3-5 庭球部に入部した日(その3)~入部届出すよ~
9時半過ぎ、親父と姉ちゃんが帰ってきた。母さんと俺は玄関で2人を迎えた。
親父が姉ちゃんを負ぶって入って来た。姉ちゃんの左足首は包帯でぐるぐる巻きになっている。
「お帰り姉ちゃん。」
「まあ、すごい事になったわね。」
「ごめんなさい。」
親父は姉ちゃんを玄関の上り口に降ろして、
「翔太、ハルちゃんの靴と鞄が車の中にあるから。」
「わかった。取ってくる。」
「翔太、これ! ロックしてきてくれ!」
「ああ。」
俺は車のリモコンキーを受け取って胸ポケットに入れ、車庫に行き、姉ちゃんの靴と鞄を後部座席から取り出した。靴を一度下に置いてドアを閉めて、ポケットからリモコンキーを取り出して、鍵ボタンを押した。いつもの『カシャ』というドアロックがかかる音がした。
俺が戻るとみんなダイニングに座っていた。彩香はリビングでタオルケットに包って寝ている。俺もダイニングの席に座って、そして、ようやく、夕食になった。
「今夜はもう遅いから、軽めのオムライスとセロリのコンソメスープよ!」
「ああ、それで十分だな!」
「姉ちゃん、大丈夫?」
「うん、痛くなくなったよ!」
「あぁ良かった。・・・そうだ、これ。」
俺は胸ポケットからリモコンキーを取り出して親父に返した。
親父はそれを受け取ってキーケースに仕舞いながら、
「レントゲンを撮って、骨には異常無いそうだ。」
「ほんと!それは良かった!・・・ものすごく腫れてたから心配してたんだ。」
「良かったわ。ひどい捻挫だったのね。」
「明日は念のため休んで様子を見た方が良いな。」
「そうね。仕方ないわね。」
姉ちゃんは包帯で太くなった左足を少し投げ出すように座って、うつむき加減で食べている。
「姉ちゃんどうしたの?いつに無く静かじゃん!」
「・・・凹んでるの。」
「まあ、そう気にすんなって。俺の時より軽いもんさ!」
「翔太、今のはフォローになってないぞ!」
「ごめん。」
「でも、ほんと、大事にならなくて良かったわ!」
「ごめんなさい。」
「やっぱり、こういう時のために、2人には携帯を持たせた方が良いかな?」
「そうね。」
「ほんと? やったー! 俺、スマホが良い。」
「今度見に行くか!」
「うん。」
俺はその時ようやく順平にもらった入部届の事を思い出した。
「親父、明日入部届を出したいんで、後で保護者同意の印鑑を押してくれ。」
「何部に入るんだ?」
「庭球部。」
「なんだ、ハルちゃんと同じか。」
「うん。ただし、男子庭球部だけどね。」
「そりゃあ、あたり前だろ!」
俺は受け狙いで姉ちゃんを見て、
「マネージャーなら女子庭球部に入れるかな?」
「そんなの無いわよ。バカね!」
「あ、姉ちゃんの元気が戻った。」
「もう、翔ちゃんったら。」
綾香母さんもにっこりして嬉しそうだ。
「母さん、もう一杯お茶。」
「あ、私にも!」
「はいはい。」
こうして、遅い夕食を済ませた。
俺は親父のすぐ後に風呂に入った。姉ちゃんは左足をビニール袋で包んで、母さんと一緒に入った。俺は2階に上がって宿題と予習の仕上げをした。姉ちゃんが風呂から出て暫くしてからだと思うが、インターホンで親父に呼ばれてリビングに行った。親父はソファーでお茶を飲んでいる。母さんは彩香の横に座って彩香を撫ででいる。姉ちゃんはいつもの白にピンクのドット柄のパジャマを着てダイニングの椅子に座っている。
「翔太、ハルちゃんを支えて部屋に連れて行ってあげなさい。」
「親父が連れてってあげればいいじゃん。」
「痛みは無いみたいだけど、階段は心配だからな。」
「えっと、答になってない気がするんだけど。」
「いいよ、わたし、1人で大丈夫だから。」
「ぜんぜん。喜んでお連れいたしますです。」
母さんは彩香が寝ているのを確認して、笑顔でキッチンに移動しながら、
「ありがとね。翔ちゃん。・・・上がる前にお茶でもどう?」
「あ、少し。」
俺は姉ちゃんの隣に座って母さんが入れてくれたお茶を飲みながら、
「姉ちゃんもう全然痛くないの?」
「うん。痛み止めを飲んでるからかも。でも、足首を無理に動かそうとするとまだ痛いわ。」
「薬が切れたら痛くなるかもね。」
「そうね。」
「その時にはまた飲むんだろ?」
「うん。」
「じゃあ、言ってくれれば水取に来るよ。」
「ありがとう。でもたぶんもう大丈夫よ。」
俺はお茶を飲みほして、
「じゃあ、そろそろ上がる?」
「うん。それじゃぁ、おやすみなさい父さん母さん。」
「おやすみ、母さん、親父」
「おやすみなさい。」
「おう、おやすみ!」
姉ちゃんと俺は立ち上がって2階に向かった。親父が言うように階段が難関だと思ったので、姉ちゃんの一段下を上って姉ちゃんが転びそうになったら支えるつもりだった。しかし、姉ちゃんは手摺に掴まりながら結構普通に上がった。支える程の事は無かった。俺の事故の時もそうだったが、痛みさえ取れれば結構普通に動けるものだ。
俺は姉ちゃんの部屋の引き戸を開けて姉ちゃんを先に通し、ベッドに座るのを見届けてから部屋の真ん中のカーペットに座った。そこから見える机の時計はもう11時半を過ぎていた。
「ありがとう、翔ちゃん。」
「なんか、もう普通に歩けるね。」
「うん。わりとね。」
「だけど、足がそれじゃあ、風呂に入るのが面倒だね。」
「そうなの。ビニール袋で包んでからでないと入れないわ。」
「包帯濡れなかった?」
「大丈夫だった。なるべく水が掛からない様にしたから。」
「じゃあ、浸からなかったの?」
「うん。仕方ないね。」
「ふぅーん・・・」
「こら、なんか妄想してない?」
「し、してまへん。」
「怪しいわ!・・・でも、わたし、久しぶりにお母さんとお風呂に入ったわ!」
「そう言えば、俺はずっと一人で入ってる。」
「翔ちゃんが一緒に入るって・・・お父さんと?」
「当たり前だろ!・・・てか、明日は俺がご一緒しましょうか?」
「あら、それでも良いわよ!」
「えっ!冗談ですから!」
「ばかね。」
「そうだ。さっき姉ちゃんが風呂に入っている間に作ったものがあるから、取って来る。」
「なあに?」
「ちょっとね。」
そう言って俺は一度自分の部屋に戻って、そして、さっき作ったノートを持って姉ちゃんの部屋に行った。
「これ。ノート。」
「なあに?」
「明日の英語の宿題と新しい所の単語リスト。まあ、休むんだから必要ないと思うけど。」
「ううん。ありがとう。助かるわ!」
「それに、クラス違うから同じかどうか判んないけど。」
姉ちゃんは渡したルーズリーフに目を通して、
「うん。ここだわ。ありがとう。・・・でも、一か所スペルが間違ってるよ!」
「え、どこ?」
「12は、twellvじゃなくて、twelveよ!」
「そっか、ありがとう。じゃ、おやすみ。」
俺は自分の部屋に戻ろうとしたが、呼び止められた。
「あっ、待って!・・・もう少し居て!」
「どうしたの?」
「ねえ、ここに座って。」
俺は指示された通り姉ちゃんの横に座った。
「・・・あのね、今日は翔ちゃんにいっぱい『ありがとう』って言いたいの。」
「何言ってんの! 俺、姉ちゃんの役にたてて嬉しいよ。」
「私ね、石段に座って足をさすっていた時、たぶん、翔ちゃんが来てくれると思った。」
「なんで?」
「なんとなくよ!・・・『翔ちゃん来て!ここに居るから!はやく来て、ここに居るよ』って心の中で呼んでた。」
「へえー、・・・ごめん。ぜんぜん聴こえなかった。」
「ううん。聴こえてたんだと思う。」
「なんで?」
「だって、あんな暗い所で私を見付けてくれたんだもの。」
「いや、誰も居ないはずの石段で黒い人影が動いたんで、ビックリしたんだよ。」
「幽霊だと思ったの?」
「それが、そうは思わなかったんだ。不思議だね。それより、何してんだろうって思った。」
「やっぱり聴こえてたんだわ・・・私の声。」
「あの時、姉ちゃん少し逃げたよね。」
「自転車のライトしか見えなくて、怖い人じゃないかと思ったの。」
「そっか。」
「でも、翔ちゃんだった。嬉しかったわ。あんなにホッとした事これまで無かったわ。」
「俺も。姉ちゃんじゃ無かったらどうしようかと思った。」
「見つけてくれてありがとう、翔ちゃん。」
「とにかく良かった。・・・なんか俺達、別行動すると怪我する運命かも。」
「そんな事無いと思うけど、・・・でもそうだよね。」
「俺、庭球部入るから、また一緒に帰れるね。」
「そうね。」
「携帯も買ってもらえるし、姉ちゃんのおかげ・・・かな?」
「まあね。」
「あれ?、さっきと態度ちがくね?」
「だって、翔ちゃんだもの。」
「・・・ありがとう。俺には遠慮なしって事で嬉しいよ。」
「うん。」
ちょっと沈黙の間があった。
「わたし、重かったでしょ!」
「そんな事考えなかった。ただ、転んだり落としたりしない様に気を付けたよ。」
「最初、ちょっとよろけたよね。」
「わかった?」
「うん。ちょっと怖かった。」
「えへへ!」
「翔ちゃんに何かお礼しないとね。」
「いいよ、この前さんざんお世話になったし、だいいち姉弟なんだからサ。」
「でも、嬉しかったんだもの。」
また少し間があった。
「・・・そろそろ戻るよ。もう遅いし。」
「ねえ、もうちょっとこっち寄って!」
「ぅ、うん。」
俺は腰を少し浮かせて姉ちゃんのすぐ横に座りなおした。何が起こるかは、まあなんとなく判っていた。予想通り、姉ちゃんは俺をハグして、
「ありがとう、翔ちゃん。」って言った。
姉ちゃんと俺は姉ちゃんの髪から拡がるコンディショナーの甘い香りに包まれた。
「どういたしまして。これが一番嬉しいお礼だ。」
「こんな事で良いんなら、何度でもお礼してあげるわ。」
「うん、そうして貰えるように頑張るよ、俺。」
姉ちゃんはもう一度、今度は少し強く抱きしめた。それから、俺を放して、
「だけど不思議ね、このベッド、彩ちゃんの匂いがするの。」
「あ、ああ、それは不思議だね。」
「お母さんが掃除かなんかで連れて来たのかもね。」
「そ、そうだね。」
「あら?翔ちゃん・・・何か知ってるみたい。」
姉ちゃんには隠し事は無理だ。白状するしかない。
「今日、彩香を抱っこしたら、どうしても姉ちゃんの部屋に入りたいって言うから。」
「彩ちゃんは、まだ喋らないと思うけど?」
「のけぞって。」
「そっか。わかったわ。私が抱っこしてもそうだから。」
「内緒のつもりだったけど、やっぱ、姉ちゃんにはかなわないよ。」
「そうよ。」
姉ちゃんは得意気だ。
「俺、明日、入部届出すよ。」
「うん。」
「じゃあ、おやすみ。」
「うん、おやすみ。」
俺は自分の部屋に戻って、電気を消してすぐにベットに転がり込んだ。姉ちゃんの暖かい感覚が残っている間に眠りたかったからだと思う。そして翌日の昼休み、俺は庭球部顧問の田崎先生に入部届を提出した。姉ちゃんがひどい捻挫でしばらく休むかも知れないって事も忘れずに伝えた。




