1-2 姉ちゃんと出会った日
親の『大人の』事情で俺達に微妙な関係が与えられるずっと前から、実は、姉ちゃんと俺とは仲良しだった。その頃の出来事はもう薄っすらとしか覚えてない。というか、むしろ忘れたいと思っている。でも、正直言うと、鮮明に蘇る記憶の断片も結構多い。中でも、姉ちゃんとの出会いはかなりはっきり思い出せる。そして、その後の俺達の関係を分かってもらうのに大事なことなので、その時の事をしばらく我慢して聞いて欲しい。
小さい頃も、俺は自分を『僕』と言っていたと思う。近所の井の頭線の切り通しの土手に赤紫の紫陽花が咲いていたから、たぶん六月頃のある日の事だ。僕はベッドに寝そべっていた。もう眠たかった。親父が僕のベッドに斜めに座って、僕の頭をなでていたと思う。そしてこう言った。
「翔太、この前から言ってるように、明日から保育園に行くけどいいな。」
「保育園? 幼稚園じゃあないの?」
「ああ、幼稚園じゃない。お前くらいの小さい子がたくさん居て、お母さんくらいの保母さんっていうお姉さん達が遊んでくれる楽しい所だ。」
「ふうーん、『なのかのおねえさん』じゃあないの?」
『なのかのおねえさん』って云うのは、母さんが居なくなってから、時々来てくれるお手伝いさんで、中野さんのことだ。当時は『ナカノさん』って言えなかった。中野さんは僕を可愛がってくれた。時々母さんと間違えるくらいだった。
「違うよ、保母さん・・・いや、先生だ。」
「せんせえ? ふうーん」
僕はそこで眠ってしまったんだと思う。それ以降が思い出せない。
次の日の朝は小雨だったと思う。僕は半透明の雨合羽を着せられて青いゴム長を履いていた。そして、保育園というところに連れて行かれた。大通りから少し入ったところに水色の塗装に錆が浮いている鉄格子の扉の門があって、扉は開いていて、門の中にたくさん子供達が連れて来られていて、キャッキャと騒がしかった。びちゃびちゃと泥水を撥ねて走っている奴もいたし泣いている奴もいた。母さんに連れられて幼稚園に行っていた頃もそうだったが、こいつらは僕には苦手な連中だと直感した。その中に入るのがなんか嫌だった。
「おはようございます。中西さんですね。担任の早川です。」
母さんより少し若くて、『おばさん』って言いにくい位の人に見えた。
「あっ、おはようございます。」
親父は僕の肩をつかんで早川さんの方に押し出すように向け、
「息子の翔太です。よろしくお願いします。」
早川さんは膝を揃えて曲げてしゃがみ、にこやかに僕と目線を合わせて、
「翔太君、おはよう。今日から一緒に遊ぼうね」
僕はまだ何がどうしたのか判らなくて、親父にこの状況の解説を求めた。
「だあれ?」
親父はどう言おうか一瞬戸惑ったような表情をした後、
「先生だよ」
「せんせえ?」
僕は、せんせえという名前の女の人だと思った。せんせえはにっこり笑って、
「そうだよー いい子だね、翔太君。」
「おはよう。・・・せんせえお姉さん。」
『せんせえ』以降は声になってなかったと思う。
僕は長靴を乱暴に脱いで板張りの廊下に上り、雨合羽を脱いで親父に渡した。親父も廊下に上がって雨合羽をたたみながら『せんせえ』と何か話している。そこへ後に母さんになる綾香小母さんが大きな女の子を連れて来た。大きいというのは僕の印象で、たぶんとっさに自分と比べたんだと思う。
「おはようございます。」
『せんせえ』は綾香小母さんに振り向き、
「おはようございます。おはよう春香ちゃん。」
それから綾香小母さんは親父を見て、
「あら、中西君じゃない? おはよう。」
親父は少し驚いた様子だ。
この後に続く数行の親達の会話は小さい僕がとても記憶できる内容ではない。今の僕が想像で語っているところがある。ともかく、二人の会話が始まったので、『せんせえ』は職員室に入って行った。
「おお、上原、おはよう。久しぶり。春樹の葬式以来だね。」
「そうね。あの時はありがとう。」
「いや、僕は何もしてあげられなかった。」
一瞬バツが悪い沈黙があって、それから綾香小母さんはやさしく微笑んで僕を見て、
「翔太君?中西君にそっくり。賢そう。しかもかわいい。さすが翔子の子ね・・・あ、ごめん。」
「いや、いいんだ。・・・その娘が春香ちゃんかい?」
「ええ、かわいいでしょ。私の宝物よ!」
「うん、かわいいね。宝物な訳だ!」
「そうよ、あの人もそうだった。」
「・・・もう大丈夫なのか?」
「うん・・・。」
「そっか」
綾香小母さんは抱きついているその大きな女の子の頭をなでながら、
「春香、翔太君だよ。お母さんの親友の・・・ってわかんないか。春香の方がお姉ちゃんだから、仲良くしてあげなさいね。」
女の子は綾香小母さんの腰に手を回したまま親父を見上げて、
「おはようございます。おじさん」
親父はなんか嬉しそうに、笑みを浮かべて、
「あ、おはよう。いい子だね。もうちゃんと挨拶できるんだね。」
「・・・・・」
女の子は恐らくどう答えていいか分からず、恥ずかしそうに母親の後ろに隠れて首をかしげた。
すると親父は、そこから2メートルほど離れたところに放置されてどうしていいか困っている僕に向かって、
「翔太、おはようは?」
僕は内心ホッとして、
「おはよう、おばちゃん」
「おはよう翔太君。いい子ね。」
綾香小母さんはほんとに優しそうな人だと思った。すると、母親の腰の辺りに半分隠れながら、その大きい女の子が僕に話しかけた。
「わたし春香。翔太君?・・・だったら『しょうちゃん』だよね?」
いきなりで少し困った。たぶんそれまで母さん以外にそう呼ばれたことなんか無かったような気がする。親父や母さんの田舎に行った時も何故だかみんな「翔太くん」って言う。母さんに『しょうちゃん』って言われると、全身がゆったりする感覚があった。だから、このでかい女の子にそう言われたのがなぜか少し嫌な気がした。・・・でも、その時の僕は彼女の提案をきっぱり断る理由も勇気も持ち合わせていなかった。
「いいけど」
僕は少し語尾を上げて同意せざるを得なかった。
これが姉ちゃんと出会って言葉を交わした最初だった。
早川さんが職員室から出てきて、
「翔太君は早生れの年長さんですから、一番手前の部屋です。」
と親父に伝えると、綾香小母さんが嬉しそうに、
「あら。春香と同じね。」
次に僕がとった行動はその場から逃げだすことだった。だけど、すかさずその大きな女の子が僕を捕まえて離さなかった。
「しょうちゃんそっちは違うよ! わたしが一緒に行ったげる。」
と言うなり僕の左手首をつかんで一番手前の部屋へ引っ張り込んだ。そして大声で、
「みんなー、今日から『しょうちゃん』が一緒だよー」
その声に驚いたのか、そこに居た6人くらいの子供達がこっちを見た。
その中の一人が高野順平だった。
「それハルちゃんの親戚?」
「ちがうよ」
「じゃあ、何で知ってんの?」
「わかんない。お母さんが知ってるおじさんとこの子。」
「へえー」
「しょうちゃんだよ!」
彼はこれで全て納得した。それ以上の情報は必要なかった。
「しょうちゃん。先生が来るまでご本読んでるんだよー」
この調子良さそうなやつも僕より大きい。しかも『しょうちゃん』って呼ばれるのかと思うと、なんか悔しい気がした。
ともかく、どうやら『ご本を読んで待ってる』というのが保育園の決まりらしい。僕は何の疑問も持たずに棚の絵本を取り出して棚を背にしてしゃがんで表紙をめくった。赤いかぶと白いかぶと数人の人か妖精かわからない人間みたいなのと、小動物が描かれていたように思う。僕は字がよく読めなかったから、パラパラとページをめくってすぐに終わりになった。他にする事が無かったし、綺麗な絵だったので、今度はページを元に戻って見たりした。すると、順平が横に来て、
「みんな飛ぶんだよ」
と言った。
「なんで?」
「なんでも。そういう本なんだ。」
「へえー」
「小さい子の本だからかなあ。」
そう言うと、順平は僕の本をひったくって、開いたまま高く差し上げて、
「飛んだー」
とまた言った。
「なにするの!」
と言って立ち上がった時、窓越しに親父が綾香小母さんと一緒に門を出て行くのが見えた。そして、水色の格子の扉が閉まろうとしていた。僕はものすごく不安になって後を追おうとした。が、『せんせえ』が入ってきて、捕まった。
「これからみんなでお歌を歌いましょうね。」
僕はすごく焦っていた。もう親父の姿は見えなくなっていた。
そのとき大きな女の子が後ろから僕の手を取って、
「しょうちゃん、大丈夫だよ」
僕の目には涙がいっぱい溜っていたが、その子のおかげか、流れ出すことはなかった。
「順平ちゃん。その本、しょうちゃんに返して!」
「教えてあげてたんだよ」
「なにを?」
「飛ぶってこと」
と言って、順平は絵本を返してくれた。
僕が泣きそうだったのは順平に絵本を取られたからじゃない。でも、理由は良く判らないが、その瞬間に僕の不安が消えた。『ハルちゃん』が僕の暗黙の保護者になった瞬間だった。電子ピアノの音が流れてお歌が始まった。
僕がその大きな女の子を『ハルちゃん』と言えるようになったのはその日の終わり頃になってからだ。それまでは何も言えずに彼女のスカートや袖を摘まむことしかできなかった。すると彼女はきまって、
「なあに、しょうちゃん」って言った。
ハルちゃんは僕より2回りくらい大きくて、活発で、瞳が大きくて、まつ毛が長くて、大人から見れば可愛いのだろうと思うけど、僕には怪獣のように強い見方だった。たぶん、ハルちゃんはこの集団のボス犬的な存在だったのだと思う。順平に限らず、皆がハルちゃんに逆らうのをその後見たことが無い。
あの頃を思い出せば思い出す程、僕は本当に情けない子供だった。力が無くて、へたれで、なのに男のプライドは普通にあって、だから嫌なのに断れず、やりたいのにできず、言いたいのに言えず、いつももやもやして、泣きたいのに泣けず、会話なんてどうしていいかわからないし、いつも胸の真ん中が痛くて、・・・何をどうすれば・・・自分で自分がわからない。忘れてしまいたい。だから、ハルちゃんが僕の暗黙の保護者になってくれて本当に救われた。心が折れずにすんだ。だからハルちゃんは恩人なんだ。