3-8 江の島に行った日(その3)~家出するつもり~
夜9時前、姉ちゃんが俺の部屋をノックした。
「翔ちゃん、いい?」
「いいよ!」
姉ちゃんが思い詰めた様子で入って来て、部屋の真ん中に座った。
俺は机に向かって習ったばかりの消去法で連立方程式の問題を解いていて、右耳にイヤホンをしてスマホでアニソンを聴いていたのだが、それを止めて姉ちゃんの方を向いた。
「なんか、・・・あったん・・だね。」
「うん。」
「俺に解決できること?」
姉ちゃんは泣き出しそうだ。
「俺のせい?」
「違う。・・・サッちゃんが(江の島に)行けないって。」
「どうして?」
「お父さんに反対されて。」
「・・・そっか。」
「どうしよう、私達だけ楽しむなんてできない。」
「サッちゃんは行きたいのかなあ?」
「当たり前でしょ! 水着も買ったんだよ!」
「じゃあ、親の反対を無視して行かないかなあ?」
「そんなのだめよ。」
「だよな。」
俺は椅子から立ち上がってベッドに座りなおした。姉ちゃんは俺を見上げている。
「私が言い出したことで、サッちゃんが悲しい思いをしているの。」
姉ちゃんの左頬を涙が一筋伝った。姉ちゃんは本当に優しい。何とかしたいと思った。
「明日は火曜日だよね。」
「うん。」
「サッちゃんのお父さん何時ごろ帰ってくるんだろう?」
「どうして?」
「俺が頼んでも駄目かなあ?」
「男子が行ったら余計ダメじゃない?」
それもそうかも知れないが、俺にできる事もあるはずだ。
「なあ姉ちゃん。なんで俺達オフに遊びに行くの?」
「オフじゃないと遊べないし、楽しいから。みんなと居ると。」
「だよね。姉ちゃんの言う通りだ。」
「サッちゃんも一緒じゃないと楽しくないよ。」
「姉ちゃん、俺に考えがある。ダメ元で頼んでみてもいいだろ?」
「うん、わかった。サッちゃんにメールするね。」
「ああ、頼む。」
姉ちゃんはサチにメールした。しばらく返事を待っていると、電話がかかって来た。
「もしもし、サッちゃん、どう?」
「・・・・・・」(サチの声は聞こえない。)
「翔ちゃんがサッちゃんのお父さんと話したいって。」
「・・・・・・」
「うん。ちょっと待ってね。翔ちゃんに代わる。」
俺はベッドから腰を浮かせて姉ちゃんの携帯を受け取った。
「もしもし。というわけで、明日行っていいか?」
「お父さん午前中居るけど、無理よ。きっと何も聞いてくれない。」
「お母さんはなんて言ってる?」
「お母さんはそうでもないけど、はっきり賛成してくれないの。」
「サッちゃんはどうしたいんだ?」
「行きたい。・・・けど、行けない。」
「俺がお父さんと話をしたい。ダメ元じゃないか。OK出たら来るよね。」
「もちろん。」
「じゃあ明日行くから。」
「ありがとう。ごめんね。」
「姉ちゃんに代わるから、時間決めてくれ。」
「わかった。」
俺は携帯を姉ちゃんに返した。サチは母親に明日俺達が行く事を言って、時間を決めてくれることになった。
姉ちゃんは電話を切って立ち上がった。それに合わせて俺も立った。机に戻るためだ。すると、
「ねえ、翔ちゃん。」
「なに?」
「大きくなったね。翔ちゃん。」
「ああ、この前保健室で測ったら165センチだった。」
「へえー!・・・いつの間にか追い越されちゃった。」
「姉ちゃんは?」
「うん。162センチよ。」
「女子の中じゃあ大きいよね。」
「翔ちゃんも、もう一番前じゃないよね。」
「うん。真ん中より少し後ろかな。」
「すごいね。どんどん大きくなってる。」
「牛乳いっぱい飲んでるし。」
「翔ちゃんが大きくなってるのは、身長だけじゃない気がする。」
「えっ!? す、すごい発言。・・・風呂覗いた?」
「エッ!? な、何言うの! ばか!」
「ちがった?」
「もう、すけべ! 知らない!」
姉ちゃんはそう言って部屋を出て行った。姉ちゃんは何を想像したんだろう?
『象さん』?・・・まさかね。そんな事より、連立方程式、あと5問解くのだ。
・・・・・
10時過ぎ玄関でおやじが帰って来た音がした。綾香母さんの声もする。俺は部屋を出てリビングに行った。
「おかえり。」
「おお、ただいま。勉強してたのか?」
「ああ。今のうちに宿題やっとかないとね。」
「ほほう。いい心掛けだ。」
「なあ、親父、母さん。明々後日俺達テニス部の2年で江の島に行くんだけど、いいよね。」
「試合か?」と親父。
「いや、遊びに!」
「何人で?」
「たぶん、男2人、女5人」
「おお、そうか。それは大変だ。」
「それは、OKって事か?」
「反対したら止められるのか?」
「止められない。」
「ハルちゃんも行くんだろ?」
「うん」
「だったら、お前がちゃんとエスコートしろ。」
「へいへい。」
そこへ姉ちゃんが入って来て。
「お父さん、明々後日の木曜・・・」
「ああ、今翔太から聞いた。楽しんで来なさい。」
「ありがとうお父さん。」
「母さんもいいでしょ?」
「いいわよ! 翔ちゃん、大変そうだけどよろしくね。」
「お任せください。」
「はい、お茶。」
俺達は綾香母さんが入れてくれたお茶を飲んで2階に上がった。2階の廊下で姉ちゃんが、
「私たちの親っていいね。」
「まあな。でもこれが普通じゃね?」
「そうかもね。でも、もう少し心配してくれても・・・」
「姉ちゃんは心配なのか?俺達のこと。」
「うん。ちょっとね。ウフッ。」
「あれれ? 俺、信用ねえの?」
「信用してるよ! 安心して。」
「それは、どうもありがとう。」
「おやすみ。明日よろしくね。」
「ああ、おやすみ。」
・・・・・
翌朝は快晴だった。9時には30度を超える暑さだ。
玉川上水の蝉時雨をシャワーの様に浴びながら、姉ちゃんと俺はサチの家の前に来た。
呼び鈴を押すとサチが迎えに出てきた。右の生垣越しに家の中に人の気配がした。
「おはようサッちゃん」
「おはようハルちゃん、翔ちゃん」
サチは小声で
「入って。お父さんけっこう緊張して待ってるよ。」
俺達は玄関横の応接間に通された。
そこに細身のお父さんが立っていた。
「初めまして、中西翔太と言います。」
「佐知子の父親です。いつも佐知子がお世話になっています。」
意外と優しい声だ。
「いえ、こちらこそお世話になっています。」
「佐知子に聞きましたが、2年生だけで江の島に行くそうですね。」
「はい。そのことで佐知子さんのお父さんにたいせつなお願いがあって来ました。」
「お話をうかがう前に、そちらの方は?」
「初めまして。中西春香といいます。翔太の姉です。」
「お姉さんですか。3年生も行くのですか?」
「いえ、私たち姉弟は同学年なんです。」
「同学年?」
「はい。姉は4月生まれで、僕は3月で早生れなんです。」
最近俺達姉弟はこの説明を普通にしている。正確ではないが、嘘ではないし、たいていの大人はこの説明で納得してくれる。変な詮索が続かないので、なかなかいい説明だと思っている。
「そうですか。どうぞ掛けてください。」
姉ちゃんと俺はソファーに腰を下ろした。エアコンが利いていて、涼しいのに気が付いた。
そこへサチと母親がケーキとコーヒーを運んできた。それらをサチがローテーブルに置き、姉ちゃんが配った。配り終わると、サチのお母さんが、
「佐知子がいつもお世話になっています。どうぞおあがりください。」
「ありがとうございます。遠慮なく頂きます。」
お母さんはお父さんの隣に、サチは小さい椅子に座った。俺の正面がお父さんだ。
俺達はスティックの砂糖をコーヒーに入れて混ぜた。
サチのお父さんは一口コーヒーを飲んで、カップをゆっくり置いた。それに合わせて、俺が、
「あの・・・」
と言うのと同時にお父さんが言った。
「中西君、さっき、『たいせつなお願いがある』と言いましたね。どういう事ですか?」
「はい。僕たちは男女は別々なのですが、同じテニス部で練習しています。」
「それは知ってます。」
「僕たちが毎日練習するのは、そもそも、テニスが好きで、上手く、強くなりたいからです。みんな同じ気持ちだと思います。」
「それと江の島とどういう関係があるのかな?」
「はい。練習して強くなると、試合に勝つのが目標になるのですが、全員が試合に出ることはできません。出られるのは、全学年で男女それぞれ10人です。」
「それで?」
「10人に選ばれるために、毎日競争しているようなもので、喧嘩もしますし、ついつい意地悪な事もしてしまいます。でもそれはお互い様です。ライバルですから。」
「すまない。君が言っている事と江の島との関係がまだわからないのだが?」
「すみません。もう少し聞いてください。」
「じゃあ続けてください。」
「ありがとうございます。それで、こういった日頃のチョットしたことが棘が刺さるように気持ちに少しずつ溜まって、イライラやモヤモヤになります。放っておくと、いつか互いに嫌いになって、喧嘩になります。ですから、その棘を、練習が無い時に溶かしたり癒したりするために、いつもと違った、特別な場所で、仲良くできるイベントを計画します。」
「なるほど、それが今回は江の島というわけですか。」
「はい、そうです。江の島で海水浴をして、はじけて、互いの気持ちが通えばいいと思います。」
「今の話は顧問の先生に言われたのですか?」
「いいえ。僕の考えです。僕等の学年は男女共にみんな結構仲が良いので、その関係を壊したくないと思って、オフにはできるだそうしています。ですから、佐知子さんにもぜひ参加してもらいたいと思います。・・・許していただけませんか?」
サチのお父さんとお母さんは顔を見合わせて何か目配せをしている。きっと、これからサチを行かせない理由をどどっと言われるんだろうなと覚悟した。
「中西君。私は佐知子が心配で反対しました。子供だけで、ただ遊びたいだけで、不必要な冒険心で遠くに出かけるのに巻き込まれているのだと思っていました。」
「・・・・・」
「でも、中西君は、私が君の年頃の頃よりずっと大人で驚きました。こんなにしっかりした友達が佐知子に居ることが嬉しくなりました。」
「いえ、僕はまだ子供です。みんなに支えてもらってないと何もできません。」
「謙遜もうまいね。もう立派な大人だ。男の子だね。佐知子にも君のように筋道を立てて説明できるようになってもらいたいです。・・・わかりました。佐知子も参加させます。よろしくお願いします。」
「は、はい。ありがとうございます。」
俺はこの時嬉しくてとびっきりの笑顔になってたと思う。もちろんサチも嬉しそうだった。
「おとうさん。ありがとう。許してくれなかったら家出するつもりだったよ。」
「おいおい。それは過激すぎる。」
「おかあさんもいいよね?」
「うん、もちろんいいよ!」
俺達は少し冷めたコヒーでケーキを食べた。
サチのお父さんは物わかりが良い人だった。怖い人でなくて良かった。
俺は、自分でもちょっとキモイ台詞を連発したと少し自己嫌悪になった。
だけど、姉ちゃんはなんか感動したと言ってくれた。




