3-18 大地震が来た日(その3)~歩くのか~
電池が減るかもとは思ったが、俺は仕方なくワンセグを起動した。もちろんNHKだ。ワンセグの画面が映し出したものは目を疑うような各地の震度の数値だった。俺は生まれて初めて震度7というのを見た。これまでは最高でも5までしか記憶が無い。画面はすぐに津波警報に切り替わった。日本列島の太平洋側が赤と黄色で縁取られて点滅している。アナウンサーが繰り返し避難を呼びかけている。これは大変な事になったと思った。そこへ姉ちゃんが両手にコップを持って帰って来た。
「ごめんね。トイレ混んでて、遅くなっちゃった。」
俺はワンセグから目を離して姉ちゃんを見上げた。
「その水は・・・?」
「・・・?・・・違うわよ。ウエイターさんに貰ったのよ。」
「そっか。」
姉ちゃんはコップをテーブルに置いて、椅子の汚れをちらっと確認してから座った。
「椅子、拭いてくれたのね。ありがと!」
「うん。ってか、それどころじゃ無いよ。」
「どうしたの?」
「東北地方の震度は7だって。震源は三陸沖で、3メートル位の津波が来るらしい。」
「3メートルって・・・凄くない?」
「ああ、凄い。もし本当なら下町は壊滅するかも。」
「東京にも来るの?」
「東京湾は注意報だけど来るらしい。」
「ここは上野の森だから大丈夫だよね。」
「たぶん。ここは本郷台地って言う少し高台だと思う。」
「じゃあ、安心ね。」
「うん。でも電話が通じないんだ。」
「家電は?」
「そっちも駄目。SMSもレインも駄目っぽい。」
「お母さん達大丈夫かなあ?」
「それが心配なんだ。」
「お父さんはどうかなあ?」
「会社だから大丈夫だと思う。」
「メールしてみよっか。」
「そうだね。メールなら届くかも。」
「じゃあ、私がメールするね。」
「うん。」
姉ちゃんは早速母さんにメールを送った。俺は姉ちゃんが持って来た水で口を潤しながら、ワンセグのチャンネルを変えて鉄道情報を確認しようとしたが、どこも津波警報だった。そして、3時15分頃の事だ。また揺れ始めた。建物から『ミシミシッ、ミシッ』と音がした。
「あ、姉ちゃん、また。」
「すごい。大きいよ!」
「大きそうだね。」
レストランは再びざわめいた。しゃがみ込む人が多かった。普通の地震じゃない位長かった。けど、今度の揺れはさっき程じゃ無かった。
「これが余震っていうやつかなあ?」
「たぶんそうね。」
その時ワンセグが今の震度と震源を伝えると同時に首都圏の鉄道情報をテロップで流し始めた。俺はそれに見入った。
「姉ちゃん、電車が全部止まってる。・・・って事は、今のところ家まで歩くしかない。」
「え?、歩くの?」
「最悪そうなるかも。」
「タクシーは?」
「お金ない。だいいち、拾えないと思う。」
「そうよね。」
その時、ウエイトレスさんが来た。
「お待たせしました。代わりのケーキセットをお持ちしました。」
「有難うございます。でも、お店の責任じゃないのに良いのですか?」
と姉ちゃんがお礼を言った。ウエイトレスさんは埃がかかった食べかけのケーキや飲み物を片付けながら、
「ええ、店の方針ですから大丈夫です。こういう状況ですし、外は寒いですし、交通もはっきりしませんので、閉店までゆっくりしていただいて構いません。追加のご注文も承っております。」
「はい、有難うございます。それではそうさせていただきます。」
姉ちゃんが安心したように答えた。テーブルに置かれたコーヒーカップを手前に引いて、それに砂糖を入れようとして砂糖壺に手を伸ばした俺とウエイトレスさんの目が合った。そして、彼女は微笑んだ。なんか勘ぐられているような気がした。俺達が中学生だなんて判ってないだろうし、まさか姉弟だとも思ってないだろう。それで、思わず聞いた。話題がそっちに行かない様に半分本能的に。
「ウエイトレスさんの家は大丈夫なんですか?」
「たぶん大丈夫です。でも帰れそうもありません。他のスタッフも今日は帰宅を諦めたと言ってます。」
「そうなんですか。」
「ええ、控室にテレビがありまして、JRは明朝までは点検で動かないらしいです。お客様はどちらへお帰りですか?」
「三鷹です。」
「中央線ですよね。それは大変ですね。当店は8時半がラストオーダーですので、それまでにそちら方面の電車が動き出すとよろしいですね。」
「それまで居ても良いのですか?」
「はい。良いですよ。出来ればご夕食もお召し上がりください。」
「有難うございます。」
「それではごゆっくり」
ウエイトレスさんはそう言って立ち去った。姉ちゃんと俺はケーキセットを食べながらワンセグを見たり、メールチェックしたりした。ネットは相変わらず繋がらなかった。それにしても、なんか時々揺れているように感じた。だだし、もう怖さを感じる程の揺れではなかった。
「ねえ、歩いて帰るとしたら、どういうコースなの?」
「よく判らない。けど、なんとかして渋谷まで行けば、井の頭線は動いているかも。」
「どうして?」
「井の頭線って距離が短いから点検に時間がかからないんじゃないかなあ。」
「そっか。」
「いや、俺の勝手な想像だけどね。」
「なぁんだ。期待したのに。」
後から知った事だが、実際、井の頭線はすぐに運転を再開したらしい。ただし、通常運転では無かったそうだ。
「だけど、渋谷までどうやって行くの?」
「問題はそれだよね。山手線に沿って歩くのが確実だけど、内側をショートカットできれば楽だと思う。」
「じゃあ、途中で地図を買わなくちゃ!」
「ネットが繋がれば、GPSで地図ソフトが使えるんだけどね。」
その時姉ちゃんのスマホが振動した。
「あ、翔ちゃん、母さんからメールが来たわ!」
「ほんと?、じゃあ無事だったんだね。」
「うん。・・・あらっ?、今4時前だから、送信が15分も前だわ」
「へー、やっぱネットが混んでるんだね。・・・それで、どうだって?」
「うん。サンセペディアの鉢が倒れて土がこぼれたって。」
「それだけ?」
「父さんからもメールが来たって。」
「彩香は?」
「母さんと一緒だから大丈夫よ!、翔ちゃんは彩ちゃんが一番心配みたいね。」
「そうじゃ無いけど、怖がってんじゃないかと思って。」
「何も書いてないわ。だから大丈夫だと思うわ。」
「結局一番心配な状態なのは、姉ちゃんと俺って事だね。」
「そうよね。でも、無事で安心したって。」
「さて、どうやって帰るべきか。・・・とりあえず、電池が心配だから消すか。」
「そうね。」
俺はスマホのスイッチを切った。姉ちゃんと俺は安心したのか、ケーキの残りを食べたら眠くなった。そして・・・どうやら眠ってしまったらしい。
・・・・・・・・・・
「お客様!」
ウエイトレスさんの声で目が覚めた。姉ちゃんも起きたみたいだ。
「申し訳ございません。こちらの席は7時からご予約のお客様の席になります。お客様にはあちらの席をご用意いたしましたので、ご差支え御座いませんでしたら、移っていただけませんでしょううか?」
「あ、はい。わかりました。」
姉ちゃんは2人のコート、俺は2人の荷物とコップを持って移動しようとした。
「あ、新しい水をお持ちいたしますので、それは置いて行って構いません。」
「あ、はい。わかりました。」
姉ちゃんと俺は壁際の上野の森の四季の写真がかけてあるところの席に移動した。外はもう真っ暗になっていて、街路灯が点いていた。かなり寒そうに思えた。
「翔ちゃん、私たちも夕食注文しない?」
「そうだね。だけど、夕食は高くないかなあ?」
「大丈夫よ、母さんからちょっともらって来たから。」
「ほんと?」
「うん。夕食はどこかで食べるつもりだったの。」
「そっか。そう言う事は早く言ってよ。」
「翔ちゃんは無駄遣いするから。」
「そんな事無いよ。俺は必要な無駄遣いしかしないから。」
「何それ。」
俺はスマホを起動した。6時半過ぎだった。結局、姉ちゃんと俺は2時間もうたた寝していたらしい。俺は姉ちゃんの懐が頼れるのを知って、早速ウエイトレスさんに手で合図した。
「お呼びでございましょうか?」
「夕食を注文したいと思いまして・・・メニューをいただけますか?」
「はい。少々お待ち下さい。」
ウエイトレスさんは近くにあったワゴンからメニューを取り出してすぐに持って来た。メニューを見て、夕食がそんなに高くないので安心した。2人共和風ハンバーグステーキを注文した。もちろん俺はライス大盛りだ。俺達はメニューを返した。
「お飲み物はどうなさいますか?」
「あ、私達未成年ですから。」
と姉ちゃんが言った。たぶん飲み物を断るつもりだったと思う。
「ノンアルコールはこちらになります。」
ウエイトレスさんはメニューの最後を開いて見せた。
「それでは、オレンジジュースをください。いいよね翔ちゃん。」
思わずか仕方なくか姉ちゃんがそう答えた。
「うん。」
「はいかしこまりました。」
俺達、押し切られた。ウエイトレスさんの後ろ姿が勝利に歓喜しているように思えた。
夕食が出て来るまで待っている間も相変わらずネットは繋がらなくて、結局ワンセグを見ることになった。姉ちゃんはメールをチェックしている。
「姉ちゃん、このテレビ何を映してんだろう?」
「どう言う事?」
「えっ!、これ、もしかして津波?」
「どんなの?」
「こっち来て見てよ。」
姉ちゃんは席を立って俺の隣に来た。
「ヘリから撮った映像だよね。」
「うん。でも何が映ってるのかしら?」
「ビニールハウス?」
「そうね。」
「洪水みたいだね。」
「ねえ、翔ちゃん。たぶんこれ畑が津波に飲み込まれてるって事だわ!」
「あ、道路に車が居る。」
「巻き込まれるわ!」
「ああぁ・・・」
「・・・・・」
言葉が出なくなった。そうしていると、ウエイトレスさんがやって来た。
「サラダとスープでございます。」
姉ちゃんと俺は並んで座ったまま、黙ってサラダとスープを食べた。ワンセグを見ながら。その後、どこかの町のビルの屋上からの映像で、海が膨れ上がって、瓦屋根の家々を飲み込んだり押し流している映像やビルとビルの間を大きな船が流されて通って行く映像が流れた。特撮の様だった。姉ちゃんと俺は食べながらも、言葉を失ったまま暫くワンセグを見続けた。
「お待たせしました。オレンジジュースと和風ハンバーグステーキです。」
「あ、有難うございます。」
「並んでお食べになりますか?」
「いえ、私、そちら側に戻ります。」
「はい、かしこまりました。」
ウエイトレスさんは姉ちゃんの分を向こう側に置いてくれた。
「姉ちゃん、そろそろ電池が無くなりそうだから切るよ。」
「うん。2人とも切れたら困るからね。」
「うん。」
俺はスマホの電源を切った。姉ちゃんは席に戻り、そして俺達はハンバーグステーキを食べた。姉ちゃんも俺も、さっき見た映像のショックが大きくてその事を話題にはできなかった。だから、また黙って食べた。実を言うと、結構美味かった。久しぶりに外で食べた夕食だった。その時は思いもしなかったが、姉ちゃんと2人っきりで食べたのは初めてだったかもしれない。
夕食を食べ終わって、脳裏にまだショックを引きずったまま、オレンジジュースの残りを口に含んで、暗くなった外の景色をぼんやりと眺めていた時、姉ちゃんが不安そうに言った。
「翔ちゃん、日本は大変な事になったんじゃない?」
「うん。そうだね。」
「これからどうなるのかしら?」
「わからない。・・・でも、まず救助だよね。」
「私たちでもボランティア出来るかなあ?」
「わからない。力仕事手伝うんだったら出来るかも知れない。」
「そうね。でも、泊まるところも無いよね、きっと。」
「うん。衣食住は自力になるだろうね。」
「野宿?、そんなの、私たちには無理だわ!」
「たぶんね。」
「私達って、役に立たない人間なのかなあ?」
「そうかも。」
「悲しいわ!」
「・・・・・姉ちゃんは優しいね。」
「・・・『優しいって』・・・役に立たないって事なんだわ!」
「そうかなあ?」
「そうよ。」
「じゃあ、俺もそうなんだろうか?」
「そうね。私たち2人共優しいだけだわ。」
「役立たずなんだね。」
「うん。」
そこへウエイトレスさんがやって来た。
「デザートとコーヒーをお持ちしました。」
「ありがとうございます。でもケーキは・・・」と姉ちゃん。
「あ、このケーキは当店からのサービスでございます。」
「そんな、なんか申し訳ないです。」
「いえいえ、支配人からの気持ちです。席を移って頂きましたのに、ご予約のお客様はおいでになりませんでした。ですので。」
「そうですか。私達はそのような事は気にしていませんが、・・・ありがたく頂きます。」
と姉ちゃんが恐縮したように言った。レストランって、こんな事にまで気遣ってくれて、俺は、たぶん姉ちゃんも、なんかとても嬉しくて穏やかな気持ちになった。
「では、支配人さんに、姉と私がお礼申し上げていたと伝えてください。」
と俺も付け加えた。
「あら、ごキョウダイだったのですか?」
「はい。」
「仲良しなんですね。」
「良く誤解されます。」
「羨ましいですわ!。」
そう言いながら、ウエイトレスさんは微笑んでハンバーグステーキのプレートと皿を片付けた。そして、
「それではごゆっくり」
と言って、それらを持って行った。俺達はサービスのケーキをゆっくり食べた。それぞれのスマホを見ながら。・・・しばらくして、
「翔ちゃん、母さんからメールが来たわ。でも送信時刻は20分も前だわ。」
「何て?」
「お父さんが帰って来たみたい。会社の人の車で送ってもらったって。」
「そっか、大人は良いよね。こんな時は。」
「まだ電車が動かないみたいだから無理しないでゆっくり帰って来いって。」
「どうする?」
「どうするって?」
「歩く?」
「そうね。とにかく渋谷まで歩くんでしょ?」
「うん。・・・でも、遠いね。」
「仕方が無いわよ。」
「じゃあ、トイレに行って、帰る準備だね。」
「そうね。もうすぐ8時ね。今日中に帰れるかしら。」
「今日は後4時間か!・・・今日中ってのは、ちょっと無理だと思う。」
姉ちゃんと俺は『歩いて帰る』という決心をして、交代でトイレに行って、帰り支度を始めた。そこにウエイトレスさんがやって来た。なんか嬉しそうだ。
「お客様は確か三鷹でしたね。」
「はい、そうです。」と俺。
「ここからはちょっと歩くのですが、地下鉄の銀座線がもうすぐ動くそうです。」
「え、そうですか。」
「はい。銀座線で渋谷まで行けますから、渋谷から井の頭線で吉祥寺まで行けるとスタッフの1人が言ってます。」
「はい。そのコースはよく知ってます。」
「井の頭線はもう動いているそうです。吉祥寺から三鷹までなら歩ける距離ですものね。」
「そうですね。」
三鷹台って言って無かったかも知れないが、まあ、あえてそこまで言う流れではないと思った。
「色々気遣っていただいてありがとうございます。それじゃあ、そのコースで帰ります。」
「良かったね、翔ちゃん。」
「うん。今日中に帰れそうだ。」
「お気をつけてお帰りください。」
姉ちゃんと俺は、会計を済ませて上野の森のレストランを出た。8時過ぎだった。外に出ると思った通り、少し寒かった。上野の杜の上空に光る星はたぶん、いつもの様に少なくて、いつもの様に明るく輝いていた。




