6-9 姉弟妹を確認した日
6月14日(金曜日)、昼頃スコールの様な強い雨が降ったが、3時頃には上がって、久我山の坂の上には低くて重そうな雨雲がゆっくり流れていた。放課後、何となく足が放送室に向いそうになったが、追い出し会の翌日なので、姉ちゃんも俺もさすがに部室には行けず、早く帰って来た。入試までもう8か月だから、本来は暇を持て余すのではなく、受験勉強をするべきなのだが、なんか落ち着けなくて、オレンジ色の学校別の過去問題集を開いてもなんか解く気になれず、集中できなかった。なので、姉ちゃんの様子を伺おうと部屋を出た。その時、彩香がきつそうな顔で学校から帰ってきた。俺は2階に駆け上がって来た彩香と鉢合わせした。彩香の表情は悲しそうで、今にも泣き出しそうに見えた。
「どうした、彩香。」
「ねえ、お兄ちゃんとお姉ちゃんとサヤは『きょうだい』でしょ?」
おれは少し焦った。だが冷静を装った。
「そうだよ。それがどうかしたか?」
しまった。余計な質問形を追加した。
「ナオちゃんが変なこと言うんだよ。お母さんに聞いたって。」
その先は大体察しがつく。が、こう言うしかない。
「どんな事だ?」
「本当の『きょうだい』じゃないんだって。」
ついにこの日が来た。しかし、彩香はまだ7歳だ。まともに説明しても理解できるかどうか。
「それは変だな。」
「ナオちゃんは嘘なんかつかないよ。」
どうしよう。ここは説明を両親に任せるべきかも知れない。だけど、結局のところ俺達子供同士の意識というのも影響が大きいと思う。俺達の場合むしろそっちの方が重要だと思う。だとすると・・・
「そうか。・・・なあ彩香、これからお姉ちゃんの所に行って、俺達が本当の『きょうだい』なのかそうじゃないのか確かめようか。」
「うん。」
「その前に、彩香に確かめておきたい事があるんだけどいいか?」
「うん、いいよ。」
「彩香は姉ちゃんと兄ちゃんが好きか?」
「うん。大好き。」
「わかった。じゃあ姉ちゃんの所に行こう。」
俺は彩香を連れて姉ちゃんの部屋に行った。
これまで俺達は無意識に互いの気持ちの間に大きな波風を立てないようにしてきたと思う。だから、恋人未満という穏やかで優しい気持ちの方向へは進めたが、特に彩香も含めた『キョウダイ』という微妙な関係に関してはもやもやした気持ちを口に出してぶつけ合う事はなかった。そこに不用意に踏み込むと、互いの気持ちの微妙な釣合が悪い方向に崩れるような気がしていたからだと思う。だけど、いつかはと思っていたその時がついに来たような気がした。そして俺は、彩香の疑問と不安にしっかり答えるためにも、まず姉ちゃんと俺との関係をちゃんと話し合って納得し合わないとダメなような気がした。姉ちゃんと俺は『血縁』が無いキョウダイだからだ。そう覚悟を決めて姉ちゃんの部屋の引き戸をノックした。
「姉ちゃん、今良いか?」
「うん。開いてるよ!」
姉ちゃんの返事はいつもの元気で優しい声だった。俺は引き戸を開けて先に彩香を通してから姉ちゃんの部屋に入って姉ちゃんを見ながら引き戸を後ろ手でに閉めた。俺はいつもの様に部屋の真ん中のカーペットに胡坐をかいて座った、いつもなら俺の胡坐の中に座るはずの彩香が今日は俺の右横にちょこんと正座した。姉ちゃんは問題集を解く手を止めて、上半身をねじって彩香と俺の所作を優しい笑顔で見詰めていたと思う。
「どうしたの? 2人共改まって!」
「話があるんだ。」
彩香の不安そうな顔を見て、姉ちゃんも何かを感じたみたいだ。問題集を伏せて、座ったまま椅子を回して俺と彩香に体を向けた。
「何かあったのね。」
「うん。サヤにね。」
「サヤちゃん。どうしたの?」
「ナオちゃんが、彩香たちは本当の『きょうだい』じゃ無いんだって言うの。お母さんに聞いたって。」
姉ちゃんは視線を彩香からそらして俺を見詰め、困った顔をした。姉ちゃんと俺は見詰め合った。少しの間沈黙が流れた。無理解で無配慮で無頓着な言葉が何の悪気もなく俺達に投げ掛けられている。それに答える必要など微塵も無いが、俺達『キョウダイ』の間では少なくとも彩香の心の傷にならない様に解決しなければと思う。
「・・・どうする? 姉ちゃん。」
姉ちゃんは話が突然過ぎて考えがまとまらない様子だ。俺も一緒だ。結論なんか持ち合わせて無いし、まして、彩香に解る様には言えっこない。
「このことはお母さん達に任せた方がいいかも。」
この状況を作ったのは確かに両親なんだが、親がどう言おうと、俺達の事は、互いの気持ちをお互いが解らないとダメなような気がする。俺は1呼吸置いて正直な気持ちを言葉にしてみた。
「俺は逃げたくない。親のこととは別にして考えたい。」
「それ、どういう事かなあ。私、逃げるなんて言ってないよ!」
「じゃあ、これから3人で話し合わないか?」
「でも、親の考えは無視できないでしょ!」
「親の考え方もあるかもしれないが、俺達キョウダイのことは俺達で納得しないといけない気がする。」
「どう納得するの?」
「まず、本当の事を確認する必要があると思うんだ。」
姉ちゃんは困惑した表情でまた1つ深呼吸をした。
「本当の事って、もう判ってるじゃない。それを口にしたって何も変わらないわ。」
「だけど、そこから始まるんだろ、俺達の関係は。」
「私、翔ちゃんが何を言いたいのかわからない。」
「お兄ちゃん、お姉ちゃん。喧嘩しないで!」
そうだ。彩香の言う通りだ。喧嘩して俺達の関係を壊してしまうために姉ちゃんの部屋に来たわけじゃない。それには、まず俺の気持ちをはっきり伝えなければと思う。でも、なんて言えばいいのだろう。だいいち俺自身、自分の気持ちがはっきりわからない。自分にでさえ説明できる状況じゃない。
「そうだね。彩香の言う通りだ。俺は姉ちゃんと喧嘩しに来たんじゃない。彩香の疑問の答えを探しに来たんだ。」
それは、おれが抱えているモヤモヤの答えでもあるような気がする。
「私がその答えを今ここで考えなきゃいけないの?」
「そうじゃない!・・・そうじゃないけど、そうかも知れない。」
「わからないよ。そんなの。」
行き詰まった。そして、数分の沈黙が続いた。姉ちゃんと俺の視線は交差することを躊躇した。俺はとにかく『もがく』しかなかった。
「なあ姉ちゃん。俺達『キョウダイ』って何だろう?」
「私たち、キョウダイだよ!」
そうだろうか。姉ちゃんと俺は親の都合だけのキョウダイじゃないだろうか。姉ちゃんと彩香、俺と彩香のように親の都合にどんな変化があっても変わらないという訳ではない。
「たとえば、母さんとおやじが離婚したら、俺達は姉弟じゃなくなるよね。」
「それは・・・そうだよ。・・・義理だから仕方ないじゃない。」
「俺はそれが嫌なんだ。」
「嫌って言ったって。」
「姉ちゃんと俺も、姉ちゃんと彩香、俺と彩香と同じで居たい。」
「どういう事?」
「俺達、親の都合で姉弟になったけど、今更また親の都合で姉弟じゃなくなるのが嫌なんだ。」
たぶんこれが俺の本当の気持ちにつながっている感情だと思えた。だから、もう少し正直な言葉で気持ちを整理したいと思った。
「俺は姉ちゃんと彩香が大好きだ。・・・だから、ずっと一緒に居たい。・・・何かあったら守りたい。役に立ちたい。頼りにしてもらいたい。・・・それから・・・頼りにしたい。」
俺は気持ちを少しずつ言葉にしているうちになんか言いたいことが分かってきたような気がしてきた。姉ちゃんも何か分かってくれたようだ。そして、何となくモヤモヤがとれてきた。
「・・・翔ちゃん・・・」
「もう俺は姉ちゃんと彩香とキョウダイを止められない!・・・大好きだから。」
姉ちゃんの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。俺の目にも涙が溜まった。姉ちゃんは涙を右手の甲で拭うようにして立ち上がって、俺と彩香の傍に来た。近付く姉ちゃんを見上げながら、俺の目からも涙が零れたと思う。
「翔ちゃん!・・・私もだよ!・・・翔ちゃんってやっぱりすごいね。」
「彩香もお姉ちゃんとお兄ちゃんが大好き。だから彩香もキョウダイ止めれない。」
そう言って、彩香が俺に抱き着いたのをきっかけに、俺達3人はしっかり抱き合った。もちろん彩香が真ん中だ。
「俺、姉ちゃんと彩香を絶対離さないから。」
「私も離さないよ!」
「サヤも!」
俺達はしばらく抱き合っていた。人が何と言おうと、親がどうなろうと、俺達はずっといつまでも『キョウダイ』を続けられるという実感が全身を熱くした。・・・ところが、しばらくして、姉ちゃんがゆっくり言った。
「ねえ、翔ちゃん。どさくさに紛れて・・・何かしてない?」
そのとき、彩香を抱えた積りの手が姉ちゃんの胸に強く当たっていることに気が付いた。
「あっ。こ、これは、ごめん。」
「いいけど、ワザとじゃないよね。」
「そうだったけど、今は少し。」
「ああぁ、いつものちょっとスケベな翔ちゃんに戻っちゃったね。」
「彩香なら触っていいよ。お兄ちゃん。」
「お、おぉ、ありがとう彩香。」
「だめよ、サヤちゃん。お兄ちゃんでも許していい事といけない事があるんだからね。そういう事はお姉ちゃんがちゃんと教えてあげるから!」
「はぁーい。」
「へい、へい。」
こうして俺達3人は・・・つまり、本当の『キョウダイ』が何かを確認した。それは単に血縁ってだけじゃ無く、お互いに大好きでいる事だと。それが解ると、全身を強張らせていた緊張が溶けて、姉ちゃんも俺も彩香も柔和な笑顔になった。俺はこの時、例え親父と綾香母さんが離婚しても、姉ちゃんと姉弟を続ける覚悟ができたと思う。それは、アニメのヒーローがヒロインに誓って言う、『例え世界中を敵に回しても君を守るから!』っていう台詞の感覚だった。
そこへノックの音がして、母さんが入ってきた。
「あら、あなた達、みんな揃って何の相談してるの?」
「うん。ちょっとね。」
と姉ちゃんが答えた。母さんは彩香の顔を覗き込む様にして見詰めた。
「サヤちゃん、帰って来た時泣きそうな顔してたけど、今はいい顔してるわね。」
「うん。」
「学校で誰かと喧嘩したのかと思って、少し心配だったの。」
「彩香たち『キョウダイ』止めれなくなったんだよ。」
「あら、そうなの? それは良かったね。それなら母さんも安心だわ。」
「うん。もう大丈夫よ、お母さん。」
そう言って、姉ちゃんは母さんに目配せするようにして微笑んだ。
「どうやら翔ちゃんのおかげみたいね。」
「いや、そんなことは・・・」
「ううん。翔ちゃんはやっぱりすごいよ。うん。」
母さんは姉ちゃんと俺を交互に見ながらやさしく微笑んだ後、彩香に向かって、
「さあ、もうすぐ夕飯だから下に来て。今日はカレーよ。」
「わーいカレーだー!」
そう言うが早いか、彩香は小走りに出て行った。
母さんと姉ちゃんと俺はホッとした表情でお互いに顔を見合わせた。そして、ダイニングに向かった。
その日の夜、姉ちゃんが俺の部屋に来た。いつものように、俺はベットに腰かけて、姉ちゃんは部屋の真ん中にクッションを抱えて座った。
「翔ちゃん、今日はありがとう。」
「いや、お礼を言いたいのは俺の方さ。おかげ様でなんかモヤモヤが晴れた気がするよ。」
「私深く考えてなかったけど、私たちの事がはっきりして良かったわ。」
「彩香もとりあえず納得してくれたしね。」
「キョウダイって、たぶん血縁だけじゃないのよね。」
「うん。血縁だけで繋がるんじゃなくて、それも含めた何かだよ。」
「血縁でも、ちゃんと気持ちが繋がってないと本当のキョウダイじゃないのかも知れないわ。」
「うん。俺、姉ちゃんと彩香とキョウダイになれて幸せだと思う。」
姉ちゃんと俺は互いに見詰め合った。姉ちゃんはとても優しい顔をしている。たぶん、俺もいつになく穏やかな表情だったんだろうと思う。
「翔ちゃん、隣に行っていい?」
「うん。」
姉ちゃんはゆっくり立ち上がって俺の右横に腰かけた。姉ちゃんと俺は軽くキスをした。
「私達、今は恋人未満の姉弟よね。」
「うん。」
「私ね、あの時よりずっと前から、翔ちゃんがずっと好きだった。」
「あの時って、加代の?」
「うん。」
「えっと、それはつまり・・・」
姉ちゃんは体を俺に向けて、俺を見つめて、右手の人差し指で俺の唇を抑えた。
「それからね、翔ちゃんが、たぶん私の事が好きな事もだいぶ前から気が付いてたの。」
「えっ本当に?」
「中学の部活、私が庭球部に入ったから庭球部にしてくれたんでしょ?」
「う、うん。まあ。」
「私、翔ちゃんがそうしてくれるって思ってたし、そうしてくれて本当に嬉しかった。」
「もし俺がそうしてなかったら?」
「そうね、私、たぶんレギュラーになれなくて、きっと辞めてたと思うわ。」
「そんなことないと思うけど。」
「きっとそうよ。・・・それでね、高校は緑ちゃんに誘われて写真部に入ったでしょ!」
「ああ、それって、あのアニメの影響だよね。」
「そうなのかなあ、そう言えば軽音も大人気だったね。」
「ギターのソフトケース背負ってる女子って格好いいしね。」
「そうなの?」
「うん。だから、俺、放送部にしたんだ。ガルバンのPVとか撮りたくて。」
「へー、そうだったんだ。」
「動機が不純だよね。」
「スケベ翔ちゃんだもんね。」
「まあね。」
「翔ちゃんもギターのソフトケース似合ってるよ!」
「それはどうも有難う。」
少し沈黙が流れた。俺は姉ちゃんのキーボードのソフトケースを担いでライブに向かう時の緊張感を思い出していたと思う。とても心地よい緊張感だ。
「わたし、本当の事言うとね、あの時翔ちゃんも写真部に入ってくれるような気がしてた。・・・自分勝手だよね。」
「それならそう言ってくれれば、そうしたのに。」
「なんか、言えなかった。」
「部活なんかでそんなに深刻に考えなくても。」
「ううん、そんなんじゃなくて、私は私の本当の気持ちを自分で確かめなかったから、緑ちゃんの誘いを断れなかったの。」
「どう言う事?」
「私ね、翔ちゃんが放送部に入ったって聞いてすごく悲しくなって、泣いたの。」
「えっ!そうだったの?知らなかった。ごめん。」
「ううんいいの。・・・そしたら、母さんがこんな事を言ってくれたの。」
・・・・・
「春香も少しずつ大人になる階段を上り始めたのね。」
「どう言う事?」
「大人になり始めると、手足や体の痛みより、心の痛みでたくさん涙が出るの」
「そうなの?」
「そうね、大人になると外から入って来る気持ちと自分の心の中から湧いてくる気持ちとがぶつかって、どうしたらいいのか分からなくなって、そして涙が零れるの。」
「そんな事があるの?」
「良くあるのよ。・・・外からやって来た気持ちと、心の底から湧いて来た本当の気持ちとが違っていたら、どちらかを選んでもう一方を捨てないといけなくなるの。・・・でもね、春香、選ぶのは自分だよ!」
「私、本当の気持ちを選びたいわ!」
「そうね、それが1番なんだけど、いつもそうは行かないの。だから、大人になると色々な大切なものを失うの。それで涙が出るのよ。」
「本当の気持ちってどうしたらわかるの?」
「ちゃんと自分と向き合う事ね。何か大事なことを決める時、『本当にこれで良いのか』って。」
「お母さんもそうした?」
「なるべくね。でも、できなかったわ。だから、『仕方がない』っていう言葉があるのかもね。」
「それは、あきらめの言葉?」
「そうかもね。でもね、本当の気持ちを裏切ってしまった事に気が付いたら、元には戻らないかも知れないけど、なるべく傷口が広がらないようにしないと駄目なの。」
「だったら、私どうすればいいんだろう?」
「そうね。翔ちゃんとは部活以外の方法もあるんじゃない?」
・・・・・
「ああ、それでデュエット?」
「うん。翔ちゃんが私の提案に乗ってくれて嬉しかったわ。」
「俺、深く考えてなかったけど、なんか姉ちゃんと2人で出来るってことが嬉しかったよ。モデルもそうだし。」
「翔ちゃんってすごいよね。誰にも相談しないで大抵ちゃんと良い所に辿り着いてるもんね。」
「そんな事無いよ、姉ちゃんが導いてくれてるんじゃないかなあ。・・・だから俺はいつの間にかコントロールされて・・・」
「そんな事してないってば。」
「まあ、俺はそれでも良い。とにかく、俺は姉ちゃんが大好きです。」
「わたしも翔ちゃんが大好きです。」
「だから、これからもずっと、死ぬまでってか、死んでも、よろしくお願いします。」
そう言って俺が姉ちゃんを真顔で見詰めると、姉ちゃんも優しい笑顔で俺を見詰めた。
「はい。お願いされました!」
姉ちゃんと俺は抱き締め合った。姉ちゃんの優しさと柔らかさと体温を感じた。俺は姉ちゃんより体格がかなり大きくなってしまって、そのせいか、姉ちゃんが少し小さくなったような気がした。この時、何があっても姉ちゃんを守りたいという気持ちが沸き上がって来たと思う。そして・・・もう1度軽いキスをした。
「スマホと枕取って来るね。」
「うん。」