順平。これからガクモン。」
「ふうーん。なあ、トラクエ買ってもらったんで、一緒にしないか?」
「ああ、いいね。」
「弟が邪魔するから、翔ちゃん家に行くよ。」
「うん。じゃあディスクだけ持って来て!」
「何時頃にする?」
「3時頃には帰って来れる。」
「わかった。じゃあその頃に行く。」
「うん。」
俺はガクモンで少し急いでドリルをやって、それの答合わせをして急いで帰った。3時少し前だった。それからカンタムのシューティングゲームをしながら順平を待った。やがてシューティングに飽きてコミックを読んだ。それも2度目だったから案外速く読んでしまって、仕方ないからテレビを見ながら待った。そして、5時半頃電話がかかって来た。
「もしもし」
「あ、翔ちゃんか?」
「うん。」
「ごめん。行けなかった。」
「どうかしたの?」
「母ちゃんにお使い頼まれた。」
「そっか。仕方ないね。」
「わりい。・・・じゃあ!」
「じゃあ!」
その日は宿題は無かったが、他にすることが無かったので国語と算数の予習をした。6時を過ぎても親父からは連絡が無かった。こんな時はコンビニ弁当を買いに行く事になっている。俺は冷蔵庫に磁石で止めてある千円札をとって、三鷹台駅の近くのコンビニに行った。
いつもハンバーグ弁当は売り切れているのに、この日は残っていた。俺は迷わずそれをゲットして、冷蔵棚の扉を開けて牛乳パックも取ってレジに向かった。すると、レジの近くに元乱暴者の矢島剛が居た。
「翔ちゃん。」
「やあ、ゴウちゃん。どうしたの?」
「爺ちゃんと風呂に行った帰り。」
「ふうーん。」
見ると、白髪角刈りの小父さんがレジでアイスを買っている。その小父さんはお金を払って、小さいレジ袋を受け取るとこっちを向いた。
「剛、帰るぞ!」
「うん。じゃあな、翔ちゃん。」
「じゃあ」
「そっちの坊主は友達か?」
「うん。同級生。」
「そうか。坊主、小さいなあ!」
いきなりそう言われて、俺はものすごく傷ついた。
「・・・・・」
「爺ちゃん、翔ちゃんは『小さい』って言われるの嫌なんだ。」
「そうか。悪かったな坊主。しかし、剛、お前、人の気持ちがわかるようになったか!」
「どういう事?」
「いい友達ができたな。」
「ああ、翔ちゃんは初めてできた大事な友達だ。」
「おお、そうか。坊主、これやっから、アイスでも食いな!」
「いえ、そんな、貰えません。」
「なぁーに、剛と仲良くしてくれる御礼だ。気にすんな。」
剛が小声で言った。
「翔ちゃん、貰っといた方が良いぜ!」
「なんで?」
「爺ちゃん、頑固だから。言い出したら止めない。」
「剛、聴こえとる。・・・が、まあそう言うこった。・・ほら!」
白髪角刈りの剛のお爺さんは俺にポイと500円玉を放り投げるように渡してくれた。その二の腕に刺青の龍がチラッと見えた。
「あ、ありがとうございます。」
「なあに、良いって事よ!」
「じやあね、翔ちゃん。」
「うん。じゃあ」
俺は半分あっけにとられて2人を見送った。
それからレジの手前の棚でチョコレートを1箱取った。レジに行くと、
「温める?」
「はい、お願いします。」
「ちょっと待っててね。」
いつもの事だが、レジのお兄さんは弁当をレンジで温めてくれる。俺はそれが冷めないように寄り道せずに帰って食べるのだ。アイスは買わなかったが、今夜はデザート付のご馳走になったから、いつもよりちょっと早足になった。
やっぱり鮭やカラ揚げよりハンバーグ弁当の方が美味い。俺はわずかなキャベツの千切りの1本も残さず食べた。流しで弁当の殻を洗って乾くまで伏せて置いておく。お湯を沸かしている間にポットを洗う。沸いたらポットに入れる。お茶を入れて一口飲んでからシャワーに行く。シャワーから出たら、洗濯物と洗剤を洗濯機に放り込んでスイッチを入れる。そして、牛乳と程良く冷めたお茶を飲む。小2の男子にして、この手順がもう何も考えずに進行するようになっていた。ただ、この日は最後にテレビを見ながらチョコレートを食べた。なんか少し幸せな気がした。
10時過ぎ、親父が帰ってきた。俺は連絡帳を親父に渡そうと1階に降りてリビングに行った。親父はビールを飲みながらテレビのニュース番組を見ていた。
「おかえり」
「ああ、ただいま。」
「これ、連絡帳。」
「おお、それか。」
親父は連絡帳を開いて南先生のコメントを読んだ。思うに、この連絡帳というシステムには大きな落とし穴がある。子供が連絡帳を親に渡すのが前提になっているところだ。子供がちゃんと親に渡せば、先生のコメントは確実に親に届く。けど、親は連絡帳に返事を書く義務は無いそうだ。親父も滅多に何も書かない。って事はつまり、親が読んだかどうかは先生には判らないのだから、最初から親に見せないってのも可能だ。そうすれば、親は何事もないと思って安心するし、先生はちゃんと伝わっていると思って安心する。結局、児童本人にも何事もお咎めが無くなる。もちろん何かの機会にバレるまでだが。
俺の場合は・・・必ず毎日見せる。親父と話をする良い切っ掛けになるからだ。この頃の俺は真面目な話相手が親父位しかなかったと思う。それに、渡すのを忘れると、親父が催促してくる。たぶん、親父も俺との会話の切っ掛けにしていたんだと思う。ただ、親父が出張に行って居なかったり、帰りがものすごく遅くて見せられないって事はたまにはある。そういう時は南先生にそう言う事にしている。
「今は九九を覚えているのか。」
「うん。もう覚えた。」
「ああ、そう書いてあるな。2組で一番最初に全部言えたそうじゃないか。」
「うん。」
「いつ覚えた?」
「ガクモンで」
「そうか。頑張ったな。」
「俺は今、割り算やってる。九九覚えないと割り算は無理だから。」
「そうか。」
少し沈黙があった。親父は次のコメントを話題にしていいのかどうか迷ったみたいだ。
「俺、駆けっこがダメだって書いてあるだろ!」
「まあな。でも、おまえは仕方がないかもな。」
「俺は諦めてない。いつかはビリから脱出するつもりだから。」
「そうか。」
親父は少し嬉しそうだが、実を言うとかなり厳しい状況だった。ビリって言っても、男子の中だとダントツのビリだったからだ。女子を含めても俺より遅いのは数人しか居ない位だった。俺自身は少しずつだが大きく速くなっていると思っているのだが、皆も大きく速くなるから、全然追いつけないのだ。たとえば、50メートル走のタイムは1年の頃の15秒から11秒まで速くなったのに、クラスの記録は10秒台になっていた。テレビで牛乳を飲めば大きくなるみたいに宣伝しているのを見た事があるが、小学1年や2年ではあまり効果が無いのだと思う。
「じゃあ、これ返す。」
「ああ」
俺は連絡帳を受け取って、歯を磨いて、リビングの親父に
「おやすみ、親父」
「ああ、おやすみ」
そして2階に上がってベットに入るのがこの頃の日課だった。