2-1 入学式に連れて来られた日
お正月になって、特に卒園前後から、僕の周囲の大人が一様に『もうすぐ入学で、おめでとう』と言った。その頃の僕は『おめでとう』の意味なんか解ってなかった。
4月12日の朝9時頃、入学式に連れて来られた。小雨でちょっと寒い日だった。僕にとって同い年の集団に属することがそれほど幸せでない事くらいは半分本能的に感じていたと思う。なのに大人達は誰も僕の不幸を理解してくれなくて、その日も無慈悲な『入学おめでとう』を何度も投げかけてくれた。親父がそう言えと言うから、そう言われたら機械的に『ありがとう』を返すものだと思っていた。
「翔ちゃん、おはよう!」
ハルちゃんの声がした。当然だが『ほっとして』僕はその声の方を見た。
傘をさした綾香小母さんの手を引っ張ってぐいぐい近づいて来るハルちゃんが見えた。
「おはよう翔太君。」
「おはよう小母ちゃん。」
「おはよう上原。春香ちゃん。」
「おはようございます。小父さん。」
「おはよう中西君。もう1年生ね、2人共。」
「そうだね、早いもんだ。」
そう言って、親父は小母さんとハルちゃんが並んだ写真を撮った。
「ねえ、門の所に行って入学式の看板を入れない?」
「そうだね。」
僕たちは門の右横に立てかけてある、
『三鷹市立三鷹台小学校 平成十四年度入学式』
という漢字だらけの看板の横でちょっと雨に濡れながら写真を撮った。
「これからどうするのかしら?」
「この葉書によると、玄関横のテーブルで書類を受け取るらしい。」
僕たちは『三鷹台小学校』と書いてあるテントの中に折りたたみ式の会議テーブルが並んでいる所に近付いた。そこには高学年と思われる児童が数人座っていて、葉書を受け取って、それに書いてある番号と同じ番号が書かれた大きな封筒を
『中に名札が入ってますから、必ず付けてください。』
と言いながら渡していた。その封筒の中には、安全ピンで止める名札とクラス名簿と式次第と事務連絡のプリントが入っていた。親父も綾香小母さんもその封筒を開け、名札を取り出して僕達に付けた。ハルちゃんの名札はピンクの安全ピンで、『1組 上原春香』、僕の名札は青い安全ピンで、『2組 中西翔太』と書いてある。もちろん読み仮名がひらがなで書いてある。
「春香は1組ね。」
「翔太は2組か。」
「残念、同じ組じゃなかったわね。」
僕とハルちゃんは2人共親の傍に張り付いていて、ハルちゃんは多分、これからどうすればいいのか分からなくて不安だったと思う。僕はそれに加えてこれからどうなるのかも不安だった。
「えーっと、このプリントによると、子供たちは教室に集合するみたいだ。」
「じゃあ、こっちね。」
僕たちは綾香おばさんが指さした大きな玄関に向かった。
玄関の前では高学年の児童数人がプラカードを掲げて声を張り上げている。皆が同時に叫ぶので、何を言っているのか判らない。そこへ先生と思われる男の人が来て、指さしながら、
「君たち、順番に声を出しなさい。1組から順に、それから『蒲田君』、君が一番最後。そしたら、君に戻る。いいね。」
そこに居た児童達は一斉に『はい。分かりました。』と返事をした。
男の子、「1年1組の人はこちらです。」
女の子、「1年2組の人はこちらです。」
男の子、「1年3組の人はこちらです。」
女の子、「1年4組の人はこちらです。」
蒲田君、「父兄の方は講堂へ回ってください。」
「春香はあの一番右のお兄さんの所ね。」
と綾香小母さんが言った。
「翔太はその横のお姉さんの所だな。」
と親父が言った。けど、僕には人混みに隠れて親父の言う『お姉さん』が見えなかった。
「うん、わかった。じゃあ行ってくる。・・・翔ちゃん先に行くね。」
「待って!ハルちゃん。ハルちゃんと一緒じゃあないの?」
僕は咄嗟に何処に行っていいのか分からず、ものすごく不安になった。
「ああ、違う。お前は2組だから、その隣のお姉さんの所だ。」
ようやくそのお姉さんが人垣の隙間から見えたような気がした。
「うん、わかった。じゃあ行ってくる。」
「翔ちゃん行こ!」
ハルちゃんは僕の手を取って玄関前に向かった。僕はハルちゃんに手を引かれて連れて行かれた。いつもの事だからすごく安心だった。そして、玄関前で声を張り上げているお姉さんの所でハルちゃんと別れた。
「じゃあ翔ちゃん行くね。」
「うん。またね。」
この後、僕は・・・いや僕だけじゃない、ハルちゃんも、それからこの日入学式に連れて来られた子供たちはみんな、ベルトコンベアに乗せられた品物のように、本人の意思や希望に関係なく、というか、そんな考えが浮かぶ間も与えられず、1年生にさせられることになる。
高学年のお姉さんは僕の名札を見て、
「中西君ね。私の傍でしばらく待っててね。」
そう言って、別の子の名札を覗き込んでいる。
「あ、あなたは4組だから、そっちのお姉さんの所よ。」
しばらく待っていると、ハルちゃん達が高学年のお兄さんに連れられて目の前を通って玄関に入って行った。ハルちゃんは僕を見てにっこり笑った。僕も『にっこり』をお返しした。それと入れ替わりにお姉さんが玄関から出てきて、
「2組の人はこっちに来てください。」
と言ったので、僕は言われる通りについて行った。
玄関に入ると、下駄箱の前に木製のすのこが敷いてあった。連れてきてくれたお姉さんは、
「みんな、靴を脱いでこの『すのこ』に上がって、脱いだ靴を持って待っていてください。」
と言って、また外のテントの方に走って行った。実を言うと、僕は『すのこ』と言う物がどんな物なのかをこの時覚えた。そして、『すのこ』に土足で上がってはいけないって事もなんとなく察知した。
言われた通りにして、靴を脱いですのこの上に上がって靴を持って待っていると、間もなく今度はお兄さんがやって来て、名札を見て、
「中西君か、ちょっと待ってね。・・・ああここだ。」
「・・・?・・・」
「中西君、この一番下の下駄箱が君の靴入れだから、これからはここを使うんだよ。」
そう言って、僕の名前が書いてある下駄箱の蓋を持ち上げ、中の上履きを出して、代わりに僕の靴を、
「カワイイ靴だね。」
と言って入れてくれた。僕は上履きを受け取って、
「ありがとう。」と小さい声で言うと、
「中西君は小さいから一番下で良かったね。」
と言った。僕は早々にちょっと傷ついた。本当の事だから仕方ないけど、これからみんなが僕をこうして見下してくれるのだろうという予感で怖いと思った。これからの事がすごく不安になった。左右の上履きの踵にも『1年2組なかにししょうた』と書いてあった。その上履きを履いて教室に連れて行かれた。
教室は下駄箱がある玄関から1段上がった廊下に沿って右に3つ目の案内札の教室だった。その時は分からなかったが、玄関に一番近い部屋が職員室で2番目が1年1組で3番目が2組。そして、トイレがあって、更に奥に3組と4組がある。余計な説明かも知れないが、玄関の左側には廊下の反対側に広い階段があって、上級生はそれを上がる。
教室には前と後ろに引き戸の出入り口があり、職員室に近い方が前の出入り口になっている。
「中西君は奥から3列目の一番前の席だね。」
お兄さんはそう言って、僕の背中に手を当てて席まで連れて行ってくれた。
「ここだよ。」
「ありがとう。・・・ございます。」
お兄さんはにっこりして、
「先生が来るまでここに座って待っててね。」
そう言って教室を出て行った。同級生が次々に同じように連れて来られた。
しばらく座って待っていると、先生と思われる小母さんが入ってきて、
「みなさんおはようございます。」
と言うと、教室にいた皆が、
『おはようございます。』と合唱した。
するとその小母さんは、
「今日から皆さんに勉強を教える南豊子と言います。」
すると誰かが、
『先生ですか?』
と聞いた。
「そうですよ。これから先生の言うことをよく聞いてください。」
そう言って教室を見渡すと、
「これから皆さんの名前を呼びます。呼ばれたら元気に『ハイ』と言って立ってください。」
南先生はプリントの様なものを見ながら、あいうえお順に名前を呼んだ。名前を呼ばれた奴は言われた通り返事をして立った。先生はそいつの顔を見て、プリントにマークを書き込んで、
「ハイ、座ってください。」
という手順を繰り返した。そして、最後のひとりが終わると、また教室を見渡して、
「矢島君がまだ居ないのね。矢島君!・・・居たら返事してください。」
「・・・・・」
「それでは、これから並んで講堂に行って入学式をします。
講堂では、係の先生が
『イチドウキリツ』
と言ったら立って、
『イチドウチャクセキ』
と言ったら座わりましょう。
それから、名前を呼ばれたら、さっきみたいに元気よく返事をして、立ちましょう。
わかりましたか?」
『はーい』皆また合唱した。
「それでは練習してみましょう。・・・『イチドウキリツ』」
2人くらい遅れたが、みんな立ち上がった。
「はい、よくできました。それでは、『イチドウチャクセキ』」
皆座った。でも、やっぱり2人くらい遅れて座った。
「はい。よくできました。・・・オシッコに行きたい人は居ませんか?」
何人かが高学年のお姉さん達に連れられてトイレに行った。
しばらくして、そいつらが帰ってくると、先生が、
「それでは、廊下に並びましょう。」
と言った。僕たちはぞろぞろと廊下に出て2列に並ばされた。左側が男子で右側が女子だ。高学年のお姉さんが並ぶ順番を入れ替えた。そして僕は一番前になった。
整列が完了すると、先生が、
「新六年生のみなさんありがとうございました。」
と言った。すると、10人程居たお兄さんやお姉さん達はそれが合図のように、ににっこりして手を振って、それから玄関の方に早足で去って行った。
僕たちは並んで講堂に向かった。後から判った事だが、式典をする時は『講堂』で、運動をする時は『体育館』と言う。先生が先頭だ。僕は2組の一番前で先生のすぐ後だ。1組の最後に並んでいるのはハルちゃんで、僕のすぐ前を歩いている。
実は、講堂に向かって出発する前にハルちゃんも僕に気が付いて、
「あ、翔ちゃん。」
と言ってにっこりした。ぼくは右手を少し上げて振った。
もう一度言うが、ハルちゃんが僕のすぐ前を歩いている。不思議というか、なんか変だ。ハルちゃんが変なのではない。玄関に差し掛かるころ気が付いた。つまり、1組は男女並び方が僕たちと逆で、男子が右で女子が左に並んでいる。これがなんか変な感じがする原因だ。1組か2組か、どちらかの先生が間違っているのではないかと思った。
玄関を通り過ぎて、階段の前を通り過ぎて、なんか特別な感じがする部屋の横を通り過ぎると、小雨が降りこんでいる渡り廊下があって、その先に講堂がある。僕らは先生に続いてその講堂に入った。そこには後ろ半分くらいに折りたためるパイプ椅子が並べてあって、親達が座っていて、拍手で迎えられた。僕らは少し緊張して、親たちの間を通って正面に向かって行進した。カメラのフラッシュが次々に光った。
大きな机(演壇と言うらしい)がある舞台の下まで来たとき、ハルちゃんは右に、僕たちは左に曲がった。長椅子という背もたれのない3メートル位の長さの木製の椅子が並べてあって、女子がその前で僕たち男子は2列目の長椅子の前に入って行くことになった。つまり、女子が一番前で2列目が男子になった。なるほど、1組と男女が逆に並んでいた理由がやっと解った。女子が前になるように並んでいたのだ。
3組と4組が入って来るまでしばらく拍手とフラッシュが続いた。僕たちはその間ずっと立っていた。後ろを見たかったけど、その勇気が出なかった。やがて足音や拍手が止んだ。
『イチドウチャクセキ』
という係の男の先生の大きな声がしたので、やっと座ることができた。辺りのざわついた雰囲気が静まった。僕は緊張に包まれた。
『ただいまより、三鷹市立三鷹台小学校、平成十四年度、入学式を始めます。』
講堂の右横上の時計で9時45分頃、式が始まった。すぐに、たぶん校長先生と思われる小父さん先生が舞台中央の大きな机の所に出てきた。すると舞台左下に居る係の先生が少し前かがみになってマイクに口を付けるようにして名前を呼び始めた。
『1年1組』
『赤木洋介』
『ハイ』
赤木君と思われる男の子が跳ね上がるように立った。この後の事は言うまでもない。1組の全員が名前を呼ばれて1人ずつ立った。当然座っている順番ではない。あいうえお順に呼ばれるから、立つのはバラバラだ。こうして1組が全員立つと、少し間をおいて、
『1年1組、イチドウチャクセキ』
2組も同じように1人ずつ名前を呼ばれた。僕は真ん中くらいで呼ばれた。それでも立ったままただ待つのはけっこう飽きる。入学式では、間違いなく『ア』で始まる名前が一番可哀そうな奴だと思う。こんな調子で4組が終わるまで6歳や7歳の子供達が1人の例外もなくおとなしくしていたのは、たぶん、なんだか解らないうちに、なんだか判らない状況に置かれて、どうしていいか分らず、暴れることにも不安を感じて、なんの行動も起こせなかったのだと思う。数人の貧血やお漏らしを除けば。
国歌斉唱に続いて、校長先生やPTA会長やら、いろいろな大人たちが『お祝い』と言う演説をしてくれたと思う。たぶん最後に上級生による鼓笛隊の伴奏で校歌斉唱があったと思う。もっとも、新入生の僕たちは、校歌なんかこの時知る由もない。こうして入学式は『式次第』という予定表の通りに進んだ。
本当のことを言うと、僕にとってこのセレモニーはちっとも楽しくなかったし、今となっては大人たちが何を言ってくれたのか、何を祝ってくれたのか、さっぱり思い出せない。たぶん、あの入学式の直後でも覚えてなかったと思う。覚えている事と云えば、舞台の上の演壇の左に大きな花瓶が置いてあって、それに山盛りに黄色やピンクの花が活けてあって、それがひっくり返らないものかと期待した事くらいだ。なんか寒くて、心細くて、じっとしているのが辛かった。だから、誰が貧血で誰がお漏らしかなんて他人の一大事の事なんか、ちっとも覚えてない。
入学式の後は記念写真を撮った。拍手に送られて並んで玄関に移動すると玄関を背にして写真が撮れるように雛壇が作ってあった。玄関の上には大きな校章の看板がある。僕は一番前の列で、校長先生の横にちょこんと座って写った。親たちも我先に僕たちの写真を撮った。そして、その後もまた並んで教室に戻った。先生がまたあいうえお順に名前を呼んで皆が返事をした。ぼくはもうすっかり飽きてしまっていて、しかもなんか寒くて、早く帰りたい気持ちだった。先生のお話があったと思うが、覚えてない。
ようやく一連のセレモニーが終わって、玄関で靴を履きかえて外に出ると、玄関前で親たちが待っていた。
「翔太、こっちだ。」
僕は親父の声の方を見た。そこには親父と綾香小母さんとハルちゃんが居た。僕は3人に近づいた。
「ほら、傘。」
親父は僕に傘を差し出した。僕はそれを受け取って広げてさした。早く帰って寝っころがりたい気分だった。
「もう帰るんでしょ?」
「いいや、これから児童館に行ってみることにした。」
「なあにそれ?」
「学校が終わって、家に帰っても誰も居ないだろ!、」
「そうなの?」
「ああ、お父さんは会社に行っているからな。」
「へー、でも、1人で留守番できるよ。」
「そうだな。でも、児童館の先生に勉強も教えてもらえるそうだ。」
「翔ちゃん、わたしも児童館で遊んでから帰るんだって。」
「ハルちゃんも行くの?」
「うん。」
「翔太君、春香と児童館でも仲良くしてね。」
「うん。いいよ。ハルちゃんが行くんなら、僕も行きたい。」
僕たちは学校を出て三鷹台団地を周回する道路の北側を通って児童館に行った。
「翔太、来週からは学校が終わったらここに来て夕方まで遊んで帰るんだ。」
「えっ?家に帰ったら駄目なの?」
「帰ってもいいけど、することないだろ!」
「そんなことないよ、本読んだりゲームしたり。」
「そうだな。でも春香ちゃんも一緒だし、ここで宿題を見てもらって帰るのが良いと思うぞ!」
「宿題って?」
「そのうち判るさ」
「しょうちゃん、学校が終わったらまた一緒だね。」
「うん。そうだね。」
以上が、僕が記憶している小学校の入学式だ。簡単に繰り返すけど、親父宛の葉書が『きっかけ』で、封筒が渡されて、靴箱を教えられて、教室に連れて行かれて、並んで講堂に行って、入学式があって、記念写真を撮って、教室に戻って、解散して、帰った。その間、僕たちは必要最低限の『イチドウキリツ』と『イチドウチャクセキ』と『自分の名前』に機械的に反応するだけで良かった。こうしてこの日、僕たちは自動的に三鷹台小の1年生になった。