3-2 痛い目に遭った日(その2)~おかえり~
『ピッ・ピッ・ピッ』と例の電子音が聞こえる。
俺の体と左腕にはまた電極が貼られている。今度はチューブは無い。天井の蛍光灯から右に視線を移動すると窓から見える外の気配は夕方になっていた。そして、パイプ椅子に座ってベットに手を組んで伏せるようにして俺を見つめている姉ちゃんと目線が重なった。
「あ、翔ちゃん気が付いた!」
「姉ちゃん、俺、気を失ったの?」
「うん。声が出たと思ったら急に倒れたんでびっくりしたわ。」
「そうなんだ。急に気持ち悪くなって、力が抜けたみたくなって、」
「大丈夫?」
「うん、今は何ともない。」
「あれ? 翔ちゃん声出てるよね。」
「そうだね。」
「じゃあ、先生に知らせないと。」
「うん。」
俺はナースコールを押した。
「どうしました?」
「中西です。目が覚めました。」
「あら、声も出たんですね。」
「はい。」
まもなく先生と看護師さんが入ってきた。
「声が出ましたか!」
「はい。」
「そうですか。よかった。念のために、名前と生年月日を言ってください。」
「はい。中西翔太、1996年3月25日生まれです。」
「それ昭和何年だっけ?」
「えっ??・・・平成8年ですけど。」
「そうか。中学生は平成生まれなんだ。・・・そうなんだ。」
看護師さんが突っ込みを入れた。
「先生、しっかりしてください。ベットの名札にも書いてありますから。それに、大学生ももう平成生まれですよ!」
「そうでしたね。なんか、今急に年を取った気がします。・・・それでは、これから脳波の検査をしますから、検査室に来てください。」
「やっぱり、頭に異常があるんですか?」と俺。
「これからそれを調べるんです。」
それから毎日、脳波やレントゲンやCTやMRIや採血などの検査をした。結局、異常は見つからなかったそうだ。この検査のために丸4日ほど入院した。母さんと姉ちゃんは毎日病室に来てくれたし、親父も夜には毎日来てくれた。
・・・・・
退院したのは土曜日の午後だった。親父が車で迎えに来た。
桃林病院の玄関横の車回しには担当看護師の吉野さんとその同僚が数人見送りに来てくれていた。そして、吉野さん達の前に大きな花束を持った見知らぬ小父さんが居た。
「中西君、覚えてないと思いますが、私は山本と言います。君を撥ねたのを悔いています。痛かったでしょ?」
「・・・?・・・」
「でも、こうして元気に退院してくれて本当によかった。」
俺はどう反応していいか解らなかった。でも、この小父さんは悪い人には見えなかった。
なので、今の状況の事実を言った。
「今はもう痛くなくて、大丈夫ですから。」
「ありがとう。ささやかですがこれは私からのお祝いです。」
小父さんはそう言って持っていた大きな花束をくれた。
「あ、ありがとうございます。」
俺は花の値段はよく知らない。だが、その花束はかなり大きくて、ちっとも『ささやか』なものでは無かったと思う。親父が車から降りて車の屋根越しに会釈した。小父さんもそれに応えるように会釈した。俺は花束を持ったまま看護師さん達に『お世話になりました』って軽くお礼言って後ろの座席に乗った。俺の後から俺のパジャマや着替や洗面用具一式を入れたトートバックを持って姉ちゃんが乗った。俺が持つと言ったが、病人扱いで持たせてくれなかった。
姉ちゃんはパワーウインドを下して、
「お世話になりました。有難うございました。」
すると、看護師の吉野さんが、
「翔太君は我慢強くて手が掛からない子だから、逆に良く観察して面倒見てあげてね。」
「はい。わかりました。そうします。」
俺もう全然大丈夫だから観察なんか必要ないし、だいいち俺の取説的な事を勝手に決めないで欲しいと思った。吉野さんには、姉ちゃんは俺よりうんと年上の大人に見えるらしい。それが今回の入院の原因の一端なのだが、たぶん説明しても解ってもらえないだろう。
親父がまた車に乗ってシートベルトをした。車だから、家までは10分もかからない距離だ。病院を出て間もなく右折して東八道路に入る。
「翔太、今日と明日は家の周りを散歩するように言われたから、帰って少し休んだら散歩な。」
「うん。わかってる。走るなって言われた。」
「わたしが付き合うから!」
「いや、1人で大丈夫だから。」
「だめ! 看護師さんと約束したから。」
俺は深い溜息を一つして、
「・・・じゃあ、・・・お願いします。」
「はい。お願いされました!」
たぶん姉ちゃんには、親父のニヤリと笑った目と額部分がルームミラー越しに見えたと思う。
家に到着すると、玄関に彩香を右腕で抱えた綾香母さんが待っていた。彩香も機嫌良さそうにしている。
「退院おめでとう、翔ちゃん。」
「ありがとう母さん。」
俺が靴を脱いで上がると、綾香母さんは俺を左腕で抱きしめた。綾香母さんの体に押し付けられた俺の体の左側と左側頭部は少し痛かったがそれ以上に気持ち良かった。安心感が俺の全身を包んだ。俺のネットで覆われた頭を彩香が『アーウー』と言いながら、上機嫌でペタペタと叩いた。俺は彩香が『よしよし』して撫でてくれてるように感じた。
「良かった。翔ちゃんが何ともなくて。」
「ごめんなさい。これからは気を付けます。」
「そうね。そうして頂戴。」
姉ちゃんはその様子を大きな花束とトートバックを持って嬉しそうに見ていた。綾香母さんが俺を放すと、
「これは玄関で良いよね。」
姉ちゃんはそう言いながら花束を下駄箱の横に置いて、トートバックを母さんに渡した。
「その花は誰に頂いたの?」
「山本っていう、・・・たぶん犯人。」
「春香、山本さんは犯人じゃなくて、翔ちゃんを撥ねたタクシーの運転手さんね。」
「うん。」
そこへ親父が入って来た。
「山本さんが来るなんて思ってなかったけど、さすがプロの運転手だ。しっかり保険に入っているのもそうだけど、隅々まで気遣いがすごい。」
俺が入院している間に山本さんと親父との間でなんか話し合いがあったようだ。俺は俺のチッポケなプライドみたいな物でみんなに迷惑を掛けたのだと知って深く反省した。
「さあ、みんな上がって!、お祝いのケーキ食べましょ! ハルちゃん、お茶入れるから手伝って!」
「はーい。」
・・・・・
3時過ぎ姉ちゃんと一緒に散歩に出かけた。一週間も経ってないのに、入院していると筋肉がサボる状態になるらしい。思ったように早く歩けないのだ。これはマズイと思った。来週から学校に行くのだが、どれ位時間の余裕を見ればいいのか解らない。
「姉ちゃん、学校まで歩こうと思う。時間を測って。」
「うん、それが良いね。」
「今、20分だから、家は15分頃出たよね。」
「そうだね。」
俺と姉ちゃんはキウイ畑と鶏が放し飼いされている農園の間の道を通って、彦兵衛橋を渡った所から車が通らない玉川上水沿いの通学路を歩いた。もう桜は散っていて、両岸の木々の柔らかそうな黄緑の葉が玉川上水を覆い始めていた。優しくて穏やかな空気が流れ、小鳥の囀りにもなんか暖かさが感じられた。
「翔ちゃん、急がなくていいからね。」
「なんか、なかなか普通に歩けない。」
「だんだん慣れて速く歩けるようになるって。」
「姉ちゃん経験あるの?」
「無いけど、赤ちゃんがそうでしょ!」
「俺、赤ちゃん?」
「そうね。おおきなね。」
「まあ、何て言われても仕方ないよ。」
結局3時50分頃学校の北門に到着した。普通なら30分もあれば十分だから、10分程余計な時間が必要だ。北門が開いていたのでグランドに行ってみた。土曜なのにテニスコートに人影があった。3年女子のレギュラーの先輩が模範試合をしていて、入部したばかりの新人部員がそれを見ていた。その中にナッちゃんとユミちゃんが居た。姉ちゃんと俺は休憩を兼ねてその試合を見て行くことにした。しばらく見ていると、最初にユミちゃんに見つかった。
「あ、翔太君だ!・・・退院したの?」
「うん。」
「見掛けはちょっと痛々しいけど、元気そうじゃん。」
「まぁ、わりと。」
「まだちょっと速く歩けないの。」
その時、模範試合をしている先輩に睨まれた。姉ちゃんと俺は、なんか邪魔をしているような空気感を察した。・・・なので、帰ることにした。
「姉ちゃん、帰ろうか!」
「そうね。」
「じゃあ、また。」
「うん。」
ナツちゃんと俺達は何も言わずに目配せをした。
そして、来た時と逆コースで帰った。なんと、帰りは35分で家に着いた。
「なんか普通に歩けるようになった。もう一人でも大丈夫だね。」
「だめよ。月曜からは、私がずっと一緒だからね。」
「へい・・・ご面倒をおかけします。」
「うん。それでよし!」
こうして、俺は姉ちゃんに連れられて学校に行くことになった。
当然の事だが、同級生にひやかしや軽口を言われることは覚悟しないといけない。もっとも、国語の先生の言葉を借りれば、『誹りなら甘んじて受けよ』だそうだ。要するに『言いたい奴には言わせておけ』という事らしい。仕方ない状況とは言え、俺は少し諦めの境地ってのが解って、大人になったような気がした。
本当のことを言うとからかわれると凹むし傷つくんだけど、『ひ弱な者の気持ち』はたいてい親にも先生にも解ってもらえないのが悲しい。
・・・その日は疲れてなんかないはずなのに早く寝てしまった。
日曜日も午前中と午後と散歩した。午前中はその気は無かったのだが、姉ちゃんがどうしてもって言うから仕方がない。久我山まで神田川沿いの歩道を歩いた。所々に大きなコイが悠然と泳いでいた。その午前中の散歩のおかげか、午後には普通に歩けるようになった。学校まで行ったが、30分掛からなかった。たぶんもう走っても大丈夫だと思う。ただ、走ると頸椎に負担がかかるから、しばらくは駄目だそうだ。
夕食後、姉ちゃんが俺の部屋に来た。久しぶりに姉ちゃんと2人きりで話ができた。俺はベットに足を延ばして座って、姉ちゃんは部屋の真ん中に座った。
「たった2日でもう元通りに歩けるようになったね。」
「うん。回復するのって、思ったより速いんだね。」
「翔ちゃんが特別なんだと思う。」
「そんな事ないよ。」
「でも、翔ちゃんが治って良かった。」
「姉ちゃんにはまた大きな借りが出来ちゃったね。」
「またって?・・・なんか貸しがあったっけ?」
「うん。姉ちゃんは恩人だからね。まだその恩返しできて無いんだ。」
「ふーん。でも、貸しとか借りとかなんか嫌だわ!」
「俺、姉ちゃんには迷惑かけてばっかりだ。」
「迷惑だなんて思ってないから!」
「そうなの?」
「うん、翔ちゃんのおかげでいろんな経験が出来て楽しいわ!」
「ええー! それ、なんかすごく凹むんですけど!」
「ごめん、ごめん。でも本当よ、看護師さんに病院の事色々教えてもらったし。」
「ならいいんだけど・・・」
その時、姉ちゃんが立ち上がって近付いてきてベットに斜めに座った。
そして・・・ハグした。
「おかえり、翔ちゃん。」
「た、ただいま、姉ちゃん。」
「この何日か、翔ちゃんが居ないと思うと寂しかったわ!」
「ごめん。でもどうして?」
「だって、夜2階に居るの私だけでしょ!」
「そっか。」
「じゃあ、部屋に帰るね。」
「うん。おやすみ。」
「おやすみ。」