3-23 卒業した日(その3)~彩香の寝息~
その日の夜9時頃、俺は風呂から出て、一通り片付けをして、ベットに寝そべってマサちゃんに借りたコミックを読んでいた。そこへ彩香がやって来た。
「お兄ちゃん、入るよ!」
「ああ。」
彩香は俺が返事をするよりも一瞬早く部屋に入ると、躊躇無く俺のベットにやって来て、ベットに上がって、わざわざ俺と壁との隙間に割り込んで、ごろんと仰向けに寝そべった。そして体をくねらせながら、
「お兄ちゃん、もうちょっとそっち行って!」
「あ、あぁ」
俺はコミックを広げて手に持ったまま彩香と同じように体をくねらせてベットの中心から少し端に移動した。
「どうした?」
「サヤ、もうすぐ幼稚園でしょ!」
俺はコミックを読み続けながら生返事をした。
「ああ、そうだな。楽しみだな。」
「ねえ、お兄ちゃん、マンガ読まないでサヤの事聞いてよ!」
「あ、悪い。そうだったな。」
俺はコミックを閉じて彩香を見た。少し涙目になっているのに気が付いた。
「楽しみなんじゃ無かったのか? 幼稚園」
「うん。楽しみだよ!でも心配なの。」
「何が心配なんだい?」
「だってさ、地震になってもサヤ1人じゃ帰って来れない。」
「そっか。・・・でも、もしそうなったら、お兄ちゃんやお姉ちゃんや、母さんや父さんも彩香を迎えに行くから大丈夫だよ。」
俺は彩香に体を向けて右手をグーにして頬杖をついて左手で彩香の頭を撫でた。彩香は少しはにかんだ様にして大きな瞳で可愛い視線を俺に向けた。
「サヤもお姉ちゃんみたいにいつも守ってくれるナイトさんが欲しい。」
「ナイトさんって?」
「お姫様を守ってくれる騎士さんだよ!」
「へえ~、お姉ちゃんにはその『ナイトさん』ってのが憑いてるの?」
「居るじゃん。」
彩香はまじまじと俺を見た。
「あぁー、それは俺の事か?」
「うん。」
「それだったら、お兄ちゃんはサヤのナイトにもなるぞ!」
「ほんと?」
「ああ。」
彩香は俺に抱きついて来た。いつもは母さんか親父にくっついているのだが、最近はなぜか俺にくっつく事も増えてきた。俺的には・・・嬉しい。
「ねえ、お兄ちゃんはサヤが好き?」
「もちろん。」
「お姉ちゃんより?」
「そうかもな。」
「ほんと?」
「ああ、サヤに何かあったら、お兄ちゃんが何でもしてあげる。」
俺は彩香の頭を撫でた。
「サヤ、お兄ちゃんが大好き!」
「お姉ちゃんよりか?」
「うぅーん。お姉ちゃんが好きな時もある。」
「おい!」
しばらく間があった。俺は彩香を漠然と見つめながら撫でていたと思う。
「・・・サヤね。怖かった。」
「何が?」
「地震」
「お母さんと一緒だったんだろ?」
「ううん。あの時は少し離れてた。」
「お母さんの所に行けなかったのか?」
「うん。怖くて怖くて・・・」
「そっか。でもお母さんが助けに来てくれたんだろ?」
「うん。」
「じゃあ、大丈夫じゃないか!」
「それまで怖かった。・・・本当に、いっぱい、いっぱい怖かった。」
あの時の事を思い出したのか、彩香の声は震えて泣き出しそうだった。
「そっか。怖いの我慢したんだ。」
「うん。泣かなかったよ。」
おれは彩香の頭と髪を撫で続けた。
「良く頑張りました。」
「えへへ。・・・でも、お兄ちゃんに居て欲しかった。」
「どうして?」
「・・・・・」
「ん?」
「お姉ちゃんが言ってたでしょ!」
「何って?」
「お兄ちゃんが一緒だったから、怖く無かったって。」
「そっか。・・・そう言う事か。」
おれは左腕で彩香を抱きしめた。
「もう大丈夫だ。お兄ちゃんがサヤを守ってあげる。」
「うん。」
その時、ノックの音がした。俺は一瞬『マズイ』と思った。が、その直後にドアを開けて姉ちゃんが入って来た。そして、俺と彩香の状態を見た。
「翔ちゃん、サヤちゃん、何してるの?」
「あ、こ、これはそのー・・・」
「お兄ちゃんはサヤが好きだから、抱っこしてくれてんだよ!」
「彩香。姉ちゃんが誤解するだろ!」
「なんで?本当なんでしょ?サヤが好きなんでしょ?」
「それはそうなんだが・・・」
「すけべ翔ちゃん。私は見たままを理解してるから、誤解はしてないと思うよ!」
「いや、あの、ええぇー!」
俺はどう説明したものかと考え込んだ。それにはまず彩香を放さねばと思った。しかし、そうした方針が決まる前に彩香が俺に抱き付いたまま、しくしく泣き出した。
「お姉ちゃんはナイトさんを独り占めしてるじゃない。」
「えっ? サヤちゃん、ナイトさんって?」
「お姫様を守る騎士の事らしい。」
「サヤ、すごくすごく怖かった。・・・でもお姉ちゃんはお兄ちゃんが居たから怖くなかったんでしょ!地震。」
「翔ちゃんがナイトさん?」
「らしい。」
姉ちゃんは彩香の意外な思考パターンに驚きながらもどう説明したら良いか、一瞬考えたように見えた。そして、こう言った。
「翔ちゃんが私のナイトさんだったら、きっとサヤちゃんのナイトさんにもなってくれるよ!」
「お兄ちゃんもそう言って、ギュッとしてくれたんだよ。」
「そっか。そうだったのね。」
「うん。だから、お兄ちゃんを怒らないで!」
「解ったわ。怒らないからもう泣かないで。」
「と、言う事なのです。はい。私がスケベかどうかについては明らかに無実です。」
俺が彩香から腕を放すと、彩香も俺に抱き付いた手を離した。俺は足をベットから床に回す様に降ろして、ベットに座った。姉ちゃんも俺の左横に座った。姉ちゃんの膝と俺の膝が当たった。姉ちゃんは風呂上がりの様だ。例のコンディショナーの匂いがする。彩香は寝っ転がったまま、
「お姉ちゃん、サヤにもお兄ちゃんを貸して頂戴。」
「もちろん。彩ちゃんにだったら、あげるわ!」
そう言いながら姉ちゃんは彩香の頭を撫でた。
「ほんと?」
「えーっと、俺は誰の所有物でも無いような。」
「お姉ちゃんがくれたもの!」
「ま、サヤの物になるんだったらいっか。」
俺も左手で彩香の肩から背中を撫でた。彩香は少し眠そうに、
「地震が来たら、サヤを助けに来てね。」
「ああ、真っ先に行くよ。」
「翔ちゃんはこの前の時、彩ちゃんが心配で心配で仕方が無かったんだよ!」
「ほんと?」
「うん。お父さんと喧嘩しそうになるくらいだったんだもの。」
「姉ちゃん、その話は。」
「あら、良いじゃない。」
そう言って彩香を見ると、既に眠っていた。さっきとは違って、安心した、いつもの可愛い寝顔だった。
「寝ちゃったか。」
「今日はモテモテ翔ちゃんだね。」
「先週からずっと地震やら卒業式やらで彩香と遊んで無かったから、ちょっと拗ねたんだろう。」
「そうね。でも見て、可愛いわ。」
「うん。」
またノックの音がした。母さんの声がした。
「翔ちゃん、入っていいかしら?」
「へい。」
母さんはそっとドアを開けて姉ちゃんと俺を見た。
「あなた達、何してるの?」
「3人で密談。」
「やっぱり、彩ちゃんも居るのね。」
「寝ちゃったわ!」
「まあ、じゃあ連れて行こうかしら。」
「あ、いいよ。今日はここで寝かせるよ。今週遊んでやれなかったから、なんかストレスが溜まってるみたいなんで。」
「そう。じゃあそうして頂戴。」
「うん。」
「だけど、翔ちゃんはどうするの?」
「毛布出して、床でも寝れるし。」
「そう、風邪ひかないようにね。じゃあ、おやすみ。春香も早く寝なさい!」
そう言うと母さんは出て行った。
「じゃあ、私部屋に戻るわ!」
「あ、なんか用事があったんじゃない?」
「えっと、何だったっけ?」
「知らないよ!」
「部屋に戻ったら思い出すわきっと。じゃあ、おやすみ。」
「おやすみ」
俺は姉ちゃんを目で見送って、彩香の寝顔を確認してからカーペットに寝っ転がった。しばらくコミックを読んでいたと思うのだが、いつのまにか毛布の事も忘れて、そのまま眠ってしまった様だ。
たぶん寝返りをしたせいだと思う。隣に寝ている誰かに体が当たって目が覚めた。部屋の電気は消えている。目を凝らすと・・・姉ちゃんが寝ている。一瞬、何が何だか判らなかった。壁の時計は蛍光塗料の位置から察すると1時半だ。俺が姉ちゃんの顔を覗き込んだ時、姉ちゃんの目が開いた。
「ワッ! 何するの?」
「いや、何もするつもりは無い。ってか、質問があるのは俺の方なんですけど。」
「なに?」
「えーっと、ちょっと待って。」
俺はまだこうなった状況が飲み込めない。
「どうしたの?」
「ここ、俺の部屋だよね。」
「そうよ。」
「じゃあ、なんで姉ちゃんがここで寝てんの?」
「それは、翔ちゃんが寒そうに寝てたから。」
「姉ちゃんは確か部屋に戻ったよね。」
「うん、一度はね。」
「へっ?」
「だから、用事を思い出したからまた来たの。そしたら翔ちゃんがもう寝てたから、毛布持って来て掛けてあげたの。」
「あ、そっか。それはどうも。だけど、なんで隣で、」
「翔ちゃん寒そうだったから少し温めてあげようかと思ったの。」
「えっと、それはつまり」
「そうよ。ちょっと触ったら冷たいんだもの。心配になって温めてあげたの。」
「そ、それはどうも。有難うございます。」
「駄目じゃない。風邪ひいちゃうよ!」
「あ、あぁ、うっかり眠っちゃったみたいだ。」
俺は上体を起こしてベットを見た。彩香はスウスウと寝息を立てている。俺は起き上がって胡坐をかいてベットに凭れた。すると姉ちゃんも起きて、毛布を俺と自分に掛けるようにして俺の右横にぺたんと座った。そして、ちょっと俺に凭れかかった。俺は毛布の片側を受け取って持った。姉ちゃんは俺に凭れて天井に視線を投じている。虚空を見詰めるように。カーテン越しに入って来るわずかな月明かりに姉ちゃんの横顔の輪郭が可愛く見えた。
「卒業しちゃったんだね。私達。」
「うん。」
「翔ちゃんの答辞、わたし感動したわ。」
「あ、ありがとう。でも、原田先生はたぶん怒ってたよね。」
「どうかしら。案外褒めてくれるんじゃないかなあ。」
「そう?」
「そうに決まってるわ!・・・原稿、忘れたんじゃないでしょ。」
「落したのかも。」
「ううん、それも違うわ! 私、翔ちゃんの教室から・・・」
俺は右手を姉ちゃんの腰に回して、左手の人差し指で姉ちゃんの唇を押さえた。そして、姉ちゃんの大きな瞳を見て、
「いいんだ。もう。俺、原稿無くって良かったから。」
「本当に良いの? それで。」
「うん。」
姉ちゃんも俺の腰に手を回した。しばらく沈黙があった。姉ちゃんが一層強く凭れかかって来た。温かい。体温を感じる。そして静かに言った。
「翔ちゃんは大きくなって私なんかより大人になっちゃったね。」
「いやぁ、姉ちゃんこそ大きいじゃないか!」
「どこが?」
俺は姉ちゃんを見た。いつの間にか目が暗さに慣れている。そのせいか、胸も視界に入った。
「翔ちゃん、スケベな事考えてない?」
「ちげーよ。他の女子に比べてさ。」
「そうね。少しね。」
「ところで、思い出したのって?」
「ああ、ネクタイ貰うの」
「あ、それか。」
「うん。朝になってからで良いわ。」
「うん。」
「翔ちゃん、明日は予定ある?」
「無い。明日になってから考えるよ。」
「そうね。」
姉ちゃんと俺はベットに凭れて寄り添ったまま眠った。俺の部屋で3人で1夜を共にするのは久しぶりだった。姉ちゃんのコンディショナーの香りと温かさが俺に安心感を与えてくれているのだと思った。そして、何より彩香の寝息が心地良かった。




