3-24 調律した日(その1)~乙女の祈り~
卒業式の翌々日の日曜日、朝のうちは晴れていたけど徐々に曇って天気は下り坂だった。親父は7時前に同僚の迎えの車が来て、『付き合いだから』と言っている割には天気を気にしながら、大きなゴルフバックを担いで出掛けた。俺達家族はいつもの事だが、羨望と軽蔑の入り混じった視線でその車を見送った。俺はその後リビングで姉ちゃんと彩香を相手にして7並べなるトランプをした。彩香はまだ4歳半だと言うのに、侮れない賢さを持っている。『6』とか『8』という中心数字を簡単には出さないという高等作戦に出る事が有る位だ。小学生になってTVゲームに覚醒したら恐ろしい事になりそうな予感がする。午前9時頃玄関のベルが鳴った。
「おはようございます。山名楽器店です。」
予約していたピアノの調律師の来訪だ。俺達は慌ててトランプを片付けて、姉ちゃんと俺と彩香はダイニングに避難し、母さんが出た。
「私、山名楽器の廣田と言います。よろしくお願いします。」
廣田さんは40歳台と思われた。
「ご苦労様です。今日はよろしくお願いします。」
「ピアノはどちらに?」
「こちらのリビングです。」
「では、失礼いたします。」
廣田さんは靴を脱ぐと、母さんが置いたスリッパではなく、持って来た黒いゴムのソックスのような物を履いた。そして、よそ見する事無く、母さんが手で示したリビングにスタスタと入って行って、母さんが小学生の頃に買って貰ったという年季物のアップライトピアノの前に立った。廣田さんはピアノの古さとか全く気にする様子も無く、掛けてある埃避けのカバーを取り去って、鍵盤の蓋を開け、タラタラタランと鍵盤をたたいて、淡々と作業を始めた。黒い天板やパネルボードを外しながら、
「なにか気になる事はありませんか?」
それには姉ちゃんが答えた。
「全体的に狂ってて、ウネリが聴こえます。特に『ゲー』とその下の『ツェー』がズレているように思います。それから、ビリビリって何かが振動します。」
廣田さんは『既に見抜いてます』という感じで、姉ちゃんが言う事に1つずつ深く頷いて、
「わかりました。・・・それではこれから1時間半程掛かりますので、終わりましたらお声を掛けさせていただきます。」
そう言って調律を始めた。姉ちゃんは知らないが、彩香と俺は、調律なんて初めて見るし、独特の音の確認の仕方というか、調律の時の音を聴いた。何と言う名前か知らないが、レバーが付いたコックの様な道具も実物は初めて見たし、赤と黄色いフェルトの帯を弦に挟んで、たぶん余分な弦の振動を抑える様子も初めて見た。
「お姉ちゃん、調律すると音が綺麗になるね。」
「あら、彩ちゃんも判るの?」
「うん。なんか濁りが取れるみたい。」
「彩ちゃんすごいねー。その通りだわ!」
「えへへ!」
俺達3人はしばらく調律の作業を見ていたが、廣田さんの気が散って邪魔になるんじゃないかという気もして、結局姉ちゃんの部屋に上がって7並べを再開した。姉ちゃんも俺も、調律の音が気になって集中できず、がんばる気も起きず、彩香の1人勝ちになった。そうしているうちに、11時前になって調律の音が止んだ。俺達3人はそろりそろりとリビングに向かった。リビングでは廣田さんが天板をはめる所だった。廣田さんはそれをはめて、汚れを磨き取って、俺達をチラッと見て、微笑んで、
「作業、終わりました。」
と言って道具やハンディの掃除機を道具入れのバッグに片付けた。そしてたぶん玄関に出ようとした時、母さんが入れたてのコーヒーをトレイに乗せて入って来て、
「ご苦労様でした。コーヒーをどうぞ。」
と言って、ローテーブルに置いた。
「あ、これはどうも有難うございます。」
廣田さんはそう言ってソファーに座った。そしてコーヒーにミルクを入れながら、姉ちゃんを見て、
「御嬢さん、何か弾いてみますか?」
と言った。姉ちゃんは待ってましたと云う感じで、
「いいですか?」
「ええ、お上手そうですね。」
「いえ、好きなだけです。笑わないでくださいね。」
そう言って、ピアノに向かうと、得意の『乙女の祈り』を弾いた。
『♪タンタ、タンタ、タンタ、タンタ、タンタ、タンタ、タン・タン♪』
という出だしの部分をすごく勿体ぶって弾くのが上手い。有名な旋律がそれに続く。
「♪タタタ、タタタ、タン・タ、タン・タ、タタタタン♪」
俺と彩香は顔を見合わせて、演奏を聴きながら小さく音がしない様に拍手した。姉ちゃんは弾いてるうちになんか調子が出たみたいで、夢中で最後まで弾ききった。皆拍手した。
「いやぁ、お上手です。久しぶりに『乙女の祈り』聴かせていただきました。」
と廣田さんも満足げだ。
「凄い、凄いです。音が変わりました。わたし弾いていて感動しました。」
と姉ちゃんが感想を言うと、廣田さんは嬉しそうに、
「それは良かった。調律した甲斐があります。」
そう言ってコーヒーの最後の1口を飲み干した。そして、
「奥さん、すみません。それでは作業報告をさせてください。」
「はい。」
そう言って母さんが廣田さんの向かいに座ると、廣田さんは姉ちゃんの演奏を聴きながら書いた作業報告書を拡げて、
「調律と弦の一部の研磨をいたしました。それからハンマーのフェルトの調整をしました。お嬢様がウネリ音が気になると言ってらっしゃいましたので、少し明るい硬目の音に調整させていただきました。そして、除湿乾燥剤を2つ入れさせていただきました。」
「はい、判りました。」
「お嬢様が言っておられましたが、パネルを止めるバネの取り付けネジが緩んでビリツキ音が出ていましたので締め付けました。」
「はい、ありがとうございます。」
「それでは、この報告書にサインを頂けますか?」
「はいわかりました。」
母さんが作業報告書にサインすると、そのカーボンコピーの控えをローテーブルに置いて、姉ちゃんに向かって、
「かなり長い間調律してなかったのと、少し弦が錆びてましたので、狂いが早く来るかも知れません。」
「そうですか。」
「次は半年後位にまた調律した方がよろしいかと思います。」
姉ちゃんは母さんを見て、
「ちゃんと調律したいわ!」
と言うと、
「そうね、じゃあそうしましょうか。」
すると廣田さんが、
「では、その時期になりましたら、私共からまたご連絡いたしますが、よろしいですか?」
「はい、お願いいたします。」
「わかりました。そうさせて頂きます。」
廣田さんはそう言って立ち上がった。そして、
「コーヒー、ご馳走様でした。それでは失礼いたします。」
と言って、道具入れの大きなバッグを持って玄関に移動した。俺達はぞろぞろとその後について玄関に出た。廣田さんは黒いソックスの様なのを脱いでバッグのポケットに押し込み、靴を履きながら、たぶん母さんに、
「1週間ほどしましたら請求書が届きますので、お支払いをお願いいたします。」
「はい、判りました。」
母さんがそう言うと、玄関を出て、
「それでは失礼いたします。」
そう言ってドアを閉めた。すぐに車のドアが閉まる音がして玄関の外のエンジン音が遠のいたので、皆リビングに戻った。
「翔ちゃん、音の違い分かった?」
「うん。歴然だったね。」
「本当?」
「サヤもわかったよ!」
「そうね。彩ちゃんは耳が良いね。」
と彩香に微笑みかけて言った後、俺を見詰めて、
「ねえ、私の『乙女の祈り』どうだった?」
「そうだね。これまで聴いていたのより、すごく透明感があって、くっきりした感じ?」
「あん、ピアノの音の事じゃなくてさ、わたしの演奏の事!」
「上手なのは判ってますから、『凄く上手だ』って言えばいいの?」
すると姉ちゃんははちょっと怒ったみたいに、
「もう!、知らない。」
その時俺の脳裏に閃くものがあった。
「うん、そうだ。これまで聴いていたのが『乙女の祈り』だったとするとね・・・」
姉ちゃんは期待を込めた眼差しで俺を見詰めた。ま、まずい。本気で怒らせるかも知れない。が、しかし、もう遅い。・・・止められない。
「なあに?」
「今日の演奏は・・・『乙女の怒り』って感じですか!」
一瞬の沈黙が流れた。
「・・・バカ!」
その時、彩香が、
「お姉ちゃん、サヤもピアノ弾きたい。」
「うん、いつでも弾いていいよ!」
「そうじゃなくて、教えて!」
「もちろん、いいよー!」
そう言って彩香の頭を撫でた。俺はまた彩香に救済された。
「翔ちゃんも教えてあげよっか?」
「まあ、ついでの時って事で!」
「やる気無いのね。」
「わたくしは『春香姫様』の演奏を聴かせて頂くのが一番の幸でございます。姫様達の騎士ですから。」
「もう、ばかね。」
俺達の様子を見ていた母さんは、嬉しそうだが半分呆れ顔で微笑んでいた。姉ちゃんは調律したのが余程嬉しいらしく、またピアノに向かった。そして今度は定番の『エリーゼのために』を弾いた。確かにピアノから音符が1つずつ飛び出してくるような明るくてカッチリした音になった。俺が漠然と抱いているベートーベンのイメージに近くなったような気がする。これが『音の粒立ち』という物なのかもと思った。しかも、なんか響きがいい。テキサスの砂漠に放置されていたピアノをオーストリアの森に運んで磨いたという感じだ。それにしても姉ちゃんはいつの間にこんなに上手に弾けるようになったのだろう。しかも殆んど譜面を見ないで弾いている。才能なのかもしれない。
「さあ、そろそろお昼にしましょ!」
母さんのこの掛け声で午前中のリサイタルが終わった。
「はぁーい。彩香も手伝う。」
母さんと姉ちゃんと彩香はキッチンでお昼の準備を始めた。俺はダイニングテーブルのいつもの席に座ってさっきの作業報告書を読みながら食事が出て来るのを待った。
「はいどうぞ!」
姉ちゃんが出してくれたのはオムライスだった。俺はこれが結構好きだ。ケチャップでたぶん姉ちゃんの似顔絵が・・・崩して描いてある。
「お、オムライスだ!、ありがとう。」
「騎士様のお口に合いますでしょうか?」
「え?、ま、まさか罰ゲーム的な事にはならないよね!」
「当たり前じゃない!、そんな事しません。」
「ああ、良かった。」
彩香が自慢げに割り込んだ、
「その絵はサヤだよ!」
「これサヤか!」
「うん。」
「上手になったな。」
「残念でした!、それは練習。本物はこっち。」
彩香が見せたオムライスには確かに彩香の様な目が大きい顔がしっかり描かれていた。その時俺は既に崩れた顔にスプーンを立てて切り取っていた。
「そっか!、これは練習ね。・・・でも美味い。」
「味付けは母さんだもの!」と姉ちゃん。
「言われなくてもわかってます。・・・美味い。」
お昼を食べ終わると、しばらく食休みをして、午後のリサイタルになった。午後のメインピアニストは綾香母さんだ。母さんはモーツアルトが好きなので、リサイタルの最終曲は当然だが『トルコ行進曲』だ。モーツアルトはきっとピアノが大好きで上手だったんだと思う。くすぐったくて自慢げなトリルが多い。特にこの曲の最後の方には、右手主旋律のオクターブ離れた鍵盤をたたくタイミングを微妙にずらして位相ずれというか輪唱というか、不思議な感覚の旋律にするところがある。これはかなりの高等テクニックだと思う。流石は母さんだ。俺は拍手しながら、
「やっぱり母さんは経験値が1桁高い。すごい。」
「ありがとう翔ちゃん。」
母さんの得意そうで嬉しそうな表情を久しぶりに見た。親父も今日はコンペなんかに行かないでこのリサイタルを聴くべきだったと思う。すると突然姉ちゃんが言った。
「翔ちゃんも何か楽器が出来るといいよね。」
母さんがそれに乗っかった。
「そうね。それが良いわね。」
そして俺も。
「あのー、実は俺、前から『アコギ』やってみたいと思ってんだけど・・・。」
「ほんと!、しよしよ!」
姉ちゃんがそう言うと、彩香が、
「アコギってなあに?」
「アコースティックギターよ!」
「アホー?」
「あぁぁ、普通の『ギター』の事よね。」
すると母さんが驚きの提案をしてくれた。
「翔ちゃんの誕生日もうすぐだから、誕生日プレゼントに買っても良いわね。」
「ええっ!、ほんと?」
「お父さんに相談してみるわ。」
「あ、ありがとう、嬉しい!」
「やったね、翔ちゃん!」
「うん。」
「お兄ちゃん、サヤにも貸してね!」
「もちろん。でも壊すなよ!」
「ええー」
「壊れたらまあ治せばいっか。」
こうして、俺はひょっとしたらアコギを買って貰えるかも知れない事になった。この時はまあとにかくコードの練習が出来れば良いレベルの安いので良いと思っていた。ネットで1万円を切るのを見た事がある。その後、彩香がピアノの前に座って、姉ちゃんと母さんが『ドレミの歌』を教え始めた。俺はしばらくその様子を見ていたが、いつの間にかうたた寝したみたいだ。




