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姉ちゃんは同級生 ~井の頭の青い空~  作者: 山崎空語
第6章 高校生の俺達 ~卒業に向かって~
124/125

6-13 国際電話があった日(その4)~バージンロード~

 俺は約束の時間の少し前に吉祥寺駅南口の雑踏を三鷹方向に抜けた所にある居酒屋に行った。親父の携帯に電話をすると右手奥の簾で囲まれた席に居るという。俺は、こういう店は初めてだったので、入り口近くに居た女の店員さんに連れが先に来ていると断わってから、店の右手奥に向かった。

「翔太、こっち!」

「ああ、そこか。」

親父は小さい2人掛けのテーブルの奥の壁に凭れて座っていた。親父もおそらく今来たばかりなのだろう。テーブルには何も乗ってない。俺はテーブルと座席の狭い隙間に滑り込むようにして座った。

「親父、どうしたんだ?」

「そうだな、まずは何か食べようか。」

親父が手を挙げると、店名が肩口にプリントされた白いTシャツと紺のデニムの上に黒いエプロンをした男の店員さんが俺の背後から返事をした。

「いらっしゃいませ。ご注文ですね。」

親父は自分は中ジョッキの生ビール、俺にはウーロン茶、それと、サラダ、唐揚げ、シシャモを注文した。店員さんは伝票に注文品のメモを書き込みながら、それらを復唱して確認した。そして、

「メンバーカードはお持ちですか? 今の時間ですとメンバーカードが有れば1割引きになります。」

親父は2つ折りの財布のカード入れから表が白で裏が黄色いカードを取り出して、

「これですか?」

「はい、それです。お預かりします。」

店員さんは1度カウンター方向に引き返した。が、すぐに飲み物を持って戻って来た。

「ビールとウーロン茶です。それからメンバーカードをお返しします。」

「ありがとう。」

俺は居酒屋の食べ物が思ったより安いってのを知って驚いた。にしても、メンバーカードを持っていると言う事は親父は頻繁にこの居酒屋チェーン店に来ると言う事なんだと思った。

「お前と2人きりでこういう店に来るのは初めてだな。」

「何かあったのか?」

「うん。まあな。お前も卒業した事だし。」

「なんか、もったいぶるね。」

いきなり核心には到達できない雰囲気だ。

「翔太の方はどうなんだ?」

「何が?」

「まあ、近況だ。」

「そうだな、入試は全部終わった。」

「そうか。本命の合否はまだだろ。」

「ああ、でも、たぶんOKだ。それに滑り止めは一応確保してあるし。」

「春香ちゃんも入試は終わったのか?」

「うん。終わったはず。俺とほとんど同じだから。」

さっきの店員さんが料理を持ってきた。

「失礼します。お通しとサラダと唐揚げです。」

俺は注文を追加した。

「すみません。イカリングを1つください。」

「イカリングですね。」

店員さんは伝票にメモを取って、慣れた所作で戻って行った。店員さんが去るとようやく親父が本題を切り出した。

「翔太。今日はお前を1人前の男だと思って、たいせつな話がある。」

「あんま、嬉しくない言い方だね。」

「1人前と認めているのにか?」

「そういう言い方って、大人がたいてい理不尽な要求を押し付ける時の枕詞だからね。」

「賢くなったな。」

「おかげさまで。」

2人共またしばらく沈黙して、重たい空気のやり場に困った。またさっきの店員さんが来た。

「お待たせしました。シシャモです。」

店員さんが去るのを目で見送って、親父が意を決したように言った。

「なあ、翔太。アメリカに一緒に行く気はないか?」

親父のこの唐突な提案に先日の翔子母さんの電話が俺の脳裏を横切った。なので、俺は子供として当然の反応で様子を探る事にした。

「春休みにか?」

「いや、そうじゃなくて、ずっとだ。」

「なんだって? もう1度言ってくれる?」

「父さんと一緒にアメリカに行かないか?」

やはり原因はおそらく先日の電話だ。

「こういうの、藪から棒って言うんだよね。」

「そうだな。」

この提案に同意すると言う事は大学進学を諦めると言う事に等しい。それは俺のこれまでの努力と成果を全て捨て去る事になる。俺はこの悪い予感を何とか否定したいと思った。

「仕事の関係なのか?」

「いや。仕事は辞めて行くんだ。」

「ちょっと待ってよ。何言ってんの? どういう事?」

親父は俺を説得しようとしている。だが、高々17歳の子供でも分かる。この異常な提案はあまりにも非常識だ。俺は親父を思いとどまらせるか、それとも次善の策で譲歩するか悩んだ。

「俺、国立大学に合格してるかも知れないんだぜ!」

「そうだな。」

「姉ちゃんだって合格しているに決まってるし、渡航の準備や家の整理をするにはそれなりに時間がかかるよ。・・・つまり、しばらくは親父単身という事だよね。」

その時、女の店員さんが割り込みにくそうに声をかけた。

「イカリングでございます。」

店員さんが去ると、親父はビールを1口飲んで、ゆっくりとジョッキを下して、噛みしめるように言った。

「お前以外は日本。アメリカに行くのは父さんとお前の2人だけだ。」

「なんでそうなるんだ?」

親父は言いにくそうに続けた。

「母さんと暮らすんだ。」

「母さんって・・・まさか!」

「ああ、翔子と暮らす。」

「ハァー?」

「母さんがな・・・翔子が、父さんに来て欲しいと言うんだ。」

最悪の展開だ。親父が言ってる事が俺にはさっぱり解らない。腑に落ちない。俺はこれまで親父はもっと分別がある男だと思って疑ったことが無い。今俺の目の前にいる初老のおっさんは本当に俺の尊敬に値する父親なのか? それとも何かに憑りつかれた偽物か?

「だいいち、アメリカに行って、仕事とか収入とかどうすんだよ!」

「翔子の会社で働く。」

「母さんの会社? なんだいそれ!」

「母さんはベンチャーの社長なんだ。」

「そうか、だから母さんは俺達を捨ててアメリカに行っちまったんだ。」

「違う。母さんが会社を立ち上げたのはこの5年位前の事だ。」

「会社にしたのが最近だって事だけじゃないのか?」

「そうじゃないんだ。父さんが悪いんだ。翔子は悪くない。」

「つまり、親父が追い出したって事なんだね。」

「それも違う。たぶん。」

「解らないよ! ・・・じゃあ、なんで出て行っちまったんだよ!」

「あの時は、春樹が死んで、父さんたちの関係が・・・バランスが崩れたんだ。」

「解らないよ! ・・・そんな謎めいた事言われても。」

しばらく沈黙が流れた。

「だいいち、彩香はどうするんだ?」

「できれば綾香の傍に置いてゆきたい。彩香にはまだ母親が必要だ。」

おれは次の質問はしたくない。だけど確認しなければならない。

「綾香母さんはどうするんだ。」

どうやらこの質問への答えは用意していたらしい。

「これから話し合って離婚するつもりだ。」

「そんなに冷えているのか親父達2人の関係は?」

「そうじゃあない。綾香も大切な・・・。」

親父が何を言いたいのか結局解らなかった。論理的な理解が出来なかった。俺は仕方なく、もっとも腹立たしい非常識な思考を突き付けてみた。

「それはつまり、綾香母さんと翔子母さんを天秤で計って、最初は翔子母さんで、春樹小父さんが亡くなったら綾香母さんに乗り換えて、歳を取った今は翔子母さんに戻るという事か?」

「そうじゃあない。そうじゃない。・・・けど・・・今はこれしか父さんの・・・『中西健太』の責任の取り方が無いんだ。」

「それが綾香母さんとの離婚なのか?」

「父さんは・・・あの時お前の母さんに・・・翔子に何もしてやれなかった。だから・・・今度は・・・」

しばらく沈黙が続いた。親父は両手をテーブル下の太ももの上で拳にしていた。目には涙が溜まっているように思えた。だから、事情はさっぱり理解できないが、俺はこれが親父の苦悩の末の結論だと思った。これ以上の説得は無理だと思った。それなら、次はおれの対処だ。だけど、今ここで結論を出す事なんかとてもできなかった。

「何を言っても無駄みたいだね。だけど、俺がアメリカに行くかどうかはまだ返事できない。しばらく考えさせてくれ。」

「ああ、もちろんだ。じっくり考えてくれ。」

「もうひとつどうしても確認したいことがある。」

「なんだ?」

「綾香母さんへの慰謝料つまり今後の生活費や彩香の養育費、それから姉ちゃんの学費は当然必要なだけ用意してあるんだよな?」

「ああ。井の頭の家と土地と退職金を置いて行くつもりだ。」

「彩香の養育費は?」

「不足分は仕送りをするつもりだ。」

「二言は無いんだね。」

「ああ。・・・その代り、お前は残っても一緒に来ても、悪いけどできるだけ働いてくれ!」

「そうか、わかった。その方が俺も少しは気が楽になるような気がする。」

こうして、俺を大人と認めた一方的な話し合いが終わった。

 注文した料理を少し残して食べた後、俺は親父と一緒に帰るのを断って、井の頭公園を抜けて井の頭線沿いに歩いて帰ることにした。井の頭公園は昔殺人事件があったりして、夜は物騒だと言われているが、8時台はまだちらほら人通りもあって、高校生くらいの男なら大丈夫だ。と思う。俺は涙を乾かしながら、とぼとぼと歩いた。神田川の浅い流れに月がまだらになって映って揺れていた。


 俺は9時前に家に着いた。テーブルに取り分けてあった夕食を残らず食べた。風呂に入って自分の部屋に入ってしばらくすると、姉ちゃんがノックした。

「翔ちゃん、入っていい?」

「うん。いいよ。」

姉ちゃんはいつもの丸いクッションを抱えて座った。俺はベッドに座っている。

「夕方ね、翔子小母様から電話があったの。わたし、最初わからなくて、でもびっくりしちゃった。」

「何て言ってた?」

「驚かないのね。・・・この前の朝翔ちゃんがなんか変だった時の電話も翔子小母様だったのね。」

「・・・うん。」

「今度の土曜日に日本に帰って来られるそうよ。それで、一緒に食事しませんかって伝えて欲しいって。」

「何処で?」

「吉祥寺。店は着いてから決めるって言ってらしたわ。」

「じゃあ、また電話がかかってくるって事だね。」

「そうね。そういう事になるわね。」

「姉ちゃんも一緒に行こう。」

「え? いいのかなあ? 私邪魔じゃない?」

「俺、姉ちゃんに一緒に来て欲しい。」

「わかった。小母様が良いっておっしゃたら、行くわ。」


 俺はまだ気持ちの整理が付いていない。それに、たぶんこれから起こるだろう事を今姉ちゃんにはとても言えない。だけど、俺の姉ちゃんへの気持ちは今伝えないと、もうそのチャンスが無くなるような気がした。だから、俺はベッドから降りて姉ちゃんの正面に座って、姉ちゃんをまっすぐ見つめた。

「姉ちゃん、俺、言いたいことがあるんだ。」

「なあに改まって。」

「・・・俺は・・・姉ちゃんが好きだ。」

「うん。判ってるわ!」

「姉ちゃんと結婚したい。今すぐじゃなくて、大学を卒業して、社会人になったら。」

姉ちゃんはどう返事していいのか分からない様子だ。

「わたし、翔ちゃんのこと好きだけど、結婚なんて考えてないよ。ずっと姉弟妹キョウダイを続けるんじゃなかったの?」

「つまりそれは、『ごめんなさい』って事?」

「そうじゃなくて、結婚だなんて・・・私の方が翔ちゃんに相応ふさわしいかどうかわからないわ。」

「姉ちゃんは俺には勿体無いくらいだと思う。」

「そんな事ない。翔ちゃんはいつの間にか立派な男の人になって、私よりうんと先に行ってるように思うわ!」

「それは逆だよ。姉ちゃんは思慮深くて、優しくて、俺の恩人で、憧れの人なんだ。」

「恩人って?」

「小さいころ、姉ちゃんが居てくれなかったら、俺はおかしくなってたと思う。今の俺にはなれてなかった。そんな気がする。だから、姉ちゃんは恩人なんだ。・・・俺、姉ちゃんにずっと憧れてた。」

「・・・今ここで返事しなきゃ駄目かなあ?」

「そうして欲しいけど・・・それよりも、本当は俺の気持ちを今伝えたかったんだ。」

「少し考える時間を頂戴。」

「そうだね。俺も今かなり混乱してると思う。」

姉ちゃんはゆっくり立ち上がって、

「翔ちゃん、私を好きになってくれてありがとう。今日は別々に寝た方が良さそうね。」

「そうだね。やっぱり姉ちゃんは冷静だ。」

「自分で自分が良く解らないわ!」

姉ちゃんはそう言って自分の部屋に帰って行った。


・・・・・


 3月8日(土曜日)の昼前、翔子母さんから電話があった。成田からだった。食事に姉ちゃんと一緒に行くって事はふたつ返事でOKだった。夕方、井の頭公園の傍にある仏蘭西亭という老舗レストランに行った。前庭の飛び石のアプローチの両側に円柱状の明かりが灯って、別世界に招かれて行くような感じだった。入り口で『篠原の予約』と告げると、奥の個室に案内された。個室の手前でボーイさんにコートを預けた。個室にはワインレッドのセーターにグレーのスカートの若作りの中年の小母さんが座っていて、俺を見上げた。姉ちゃんと俺は会釈をしてその小母さんの対面に立った。

「翔ちゃんなの?・・・本当に翔ちゃんなんだ。大きくなったね。・・・そして、こちらは?」

「初めまして、春香といいます。」

「ええー、つまり・・・綾香の?」

「中西綾香の娘です。」

「綾香にそっくりだわ! まあ、2人共、立ってないで座って!」

俺は姉ちゃんを俺の右側の奥に誘導して座った。だが、なんか俺はこの上から目線の中年の魔女に憤りを感じている。

「そんな事より、なんで日本に帰ってきた!」

姉ちゃんが小声で、

「翔ちゃん、冷静に!」

「仕事。日本の民芸品や可愛い物をあっち(アメリカ)でネット販売してるの。だから、グッズの調達ってとこ。結構いい値段で売れてるんだよ! あ、シスコに実店舗もあるのよ!」

「じゃあこれまでも何度も帰ってたんだね。」

「そうね。最近は年に2回くらいかな。この頃は日本に帰ると云うより、日本に仕事に行くって感覚かな。」

ボーイさんがワインリストを持って入って来た。

「お飲み物はどうなさいますか?」

「この子達未成年だからノンアルコールでお願いします。」

「本日は良い葡萄ジュースがご用意できます。」

「じゃあそれで。」

「かしこまりました。少々お待ちください。」

1礼してボーイさんが出て行った。

「・・・なんで電話した?」

「ちょっとした手違いだったの。」

「手違いであんな事言う?」

「どんなこと言ったっけ?」

「また連絡するって言った。」

「そうだったね。翔ちゃんが出たから。会いたくなっちゃった。」

「勝手なこと言うなよ!」

「・・・ごめんね・・・そうね、私・・・勝手なんだ!」

「手違いってことは、親父に連絡したんだね。」

「・・・翔ちゃんも察しがいい男だね。女の子に嫌われるぞ!」

「時々逢ってたと云うことか。」

「ご想像におまかせ。」

「浮気・・・だよね。・・・姉ちゃん、ごめん。」

「・・・翔ちゃんが謝ることじゃないよ。」

「健太はね。そうなるか。」

「俺、頭がおかしくなりそうだ!」

「どうして?」

「義理の母さんの目を盗んで、実の親同士が不倫してるんだぜ!」

「ああぁ~・・・そうなるのか。」

「綾香母さんに申し訳ないと思わないのか?」

「・・・それは・・・思うよ。」

「ならどうして・・・」

「お父さんが・・・健太が好きだから。」

「じゃあ、なんで離婚した!」

「そうだよね。なんで・・・だろうね。」

暫く沈黙があった。

「・・・健太をね、お父さんをね。」

「親父が悪いのか?」

「ううん。私が悪いの。あくまでも。」

「わからないよ!」

「・・・綾香にね、私の無二の親友の綾香に健太を返してあげたかった。」

「わからないよ! だいいち、春樹小父さんはどうなるの?」

「生きてたら、春樹も同じだと思う。」

実の父親の事だったので、姉ちゃんが思わず声を出した。

「え? どうしてお父さんが?」

「そう。無二の親友の健太に綾香を返したかったんじゃないかな?」

しばらく沈黙が流れた。翔子母さんは何からどう話すべきか考えている様子だった。そして、1つ深い息をして話し始めた。

「お母さん達4人は仲良しなんだ。・・・たぶん今でも。」

「ならどうして?」

「そうね。好きになって、お互いを思い合って、それでも肝心なところで間違っちゃった・・・」

「なら正せばいいじゃあないか。」

「それが今の状態。・・・上手くいかないもんだね。」

「・・・わからないよ!」

「私と春樹とが真剣になれていれば全部上手くいったんだけどね。でも・・・春樹は綾香を、私は健太を・・・諦められなかった。」

「ああぁ・・・そういう事か。」

その時、姉ちゃんの体が俺の方に傾いた。

「そう。私は親友の彼を略奪したの。春樹と無意識に結託したのかもね。」

姉ちゃんは俺の右胸に顔を付けた。大粒の涙が零れ落ちた。俺は姉ちゃんの肩を抱きしめた。

「本当の事は分からないけど、春樹が天国に召された。それで、私だけ幸せになったらって考えると・・・ね。」

「だから親父と離婚してアメリカに・・・それが免罪符?」

「まあね。そういうことでも良いよ。」

「じゃあ、なんで不倫?」

「だから、お父さんが、健太が好きなの!」

「おれはどうしたらいいんだ? 綾香母さんに何て言えばいいんだ?」

また少し沈黙が有った。

「知ってるよ・・・綾香は・・・知ってて黙ってる。責めないんだ。誰も。優しいから。」

「母さんたちの事、俺にはやっぱりわからないよ! 分かりたくないよ! 無茶苦茶じゃないか!」

「そうね。無茶苦茶だね。」

しばらく沈黙が続いた。皿とナイフやフォークがすれ合う音だけになった。こんな時でも食べられる物もあるのかと思った。俺は腹立たしかった。親父は元々は綾香母さんが好きなのにどうして離婚するのだろう。そう言えば、『来てほしいと言う』と言っていた。

「なんで親父をアメリカに呼ぶ?」

「仕事が忙しくなって、私、体を壊してしまったみたいで、『手伝って』って言ったの。」

わからない。仕事を手伝うくらいで離婚とか常識的じゃない。

「そんなことで親父が綾香母さんと離婚とか考えるのか?」

またしばらく沈黙が続いた。

「・・・もうそろそろ戻って来て欲しくなったの。」

「はあ?」

「私のところに帰って来て欲しくなったの・・・ちょっとだけでも良いから。」

「また略奪するってこと?」

「そうじゃないわ。今度はぜーんぶ分かった上で選んでもらうの。」

「やっぱり俺には解らないよ!」

俺は姉ちゃんの肩をもう1度強く抱き寄せた。姉ちゃんは黙って、ただ涙を流して泣いている。俺はもうそろそろ話も終わりなんだろうと言う感覚になった。なので、俺にとっての核心に触れる質問をした。

「・・・俺を生んでくれて有難う。それは・・・その事は、感謝してます。」

「本当? ありがとう。翔ちゃんにそう言って貰うのが1番嬉しいわ!」

「だけど・・・」

「だけど?」

「だけど、あの時、俺を連れて行こうとは思わなかったのか?」

「連れて行きたかったよ。でも、説得された。『生きていけないだろ』って。」

「俺には何も言ってくれなかった。」

「最後にね。『しょうちゃん、しょうちゃん』って。それだけしか言えなかった。ごめんね。」

俺はその時思い出した。母さんに抱きしめられて、全身の力が抜ける穏やかな感覚を。保育園の頃、中野さんや姉ちゃんにも同じようなのを感じたが、その数倍の幸福感だった。

 しばらく重苦しい空気の中で食事をした。デザートを食べ終わって、もう交わす言葉が枯れてしまって、押し黙って唇を噛締める様にしたまま、翔子母さんを残してレストランを後にした。井の頭公園の大きな立ち木のシルエットの上の冷たく乾いた空にオリオン星座が輝いていた。


・・・・・・・・・・


 親父と翔子母さんが居なければ俺は生まれなかった。春樹小父さんと綾香母さんが居なかったら春香姉ちゃんは生まれなかった。親父と綾香母さんが再婚しなかったら彩香は生まれなかった。この無茶苦茶な親たちが居なかったら、俺達姉弟妹キョウダイは生まれてなかった。

 コース料理が出されたみたいだったが、あまり口を付けられなかった。今思えばもったいない事をした。姉ちゃんと俺は、吉祥寺駅南口からエスカレータを上がった井の頭線改札の右横にある待合ベンチに座って、しばらく黙ったまま寄り添って時間を過ごした。涙が乾くまで。そして、終電ひとつ前の電車に乗った。

家に着くと、彩香が2階から走って降りてきた。

「電話があって、お母さんが泣いて、お父さんが出かけたの。」

「そうか。彩香、おいで。」

彩香の瞳から大粒の涙があふれ出た。心細いのに我慢していたのだ。俺は彩香を抱き上げた。

「姉ちゃん、母さんの様子を見てきてくれ。」

「うん。」

姉ちゃんは母さんが居る寝室に行った。彩香を抱いたまま俺も行ったが、中には入れなかった。姉ちゃんの母さんを心配する声と、小さなすすり泣きの声がしばらく聞こえていた。少しして姉ちゃんが出てきた。

「もう大丈夫みたい。1人にして欲しいって。」

「そうか。俺は親父達の罪を何て言って謝ればいいのかなあ?」

「翔ちゃんが謝ることじゃあないよ。」

親の仕業とはいえ、複雑な気持ちだ。

「翔ちゃん、私、今夜はひとりで寝られそうにない。」

「そうだね。俺も今夜は一緒に居たい。」

「彩香もいい?」

「ああ、もちろん。」


1時半前、俺達は皆俺の部屋に集まった。

「なあ、姉ちゃん、俺達3人は本当に祝福されて生まれて来たのかなあ?」

「そんな事、私にはわからないよ!」

「親父達は4人で話し合った事あるんだろうか?」

「それもわからないよ!」

「ねえ、姉ちゃん、親父達4人の中の誰が悪いんだろう?」

「わからない。わからない。わからないよ! 悪いなんて言える人居るの! 皆私たちの親なんだよ!」

「だよね。皆いい人だと思うんだ。皆優しくて、お互いに好きなんだと思うんだ。」

「じゃあ、どうしてこんなに苦しくて、悲しい事になってしまうの?」

「お姉ちゃん、お兄ちゃん、サヤはどうしたらいいの?」

「彩香は心配しなくて大丈夫だよ。どんな事になっても、姉ちゃんと俺が彩香を守るからね。」

「彩香ね、みーんな大好きなんだよ! だけどどうして母さんも父さんもサヤを見て泣くの?」

「それは、母さんも父さんも彩香が大好きだから、どうして良いか解らなくて、心が謝ってるんだ。」

「よく解んない。けど、サヤが悪い子だからじゃ無いよね。」

「そうだよ。彩香が悪い子なわけがない。」

「そうね。彩香はどんな事があっても私と翔ちゃんの妹だからね。」

「じゃあ、ずっと一緒に居ていいの?」

「ああ、ずっと一緒だ。」

「もう遅いから、おやすみ、彩香!」

「ここで寝ていいの?」

「ああ、ここでおやすみ!」

「おやすみお姉ちゃん。」

「おやすみ、彩香。」

姉ちゃんはベッドの傍に座って、彩香の頭をなでながら、やさしい視線を彩香に注いでいる。でも、俺には姉ちゃんの全身から悲しさが伝わってくるような気がした。

「姉ちゃん。親達の事、俺達と切り離して考えないか?」

「そんなこと出来ないでしょ!」

「俺達もうすぐ大学生なんだけど、まだ親達に振り回されなきゃいけないのかなあ?」

「だって、生活費や家の事があるでしょ?」

「俺、大学さえ卒業できれば、そう言うのってなんとかなりそうな気がするんだ。」

「そうかも知れないけど、彩香の事もあるし。」

「まずは親父に責任を取らせるよ。少なくとも経済的な事はね。」

「どういう事?」

「慰謝料と養育費さ!」

「もう。割り切りが早すぎるよ!」

「とにかく、彩香は俺の血縁の妹だから、俺1人になっても育てるよ。」

「あら、自分だけ恰好つけないで! 私もそのつもりなんだから。」

姉ちゃんは真顔で俺を見詰めている。俺は姉ちゃんの瞳を見て、もう1度覚悟を伝えなければと思った。

「姉ちゃん、俺これから俺達の一生を決める大事なことを確認したい。だから姉ちゃんもそのつもりで答えて欲しい。」

姉ちゃんも何かの覚悟を決めた様に答えた。

「・・・うん。そうだね。」

俺は深い息を1つして、姉ちゃんを真っ直ぐ見て切り出した。

「俺、姉ちゃんにもう1度はっきり言うけど、いいかい?」

「うん。」

「俺、姉ちゃんが好きだ。姉ちゃんと一生一緒にいたい。」

「うん。うん。私も翔ちゃんが大好き。」

「大学を卒業して、生活できるようになったら姉ちゃんと結婚したい。」

「・・・この前ははっきり答えなかったけど、本当は私も翔ちゃんのお嫁さんになりたい。」

「俺達の気持ちは、親の問題がどんなに複雑でも、どんな結末になっても、変わらないよね。」

「そうだよね。翔ちゃんの言う通りだね。親の事は切り離せるね。」

「だから、俺はどんな事になっても、姉ちゃんのそばを離れないし、姉ちゃんを1人にしない。」

「ありがとう翔ちゃん、私、嬉しい。」

「親父が翔子母さんを追ってアメリカに行くような事になっても、俺は行かない。」

「本当にそれでいいの? お母さんと暮らせるチャンスなんだよ!」

「せいぜいアメリカなんだから、会いたくなったらいつでも行けるよ。」

「俺は翔子母さんが生んでくれた事には感謝してる。だけど、姉ちゃんと別れて暮らすなんてできない。」

「翔ちゃん!」

姉ちゃんと俺は見詰め合った。そして・・・俺は姉ちゃんをしっかり抱いた。姉ちゃんも俺を抱き締めた。

「ねえ、私の事『春香』って呼んで!」

「じゃあ、『翔太』って呼んでくれ!」

お互いに息が出来ないくらいきつく抱き締め合った。そしてこの時、翔太は『俺』という鎧を脱ぎ捨てて『僕』に脱皮した。

「春香」

「翔太」

僕等姉弟はキスをした。今までで一番長くて深いキスをした。春香は翔太の彼女になった。同時に翔太は春香の彼氏になった。

「翔太、明後日は合格発表だね。」

「うん、一緒に見に行こう。」

「彩香も連れて行く?」

「もちろん。」

「春香、僕は彩香のバージンロードを大人になった彩香をエスコートして歩くよ。」

「もう、気が早いのね・・・じゃあ、私は誰にエスコートしてもらおうかな?」

「順平はどうだい?」

「そうね。順平君なら照れながらやってくれるかも知れないわね。」

「春香・・・僕たち、幸せになろうな!」

「うん。」

僕達はもう1度キスをした。

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