3-1 痛い目に遭った日(その1)~それはないよ~
1年までは俺はチビだった。整列すると、いつも一番先頭に並んだ。姉ちゃんは相変わらず大きくて、後ろの方に並んでいた。この頃、つまり思春期に差し掛かる頃は、身体的個人差がかなりある。数年すれば同程度になるどうって言う事も無いつまらない差なのだが、早熟な奴は優越感に浸れるのだ。
同学年なのに、姉ちゃんは大人で俺は子供だ。この明白な違いを同級生達が放置するわけは無かった。本当にこの年頃の連中は容赦が無い。男子にも女子にも何かと比較されてからかわれるのは俺にとってかなりきつい事だった。特に俺が一番凹むのは、同学年の女子に「カワイイ」とか言われて頭を撫でられる事だった。たぶん、姉ちゃんも嫌だったと思うが、比較の対象としては俺より優位な立場だったからまだ我慢できたのかも知れない。
入学して間もない4月の中頃の事だ。
「翔ちゃん、早くしないと遅れるよ。」
「先に行って!」
「待ってるから。」
「先に行ってって!」
「もう、知らないよ!」
俺は姉ちゃんと一緒に学校に行きたくなかった。たぶん男のプライドと言うやつだと思う。だから、俺は家を出ると姉ちゃんが歩く玉川上水沿いの道を避けて、自動車が多いバス通りを走って学校に行くのが日課になりつつあった。
・・・そしてその事故が起こった。
急ブレーキの音がした。次の瞬間、俺の周囲から音が消えた。道路に沿って生えている大きな木が枝を拡げていて、その枝の間から沢山の三角形や四角形の空が見えた。雲は白いのに空は青くなくてむしろ黒く見えた。その景色がなんかスローモーションのように動いた。綺麗に思えた。
・・・俺はポンと跳ね飛ばされて、左肩から舗道に落ちたと思う。
落ちる寸前、何か大きな丸い物に頭が当たって、そして、『ゴーッ』という地下鉄の電車の窓が開いているような音に包まれて真っ暗になった。・・・と思う。後から思い出しても、その時死ぬとか思わなかったし、痛いとか感じなかったし、良くテレビで言っているように、お花畑とか眩しい光とかそんなものは何も見えなかった。
目を覚ますと、薄暗い部屋のベットで寝ていた。俺の体と左手の指にはいくつか電極が、鼻にはビニール臭い透明の管が入っていて、唾が飲み込みにくかった。『ピッ・ピッ・ピッ』と、たぶん俺の心臓の動きに合わせた電子音が部屋に響いている。
俺はしばらく天井の2本並んだ蛍光灯を見ていたような気がする。そして、ようやく状況がわかった。ここはきっと病院だ。なんかすごく気分が良い。
『あー、良く寝た!』そんな感覚で起き上がろうとした。
けど、背中から左肩が痛くてうまく起き上がれない。
「あっ、翔ちゃん!気がついた?」
『どうしたの?姉ちゃん・・・』
「お母さん呼んでくるね。」
姉ちゃんは病室を小走りに出て行った。俺は『待って!』と言って呼び止めようとしたが、待ってくれなかった。まもなく彩香を抱きかかえた母さんが入ってきた。その後に姉ちゃんも入ってきた。
「気が付いたのね。よかった。」
『母さん、俺、どうかしたの?』
と聞いたつもりだった。だけど、母さんは俺の顔を覗き込んで、見つめて、
「どうしたの翔ちゃん?」
『どうもしないよ』
「翔ちゃん、わかる?」
『わかるって?なにが?』
「たいへん。先生に知らせなくっちゃ!」
母さんはナースコールを押した。枕もとのスピーカーから女の人の声がした。
「どうしました?」
「あっ、目を開けて気が付いたようですが・・・」
「わかりました。すぐ行きます。」
「春香、彩香を頼むわ」
「うん」
母さんは彩香を姉ちゃんに預けた。姉ちゃんは彩香をぎこちなく抱いた。彩香は辺りが珍しいのかキョロキョロしている。
・・・けど、どうして母さんは慌てているのだろう?
俺は母さんの様子がなんだか判らなくて、しばらく見つめていた。その時、年配の看護師さんと若い男のお医者さんが早足で入ってきた。
「気が付きましたか?」と先生が言った。
母さんはすごく心配そうに、
「それが、目は開けているのですが、わからないみたいなんです。」
先生はベッドの俺に覆いかぶさるようにして、
「翔太くーん!わかるかい?」
そう言われても、どう答えていいの? この声をかけた人が誰とか?・・・仕方ない。
『はい。わかります。先生です。』
先生はおれの返事にはべつに興味が無い様子で、ペンライトの様なもので俺の目を照らした。
”眩しい”
「うーん。どうしたのかなあ?」
どうしたらいいんだ?俺!。起き上がればいいのか?
俺は起き上がろうと上体に力を入れた。
「動かないでね!」
看護師さんがそういいながら俺の肩を押さえた。先生は俺の左手をとって、左手で中指と人差し指を一緒に握った。とっさに俺は握り返した。
「ああ、反応あるね。もっと強く握ってごらん。」
俺は指に力を入れて先生の手を握った。
「ああ、わかってるね。よしよし。声が出しにくいのかな?」
『えっ、それ、どういう事?』
・・・つまり・・・そうか。俺は声が出てないんだ。やっとわかった。
「腕は動かせるかな?」
先生はそう言って俺の右腕を持ち上げた。俺は力を入れて腕を胸に付けるように動かした。
「ああ、わかってるね。腕も動くね。左腕はどうかな?」
俺は左腕を動かした。電極に付いた線も一緒に動いた。
「ああ、動くね。じゃあ右足を動かしてみよう。」
俺は右足を曲げるように動かした。
「じゃあ、今度は左足。」
俺は左足も同じように動かした。
「よーし。わかった。」
「大丈夫なんですか?」と母さんが尋ねた。
「意識はハッキリしてますし、反応もしっかりしています。ただ、声が出しにくいようですね。チューブがあるせいかな?」
俺は声を出そうとするが、やっぱり出ない。どうしたんだろう。喋ろうとすればするほどため息のようなのが出るだけだ。
先生は俺に先生の左手を握らせて、
「痛かったり何か感じる事があったら強く握って」
と言って、俺の顔や胸や背中や手や足をつねったり叩いたりした。俺はその都度手を握った。
先生は母さんに向かって、
「意識はハッキリしていますし、反応もしっかりしていますので、問題ないと思います。私の言う事も理解できているようですので、もう大丈夫です。もうしばらく様子を見ましょう。」
先生はそう言って病室を出て行った。
母さんが俺を覗きこんで、
「びっくりしたけど良かったわ。でも、どうして声が出ないのかしらね。」
と言った。いつもの優しい顔になっていた。声が出ないという事はこんなにも重大な事なのかと思った。
その後も声を出そうとするのだが、・・・出ない。どうしていいのか分からなかった。
病室の丸い掛け時計が12時過ぎを指しているから、どうやら俺は5時間程意識が無かったらしい。もうすぐ2歳になる彩香がぐずりだしたので、母さんは一度家に帰ることになった。姉ちゃんが残った。母さんが帰った後、部屋の端っこの椅子に座っていた姉ちゃんがベットの右横に来て俺を覗きこんだ。
「翔ちゃん、気が付いてよかった。大丈夫?」
『ああ、心配かけてわりい。』
でも、声になってないから、たぶん姉ちゃんを見つめてるだけなのだろう。
俺は先生がしたように姉ちゃんの手を握って分かってるって事を伝えたいと思った。
それで、右手を出した。姉ちゃんは俺の手を両手で抱え込んで抱きしめた。俺の手は姉ちゃんの胸の真ん中で抱きしめられている。ちょっとドキドキだ。
ま、まずい。『ピッ・ピッ・ピッ』の音が速くなった。
「翔ちゃん、ごめんね。わたし翔ちゃんが私と一緒に学校に行くの嫌なんだって思った。だから、別々に行ってたの。翔ちゃんが危ない所を通ってるの知ってた。嫌でも一緒に行ってれば、こんな事にはならなかったのに。」
『姉ちゃんが悪いんじゃないよ!』
「翔ちゃんの声がずっと出なかったら、わたしどうしよう。私のせいよね。」
姉ちゃんの大きな瞳から涙がポタポタと落ちた。
『だから、姉ちゃんのせいじゃないから。』
「どうすればいいの?どうすれば声が出るの?」
俺は先生がしたように手を握るとかして、姉ちゃんになんとか気持ちを伝えたい。
なのに、姉ちゃんは俺の腕を抱えたままベッドに上体を伏せた。
俺は、姉ちゃんは悪くないし、姉ちゃんが言ってる事が分かってるって伝えたいのだが、何しろ俺の手は姉ちゃんの柔らかい胸に抱え込まれているから、動かすのもなんか変な気がするし、どうしようか?
『ピッ・ピッ・ピッ』・・・しばらく時間が流れた。
ガラガラというワゴンの音が近付いて来てさっきの先生と看護師さんが入ってきた。同時に姉ちゃんは俺の手を放して窓際の椅子に移動した。先生は俺の顔を覗き込んで、白くて薄いビニール手袋をしながら、
「これからチューブを抜くから、楽になるよ。声が出るようになるといいね。」
と言って、俺の鼻の下とほっぺたに貼りつけてあるテープを取り、ガーゼでチューブを包んでしごくように唾をふき取りながら、チューブを引っ張った。先生が引っ張る度に鼻の奥と喉の辺りがなんか変な感じがして、ヌルリ、ヌルリとチューブが抜けた。
先生はまずガーゼを、続けて手袋を裏返すように脱いでワゴンの横に括り付けてあるゴミ袋にポイと落とすように入れて、
「じゃあ、後をお願いします。」
そう言って出て行った。看護師さんはアルコール綿で俺の鼻やほっぺたのテープの痕を拭きながら、
「まだ声はでないかな?」
『えー、あー』
「焦らなくていいからね。」
そう言って、またガラガラとワゴンを押して出て行った。
俺はその頃からトイレに行きたいと感じ始めた。左手には電極と配線が付いている。どうしたらいいのだろう?・・・どうしようか?・・・このままだと・・・やばい。そのとき、姉ちゃんがまたベットの横に座った。俺はトイレに行こうと、上体を起こした。
「翔ちゃん、起きなくていいよ!」
姉ちゃんはそう言って俺を寝かそうとした。
『いや、違うんだ。寝てる場合じゃないんだ。』
どうしたらこの緊急事態を姉ちゃんに伝えられるのだろう?
俺は、左手の掌に右手の人差し指で文字を書くような恰好をしてみた。すると、姉ちゃんは、俺の手のひらを覗きこんだ。いや、違うんだ。姉ちゃんの意外な行動に呆れながら、俺は手を止めて姉ちゃんを見詰めた。すると、やっと分かったみたいで、
「あ、書く物ね。」
そう言って、自分のカバンから雑記帳とお気に入りの水性ボールペンを取り出して渡してくれた。おれはそれをありがたく受け取って、
☆トイレに行きたい☆
と書いた。すると、姉ちゃんは、
「大?小?」
姉ちゃん、それは無いよ。その最終的選択の前に、電極をなんとかしてもらわないとトイレには行けない。それで、俺は仕方なく、ナースコールを押した。
「どうしました?」
スピーカーから声がした。
『姉ちゃん返事頼む。』
でも姉ちゃんは咄嗟に言葉が出なかったらしい。するともう一度、
「どうしました?」
「あ、すみません。翔ちゃん、いえ、中西ですけど、トイレに行きたいと言ってます。」
「わかりました。」
しばらくすと、例の先生と看護師さんが早足でやって来た。そして先生が言った。
「中西君、めでたく声が出たか?」
すると姉ちゃんが、
「あっ! 声は出てないですが、ノートにそう書いたので。」
「ああ、そうでしたか。筆談でしたか。いい方法だね。」
先生はそう言って、くるりと体をまわして、また早足で出て行った。
残った看護師さんの右手を見て俺はかなりマズい状況を予感した。
・・・『尿瓶』だ!
「小水ならこれで。大なら電極外しますけど?」
俺は姉ちゃんを見た。すると、
「あ、外に出てるから。」
そう言ってとっとと出て行った。違う。違うんだ。
『雑記帳を貸してくれー!』
仕方なく俺は看護師さんに左手の掌に右手で文字を書くゼスチャーをした。
「あ、書くものね!」
看護師さんは胸ポケットのボールペンとメモ帳を貸してくれた。
☆大です☆
俺は電極を外してもらって、自由の身になった。そして看護師さんに支えられてゆっくりトイレに向かった。助かった。ほっとした。
最初は左半身がかなり痛かったが、歩いているうちにそうでもなくなった。トイレの前まで来たとき、
「しっかり歩けるみたいね。これならもう大丈夫だわ!」
看護師さんはそう言ってナースセンターへ帰っていった。
トイレで用を足した後、当然だが、手を洗った。そして洗面台の鏡を見て驚いた。左の腕に赤紫色の大きなアザがある。俺は恐る恐るパジャマの前を開けみた。俺の左半身にはゾゾッとするような赤紫色の大きなアザがいくつも出来ていた。そのアザを触ってみた。少し痛いような気がする。それに、頭には包帯が巻かれ、その上から白いネットが被されている。そのせいか、頭の左側が大きい。そっと触ってみると、痛い。後から分かった事だが、巨大なタンコブが出来ていて、手術したらしい。とにかく、自分の尋常でない状態を認識してゆっくり病室に戻った。
病室の入口に姉ちゃんが居た。
「あっ、翔ちゃん大丈夫?」
姉ちゃんが近づいてきた。
「姉ちゃん、俺・・・。」
「あ、翔ちゃん声が出た!」
俺は力が抜けて姉ちゃんに抱き着くようにして倒れこんだ。
「翔ちゃん! しょうちゃん! しょうちゃん!」
姉ちゃんの叫び声がしたような気がする。
そして俺は・・・たぶん・・・気を失った。