2-10 母さんが二人になった日(その2)~転校生~
月曜日は早く起こされた。いつもより1時間ほど早く学校に行った。綾香母さんと姉ちゃんと俺は転入の手続きやら挨拶やらで玄関右横の職員室に入った。職員室には俺の担任の飯島佑一先生が居て、綾香母さんと姉ちゃんに懐かしそうに話しかけた。
「おはようございます中西さん。飯島です。1年の時担任でした。覚えてますか?」
「もちろん覚えています。転校の手続きを教えていただきました。」
「どうぞ、お掛け下さい。」
先生と綾香母さんと姉ちゃんは窓際の応接セットに座った。俺は職員室の入口付近の通路で所在無く立って3人の話を聞くことになった。ローテーブルには茶碗と新しい大きめのお茶のペットボトルが置かれていて、先生はペキペキとキャップを開けてそのお茶を配った。テーブルに少しこぼれたが、綾香母さんがそれをティッシュで拭いた。先生が話を続けた。
「そうでしたね。そう言えば、突然の転校でしたね。」
「あの時はありがとうございました。またお世話になります。」
「いえいえ、とんでもありません。春香ちゃんならみんな大歓迎ですよ。」
そう言うと、先生は姉ちゃんを覗き込むように、
「春香ちゃん久しぶり。覚えてますか?」
「はい。覚えてます。」
「大きくなって、すっかりお姉さんだね。」
「そうですか?」
姉ちゃんのほっぺたが少し赤くなった。
「また一緒です。楽しく勉強しましょう。」
「はい。」
先生は所在無くキョロキョロしているおれを横目で見た。
「おや!そこに居るのは弟君かい?」
「へーい。弟の翔太でぇす。」
「お姉さんと同じクラスってことになるけどいいか?」
「うん。もち。」
「春香ちゃんもいいかい?」
「はい。」
「翔太は先に教室に行って待ってろ。」
「へーい。」
そう言って職員室を出ようと体を翻した俺に向かって、
「そうだ翔太、誰にも言うな!春香君の事は今日一番のビックイベントだからな!」
「わかりましたー。」
俺は結局教室に1人で時間を持て余すことになった。今日の予習のつもりで教科書をなんとなく読んだりした。しばらくそうしていると、守口優子が入ってきた。
「おはよう中西君」
「おはよう」
「早いね。どうしたの?」
「ちょっとね」
「なに、ちょっとって?」
先生に誰にも言うなって言われているので、ごまかすしかない。
「今日は親父が会社に早く行ったんだ。」・・・嘘じゃない。
「それで早く来たんだ。」
「まあ、そんなとこ」
「守口も早いんじゃね?」
「わたしはいつもこんなもんだよ!、家近いから。」
「そうなんだ。」
「ねえ、国語の宿題あったっけ?」
「今日は無かったと思う。次の章に進むはず。」
「だよね。よかった。次の章はどこ?」
「今ちょうど読んでたんだけど、22ページ。」
「ありがと。わたしも読んどこ。」
それから徐々に同級生が登校して来て、『おはよう』を言う度に教室が騒々しくなった。
『キン・コン・キン・コン・キン・コン』8時25分の予鈴が鳴った。
授業が始まる5分前だ。いつもの事だが、俺達はダラダラと席に着いて、1時間目の授業の準備を始める。と言っても、ランドセルから教科書とノートと筆記用具を机に出すだけだ。もちろん、あれば宿題も出す。ただ、朝一番はこの5分間が勝負の連中が居る。7、8人はこの5分間に教室に走りこんでくる。その度に軽い『おはよう』が聞こえる。それは、『間に合った』という安堵の声でもある。今朝はその中に順平も居た。息を切らして駆け込んできた。
『キン・コン・カン・コン』本鈴が鳴った。
「ハア、ハア、ハア。・・・あー、間に合った。」
「おはよう順平。ギリ、アウト!」
「えぇー。けど、先生まだ来てないからセーフだ。」
「だね。ラッキーだ。」
もうちょっとで『姉ちゃんのおかげだ』と言いそうになった。
「先生はいつもならもう来てんのにサ、今日は遅いんじゃね?」
「うん。」
「何かあんのか?」
「さあ」
「知ってんの?」
「そのうち分かるって!」
「教えろよ・・・ま、まさか小テスト?・・・聞いてないぜ!」
「そうかも知れないけど、違うと思うよ!。」
「ハぁー?、なんだぁー?・・・教えろよ!」
先生がなかなか来ないので、教室内がざわついてきた。皆それぞれに自分に不利な予感に襲われている。俺は少しワクワクしている。そこへ先生が入ってきた。
「よーし。全員席に着けー。静まれー。出席を取る。」
良く『水を打ったように静かになる』って言うけど、俺はそれがどんな事か知らない。きっと、騒いでいて聞こえない時に、水をぶっかけると静かになるって事なんじゃないかと思う。とにかく、先生のこの一声で教室は静かになった。先生は入ってきた入口を開けたまま出席を取り始めた。いつもよりテンポが速い。
「赤星」・「はい」
・・・
「中西翔太」・「はい」
・・・
「米田」・「はい」
こうして、先生は出席を取った。なぜか俺だけフルネームだった。
「居ないのは宮田だけか?居たら返事しろー!」
「・・・・・」
「じゃあ、入って!」
先生は入口に向かって手招きをしながらそう言った。すると、若草色のワンピースを着た大きな女子。つまり姉ちゃんが、紺色のランドセルを手に持って、恥ずかしそうに入ってきた。
「すまない。入口を閉めてくれ」
と先生が言ったので、姉ちゃんは入口を閉めた。
『アアーッ』『オオー』・・・『あれ、ハルちゃんだ』
教室の中に男女の驚きの声が拡がった。
「こっちに来て」
先生の手招きに従って、姉ちゃんは教壇の横に立った。
「知ってる人も多いと思うが、春香君だ! 1年生の時よりうんとお姉さんになったハルちゃんが『中西春香』になって帰って来た。」
先生はそう言ってお決まりのように黒板に名前を書いた。
「じゃあ、中西さんタッチ!」
姉ちゃんは少しほっぺたを赤くして、
「みなさん、おはようございます。『中西春香』と言います。3年ぶりに帰ってきました。前と同じように『ハルカ』でいいです。これからよろしくお願いします。」
そう言ってペコリとお辞儀をした。
「じゃあ、先生も『ハルちゃん』でいいか?」
「はい。」
「じゃあそうしよう。・・・でだ、大騒ぎにならんうちに言っておくが、」
と言いながら俺の方を見て、ニヤリとした。
「・・・翔太、立て!。」
俺は突然でびっくりしたが、言われたので仕方なく立った。
「えー、みんな驚け!、なんと、ハルちゃんは中西翔太のお姉さんだ。」
『ええぇー』『どういう事?』皆の驚嘆が教室中に響いた。
「翔太。何か言え!」と先生の無茶振りが来た。
「・・・えーっと。みんな、姉ちゃんをよろしくお願いします。」
・・・沈黙が流れた。マズい。滑った。てか、皆の期待はこんな挨拶じゃないらしい。
「えー、・・・俺達の親が結婚したんで、ハルちゃんが・・・『姉ちゃん』になりました。」
『ええぇー!』
「姉ちゃんをいじめる奴は俺が許さない。って言っても怖くないと思うけど、とにかく、姉ちゃんをよろしくお願いします。」
と言って、俺もペコリとお辞儀をした。すると、
「いいぞ!スシコン!」と順平が茶々を入れた。
「スシコンでもシスコンでも何でもいいです。俺達、今日からよろしくお願いします。」
「あれ?。今僕、『スシ』って言った?」
爆笑が巻き起こった。さすがだ。順平ありがとう。
『ハルちゃん久しぶりー』
『ハルちゃんお帰りー』
教室内の興奮は最高潮に達しようとしていた。
「よーし、旧交を温めるのはその位にして、もう静まれー!、あ、『旧交』わからんか?」
「三鷹台に止まらないヤツですか?」
「守口、それは『急行』。・・・とにかく、今日から4年3組は中西が2人になった。じゃあ、春香ちゃんは・・・」
先生は教室を見渡して、
「とりあえず、高野君の隣に座りなさい。」
俺はチビなのでたいてい前の方に座っている。順平は大きいので後ろが多い。空いているのは後ろの方だが、姉ちゃんも大きいので丁度いい。
「じゃあ、国語始めるぞー。22ページを開けー!」
姉ちゃんは、前の学校と教科書が違ったみたいで、新品のを開いて手で押さえている。
「まずは、そうだな、さっきボケてくれた守口、読んでくれ。」
「はーい。」
『待ってました』という感じで優子が立ち上がって読もうとした時、教室の後ろの引き戸が『ガラ、ガラ』とすまなさそうに開いて、宮田早苗が入ってきた。
「すみません。遅れました。犬に追いかけられて・・・という夢を・・・」
「そうか。わかった。早く座れ!。・・・今度その犬に遭ったら、先生が怒っていたと言っとけ!」
「はぁーい。」
「だが、宮田。惜しい事をしたな!。今日はビックイベントがあったんだぞー!。早起きは三文の得って云うんだ。」
「・・・?・・・」
「順平の横を見ろ!。」
早苗は訳が分からない様子で姉ちゃんをじっと見詰めた。そして、
「・・・えーっと、・・・誰?」
「あ、初めまして、中西春香です。」
「なんだ、知らんのか!。転校生の・・・まあいい。後でみんなに聞け!。22ページだ。じゃあぁ、お待たせ!守口、読んでくれ。」
こうしてようやく1時間目の授業が始まった。
授業中も皆姉ちゃんが気になるみたいで、後ろを振り向く奴が多かった。実は俺も頻繁に後ろを見た。その度に順平と目が合った。
給食は6人毎の班構成で食べる。俺は前の方の席だから姉ちゃんとは別の班だ。姉ちゃんは順平と同じ班で食べていた。なんか話が弾んでいるみたいで、楽しそうだった。ああ、良かったと思った。俺が姉ちゃんの方を見ると、姉ちゃんもこっちを見ている事があって、そういう時は何となく目配せをした。
給食を食べ終わって、昼休みになった。
順平がやって来て、
「翔太、後ろを見んなよ!」
「なんで?」
「寝る暇も、鼻くそほじる事も出来んじゃないか!」
「寝んな、ほじんな!、だいいち、姉ちゃんを気にしてるのは俺だけじゃ無いだろ!」
「まあな。でも、ハルちゃん人気だよなー。あれ見て!」
姉ちゃんは女子に取り囲まれている。その女子共が時々俺を見る。そして、なんか『ニヤッ』っとする。あいつらの中で、俺、どういう事になっているんだろう?。・・・と思っていたら、宮田早苗の声がした。
「中西君」
振り向くともうすぐ近くに来ていた。
「ちょっといい?」
「なに?」
「ハルちゃんと友達になったよ!」
「それは、どうもありがとう。姉ちゃんをよろしく。」
「うん。それで、ハルちゃんと話したんだけど、これからは女子はみんな『中西君』じゃなくて『翔ちゃん』って呼びたいんだけどいい?」
『エッ!』一瞬戸惑った。『何だぁ?』と思った。
「俺、ちゃん付け?」
「いいじゃん、可愛いんだから。」
「えっと、お前ら、なんかバカにしてないか?」
「そんな事ないよ。」
「そんなら、・・・まあ・・・別にいいけど。」
「不満そうだね。」
「いや、べつに、いいよ。それで。」
俺は話を切り上げようと早苗から視線を逸らせた。だいいち、早苗にまで『可愛い』なんて言われたのが悔しい気がした。すると早苗は姉ちゃんに言いつけるように大声を出した。
「ハルちゃん、なんか翔ちゃん、怒ったよー。」
姉ちゃんは女子共に取り囲まれているが、その人垣の上から背伸びするように顔を出して、
「ごめんね、翔ちゃん。やっぱ嫌だった?」
俺は早苗越しに姉ちゃんに向かって言った。
「嫌じゃないし、怒ってないって。」
「そぉお!、ありがと翔ちゃん。」
俺は怒ってない。けど、ちょっとイラッとしている。それはたぶん、姉ちゃん以外の女子みんなから『翔ちゃん』つって弟扱いされるのかと思うと、なんか・・・『なんか』な感じだ。何だろう。悲しいんじゃない。もちろん嬉しいわけがない。『なんか変』でもない。・・・なんか、『なんか』なんだ。・・・上手く言えない。『情けない』なのか?・・・わからない。
「翔太、いいなあお前。」と順平が言った。
「なんでだよ!」
「女子みんなからサ、『ちゃん』付けで愛されるんだぜ!」
「あのなあ。お前完全に面白がってんだろ!」
「とんでもない。羨ましいぜ!」
「嘘つけ!、その顔は、特にその目は面白がってる。」
「考え過ぎだって!」
「よーし、『順平ちゃん』って呼んでもらうように頼んでやんよ!」
「おいおい、僕を巻き込むのは止めてくれ!」
「ほらみろ!」
「ハハハ。けど、女子に普通に『カワイイ』って言ってもらえるお前が羨ましいのは間違いないから。」
「他人事だと思って!」
その日の夕食後、『机を動かしたいから』と頼まれて姉ちゃんの部屋に行った。姉ちゃんは学習机の右下からキャスター付のワゴンを引き出して、
「机と壁の間に隙間があるでしょ!、だから、机を壁にぴったりくっつけたいの。」
「わかった。」
俺は机の下に潜り込んだ。
「えぇ!、翔ちゃん、どうするの?」
「俺が背中で持ち上げるから、姉ちゃんが好きなように動かしてくれ。」
「あ、そう言う事ね。わかった。」
机は意外と軽く持ち上がった。
「姉ちゃん、動かしていいよ!」
「わかった。じゃあ押すよ!」
姉ちゃんが右斜めに押したので、机がコンと壁に当たった。その弾みに、本立てに乗せてあった柔らかい何かが床に転がって落ちた音がした。
「ありがとう、翔ちゃん。壁ピッタリになったわ!」
「じゃあ下すよ!」
「うん、いいよ!」
俺は机の下から這い出して、立ち上がった。姉ちゃんはさっき転がり落ちたぬいぐるみを胸の前に両手で抱えていた。
「あれ?それは『タヌキさん』じゃない?」
「そう、さっき落ちたの」
「なつかしいなあ」
「ダメよ! 返さないからね!」
「いや、そんな事思ってないから!」
「ほんと?」
「もう姉ちゃんにあげたものだからね。」
「ありがとう。・・・そう言えば、翔ちゃんはまだ持ってる?」
「何を?」
「あのとき私があげたボールペン」
俺はそのボールペンの事をすっかり忘れていた。たしか机の引き出しに仕舞ったような。
「・・・ちょっと待ってて!」
俺は向かいの自分の部屋に行って、一番上の引き出しの奥を探った。そして、ちぎったノートに包んだそれを取り出して姉ちゃんの部屋に戻った。
「あったよ!、ほらね。大切に仕舞ってあったんだ。」
俺は誇らしげにその包みを姉ちゃんに渡した。姉ちゃんは少し黄ばんだセロテープを丁寧に剥がして、包みを広げた。
「本当だ。あのボールペンだわ!」
「姉ちゃんも持ってんだよね。おそろで!」
「それがね、ごめん。わたし失くしちゃったの。」
「そっか・・・よかったらサ、それ返すよ!」
「どうして?」
「だって、お父さんにもらった大切なボールペンなんでしょ!」
「・・・うん。」
「そうだよ。俺が持ってるより、姉ちゃんが持ってる方がうんと価値があるよ。」
姉ちゃんは少しうつむいてボールペンを握りしめた。すると、突然姉ちゃんの頬を涙が伝って落ちた。それを見た俺はハッとした。
「ごめん。姉ちゃん、俺、気が付かなくてごめん。お父さんの事言ってごめん。」
「ううん、・・・違うの。」
「ねえ、謝るから泣かないで、俺・・・。」
「・・・ねえ翔ちゃん、これ返してもらうわ!いい?」
「もち。」
「それで、私の宝物にする。」
「ああ、大切な思い出だからね。」
「うん、どっちもね。」
「そうだね。タヌキさんも姉ちゃんの宝物の方が良いって言うよ。」
「違うよ!タヌキさんは別。」
「・・・?・・・どう言う事?」
姉ちゃんは大きな瞳に涙を残したまま微笑んだ。俺はホッとした。
「ねえ、できれば、ここに『しょうた』ってサインしてくれない?」
姉ちゃんが広げたノートの紙には、下手くそな字で、
『だいすきなハルちゃんとおわかれしました。』
と書いてある。
「ああぁ、それ!」
俺はその紙を取り戻そうとした。
「ダメ!。もう返さないから!」
「姉ちゃん、それは・・・それは!」
「翔ちゃん、ありがとう。わたし嬉しい。宝物にするわ。」
「えぇー・・・わかったよ。でも、人には内緒にしてくれる?」
「うん。・・・とりあえずはね。」
「ええぇー!」
こうして、俺は姉ちゃんにかなり強靭な『弱み』を握られてしまった。確かに、姉ちゃんは恩人だし、大好きな事には変わりないからまあいいけど、なんか、いざと云う時にはあのノートが出て来そうな気がする。