3-9 江の島に行った日(その4)~鳴らしたかった~
木曜の朝は薄曇りで昨夜から途切れることが無い蒸し暑さが続いていた。熱帯夜って云うやつだ。俺は朝早く目が覚めた。寝苦しさのせいではなく、少し興奮気味なのが自分でも判った。2度寝するとまずいと思ったのと、思い付いたことがあって、三鷹台団地までウオーミングアップを兼ねて小走りで散歩に行った。
6時前なら少しは涼しいかと思ったが、結構暑くて、汗だくになった。それで、帰ってきてすぐシャワーを浴びて、バスタオルで頭を拭きながら脱衣室に出た。と同時に姉ちゃんが入って来た。
「きゃ!」
「わっ!」
俺はかなり慌ててバスタオルを腰に巻いた。
「見えた?」
姉ちゃんは両手で顔を覆って、
「見てない。」
そう言っている姉ちゃんの耳が真っ赤だ。
「こう云うの、事故って言うんだね。」
「ご、ごめん。シャワーしてたの知らなかった。」
「まあ仕方がないよ。・・・ねえちゃんも?」
「うん。わたしも出かける前にと思って。・・・またあとで来るわ!」
「いや、行かなくていいよ、俺もう終わったから。」
俺は脱衣室で着替えるつもりだったが、バスタオルを腰に巻いた格好で、着替えを持って脱衣室を出た。すれ違った時、背中に姉ちゃんの視線を感じた。そして2階に上がった。
姉ちゃんと俺はかなり慌てて朝食を食べて出かけた。朝からもう蝉が鳴いていた。もっとも、確かに最近の東京の蝉は少し元気が無いような気がする。
7時前に三鷹台駅のホームに着いた。最近できたのエアコン付の待合室に入った。
「おお、涼しい。」
「ラッシュで混んでるかと思ったけど、そうでも無いね。」
「夏休みだし、ラッシュにはまだ少し早いかも。」
そこへサチが到着した。
「おはよう。一昨日はありがとう。」
「おはよう。・・・サッちゃんのお父さん、とてもいい人だった。」
「中西君がちゃんと話してくれたからだと思うよ。」
「そうかなあ?」
「あの後ね、お父さんベタ褒めだったんだよ!『あんなしっかりした中学生も居るんだ』って。」
「あ、ありがとう。お褒め頂いて嬉しいよ。」
「今だったら、絶賛、私の『いいなずけ』になれるよ。きっと。」
「マジ?」
「サッちゃん、あんまり褒めないで。うぬぼれ屋だから。」
「そうだね。」
「おい!」
『おはよー』
ナツと順平が入ってきた。
『おはよー』俺達もハモッた。
「あっちいな朝から。」
「2人同時って事は?」と俺が聞くと、
「うむ。迎えに行った。」
「嘘よ。駅の手前で追いついたんでしょ!」
「という訳で、かなり暑い。エアコンの風強くできないのか?」
「じゃあ、あとはエリちゃんとユミちゃんだね。」
「そうね。」と姉ちゃん。
「あれー、僕が暑いってのはスルーですかー!」
その時、エリとユミが階段を下りて来るのが見えた。同時に電車が入ってきた。言うまでもないことだが、井の頭線は上りが渋谷行きで下りが吉祥寺行き。それ以外と言えば、車庫がある途中駅の富士見ヶ丘行きしかない。俺達は渋谷行きに乗る。
渋谷からJR湘南新宿ラインで大船へ行けば湘南モノレールに乗れるのだが、小遣い節約のために下北沢で小田急線に乗り換えて片瀬江ノ島へ行く。そこから江の島近くの浜までは歩きだ。
という訳で、俺達は予定通り7時5分の渋谷行きに乗った。
明大前で目の前の座席がいくつか空いた。
「女子座れや」
「男子どうぞ」
と言っている間に、通勤の小母様たち(口に出すと怒られそうだが)が座った。
・・・ま、いっか。
下北沢で乗り換えた。小田急線の急行電車は通勤と逆方向の下りだからガラガラ・・・と期待していたがあっさり裏切られた。結構人が乗っていて、すぐには座れなかった。結局全員が座れたのはしばらく走った登戸だった。
「ああ、やっと座れた。」と俺、
「翔ちゃん大丈夫?」と姉ちゃん。
「なんで?」
「昨夜遅かったんじゃない?」
「うん。ちょっと。」
「何してたの?」
「これ。」
俺はA4のプリントを見せた。
「へー、調べたの?」
「うん。」
一方反対側の座席では、
「きつかったねー」とエリ。
ちゃっかり既に座っていた順平がまた余計な事を云った。
「おばんくさ!」
「なによ、そんなら順平立ってろ!」
順平は一度立って、エリを見つめて、
「失言でした。座らせてください。」
「よし、お座り!」
「中西君、ガム要る?」とサチ。
「いや、いい。今、飴なめてる。」と俺。
「それ、私もらってもいい? それから、高野君、ナッちゃんの隣、空いてるよ!」とユミ。
「ご親切に。どうかお気遣いなく。」
「順平くん、こっち来なくていいから。」とナツ。
「えっ!なんで?」
「今日はみんなのお世話して!」
「はい。そうです。今日の僕は女子の皆様の執事ですから。・・・あくまで。」
町田を過ぎて、相模大野から江ノ島線に入ると、乗客が少なくなった。なんかローカル線の雰囲気がしてきた。電車の両側を緑の林や畑が流れるようになった。
中央林間を過ぎた頃、俺はそろそろかなと思って立ち上がって少し大きな声で。
「それでは、私、幹事の翔太から連絡事項です。」
みんなの視線が俺に集まった。
「予定では先に海水浴でしたが、海の家を手配してくれたユミちゃんの叔父さんからの連絡で、海の家が午後にならないと空かないそうです。」
「ええー、午前中どうするの?」とサチ。
「それで、先に江の島探検。午後から海水浴になりました。なので、予約した海の家に荷物を預けて、江の島に行きます。」
「ごめんねみんな。鎌倉の叔父さんが仕事で予約に行くのが遅くなったそうなの。罪滅ぼしにお昼をおごってくれるって言ってたんだけど、翔太君が・・・。」
「ありがたい話ですが、お気持ちだけ頂いて、幹事判断で遠慮させていただきました。」
「ええー、断ったの?」と順平。
「ああ、元々お願いしたのはこっちだし、7人分の昼食は5千円以上になるからワルいじゃん。」
「ガッテン!」
「みんなもいいよね。」
『いいよー』
「さて、それでは、江ノ島のしおり、てか、プリントを配ります。回してください。」
江ノ島周辺の地図と目的地に番号を記した紙1枚(A4)を配った。
「予定では、8時45分頃片瀬江ノ島に着きます。海の家までは15分くらい歩きます。なので、海の家に荷物を預けて、9時15分頃江ノ島に出発します。後はプリントに書いてある番号順に観光スポットを巡ります。といっても、2か所です。あ、ペットボトルとタオル忘れないで!」
「江ノ島って、すごいパワースポットじゃないの?」とエリ。
「なんか弁天様が御神体らしいから、そういうパワースポットなんじゃね?」と順平。
「エスカレータで、その弁天様のところに行きます。乗り場では、1日パスとか、灯台入場券とか込々割引券売ってあるそうですが、小遣い節約のため、エスカレータの料金だけ払います。」
「エスカレーターが有料なの?」と、サチ。
「ひょっとして、有料エスカレータって日本でここだけかも。」と、順平のいい加減な解説。
「きっと、豪華なエスカレータよ!」とサチ。
「灯台には行かないの?」とエリ。
「時間無いから。下から見上げるだけです。」と俺。
「へーい!」と順平。
「この前って言っても小学校の頃だけど、ダイヤモンドを探すイベントやってたような!」とエリ。
「うーん。その情報はネットには有りませんでした。」と俺。
「そうよね。あの時だけかも。」
「それで、エスカレータの終点は弁天様の境内だと思います。弁天様は女神様なので、アベックは嫉妬されると聞いたことがあります。なので前をスルーして、①番の『恋人の丘』に行きます。そこの鐘を鳴らすとアベックは別れられなくなるそうです。」
「どうしよう。鳴らさないようにしないと。」とナツ。
「え、それ、どういう意味?」と順平。
「次に、②番の『稚児が淵』という岩場に降りてしばらく遊んで帰ります。」
「それだけ?」とユミ。
「それだけ。近くに、江ノ島岩屋ってのがあって、俺達がまだ習ってない弘法大師とか日蓮上人とか源頼朝とか、かなりのパワースポットらしいけど、有料だし、ここのパワーはたぶん俺達にはまだもったいないと思う。時間もないし。まあ、大きくなったらカレカノとまた来るって事で。」
「それ、何時の事よ!」とユミ。
「それは、まあ、皆さんの実力によるのでは?」
「じゃあ、たぶん私が一番乗りだわ!」とエリ。
皆、エリに注目した。一瞬の沈黙があった。そして俺はその相手を妄想した。なんかちょっと可哀そうな男子のイメージだった。エリはそれを察したらしい。
「おい、そこ! 翔太! 目がおかしい!」
「わ、わかった?」
「いつか絞めてやる!・・・あ、ハルちゃんごめん。」
「良いよ! ご自由に!」
「えぇー!」
「やっちまったな翔太!」
そう言った順平の目が物凄く楽しそうだった。
電車は藤沢で進行方向が逆になり、まもなく片瀬江ノ島に到着した。その後は俺の作ったプリント通りに事が運んで、午前中を江ノ島探検で過ごした。
俺たちは内陸に住んでいるから、太平洋の水平線の丸さや海の色が案外黒い事や、磯の香りや、ゾッとするフナ虫の大群の動きや、波の音や、海から吹く潮風の気持ち良さを知らない。だから、江ノ島の何もかもが新鮮だった。たとえば、ウミウシが思ったより大きい事や紫色の汁を出すことを実感した。大騒ぎしながら。その一部始終を皆が携帯に、順平とサチがデジカメに記録した。順平が例によってカニを振り回した。カニに挟まれるのはクワガタより痛いってのも解かった。そう言えば、順平は土下座ほどではなかったが、頼み込んで、恋人の丘の鐘をナツと一緒に鳴らしたそうだ。俺はと言うと、次の予定と時間が気になって鐘を鳴らすのをすっかり忘れてしまった。そのせいで、姉ちゃんは稚児が淵に降りる坂道で機嫌がなんか斜めだった。
「姉ちゃん、もう少し急いでよ。みんな行っちゃったよ!」
「いいでしょ! 景色見ながら降りてんだから。」
「でも、はぐれたら困るし。」
「そんなにみんなが心配なら先に行けばいいじゃやない。」
「・・・何怒ってんの?」
「べつに怒ってなんかないよ!」
その時俺の頭の中であの鐘の音がしたような気がした。
「鐘?」
「知らない。」
「姉ちゃんと俺、恋人じゃないと思うんだけど?」
姉ちゃんの表情が少し曇った。そして、太平洋の水平線を見詰めるようにして、
「・・・わたし鳴らしたかった。」
「俺と?」
「うん。」
「・・・ごめん。気が付かなくて。」
「いいよ、べつに。」
俺はこんなに拗ねた姉ちゃんを初めて見た。なんかすごく可愛いと思った。
「わかった。戻ろう。」
「いいよ。」
「いや、良くない。」
「はぐれちゃうよ。」
「大丈夫。プリント渡してあるし、携帯あるし。」
俺は姉ちゃんの手を取って恋人の丘に急いで戻った。周りには結構大勢アベックが居て、それは大人のアベックで、姉ちゃんと俺が姉弟だなんてそんな事は誰にも判らないだろうし、『こんな子供が?』と思われてるだろうし・・・あぁぁ、なんかものすごくハズかった。
・・・つまり、俺達姉弟も鐘を鳴らした。




