5-37 チョコをもらった日(その6)~泣いちゃうわよ~
小泉さんが運転するナタプロのワゴン車は人見街道、井の頭通り、五日市街道、青梅街道、環七、大久保通り、山手通りと、東京の西側に延びる道路網を縫って、40分程かかってナタプロの地下駐車場に到着した。道すがら、助手席の俺は半分仕方なく小泉さんに昨夜の特訓の内容を説明した。要するに、耳反応で150ミリ秒程度ある遅れを、脳内反応で50ミリ秒以下に高速化できるという俺独自の仮説だ。俺的には出来るだけ解り易く説明した積りだが、小泉さんの返事と言うか合いの手が何となく生返事っぽかったので、どれだけ正しく伝わったかは不明だ。後部座席の女子5人はヴァレンタインのガールズトークで盛り上がっていた。俺的には間違いなくそっちに参加したかった。
ワゴン車から降りてすぐ、ナタプロの近くにある蕎麦屋で天婦羅定食お蕎麦付きをご馳走になった。美味かった。それからスワイプ・イン・ドリームの3人と別れ、姉ちゃんと俺と彩香はナタプロがあるビルの1階の喫茶店でイチゴショートと紅茶で時間を潰した。今度は樋口さんの奢りだった。
「シヨウ君、有難うございました。」と樋口さん。
「あ、いえ、まだ本当かどうかわかりません。」
「きっと大丈夫よ。」と姉ちゃん。
「サヤもヒントを教えてあげたよ!」
「私も大丈夫だと思います。3人の表情がすごく輝いていましたから。」
「そうですか。」
「ええ、数日前は3人共疲れてしまっていました。特に円ちゃんは心配でした。」
「そうでしたか。」
「でも、どうすれば『どんくさい』のが1日やそこらで治るのかしら。」
「まさかとは思いますが、樋口さんもそう思ってるんですか?」
「いいえ、円ちゃん本人がそう思い込んでいるんです。」
「それを聞いて安心しました。なので、ゲームをプレイして自信をつけてもらいました。」
「ゲームでねぇ!」
「そうだ、上手く行ったら、お願いがあるんですが。」
「何でしょう?」
「円ちゃんにサプライズのお祝いをしてあげませんか?」
その時入り口の方から聞き覚えのある声がした。
「良いですよ、上手く行っていたら何でもいたします。」
西田社長だった。
「本当ですか?」
「もちろんです。成功報酬も弾ませてもらいます。」
「マジすか?」
「はい。マジです。」
例によって人懐っこい感じの皴皴の笑顔だった。その社長が俺達のテーブルの隣のテーブルに陣取ってコーヒーを注文した。確かに社長は笑顔なのだが、俺にはなんか不安が襲って来た。『上手く行ったら何でもしてくれる』とか、ゲームなら、ほぼ死亡フラグだ。
「そちらの可愛いお嬢さんは妹さんですか?」
「はい。彩香と言います。今年1年生になります。」
「そうですか。じゃあ年長さんだね。」
彩香は右手のパーに左手の人差し指を添えて西田社長に最大レベルの笑顔でカワイイ光線を放ち出した。
「うん。サヤ、6歳!」
「そうですか。」
西田社長の皴皴の顔が更にほころんだ。
「そろそろ時間ですわ!」と樋口さん。
「先に行ってください。私はコーヒーを頂いてから行きますから。」
俺達は社長にペコリとお辞儀をして喫茶店を出て、樋口さんを先頭に、ナタプロの4階の練習室に上がった。練習室の奥の1面鏡張りの壁の前には当然だがスワイプ・イン・ドリームの3人が居て、自主練習中だった。いつものレオタードで、たぶん、30分以上はストレッチやウオーミングアップをしていたのだと思う。俺達3人を見て笑顔で手を振った。もちろん俺達も小さく手を振った。
姉ちゃんと俺と彩香は休憩コーナーの姿見がある壁際に丸椅子を並べ、それに座って見学だ。小泉さんはスワイプ・イン・ドリームに少し近い位置で立ち見の様だ。樋口さんはデスク業務で6階に上がった。そしてついにその時が来た。2時半少し前、振付師の先生のご到着だ。
「おはようございまぁす。準備は出来てるのかしら?」
『はーい。おはようございます。』
「貴女達、返事だけはいつも良いのよね。」
『はーい。』
振付師の先生は3人を1人ずつ確認するように見渡した。
「まあ良いわ。始めるわよ!」
スワイプ・イン・ドリームの3人は加代ちゃんを中心にして最初のポーズをとった。すると、すぐに少し大きめのCDプレーヤーの演奏が始まった。インストゥルメンタルのホワイトレーベルCDRが入っているのだろう。どうやらこれがデビュー曲の様だ。ハイテンポのなかなかに良い曲だ。と思った瞬間、レッスン室に奇声が響いた。
「まあ、マア、まあぁ! どうしたのぉー、 お休みしている間に何があったのぉよぉ~!」
俺的にはスワイプ・イン・ドリームの踊りは完璧だった。3人の振りが完全に揃っていて、ディテールがピシッと揃って決まっていた。そして何より、3人の表情が輝いていた。
それから30分位、スワイプ・イン・ドリームの3人は繰り返し踊った。おそらく、カップリングと思われる曲も含めて。素人ではあるが、俺が見る限り全く乱れが無かった。振付師(のオネエ様?)の先生は口をパクパクしてリズムを取って、自ら振付を確認するように手足を小さく動かして、興奮の絶頂を極めたかの様だった。・・・やがてプレーヤーを止めた。
「明莉ちゃん。加代ちゃん。円ちゃん。ちょっと集まって頂戴。」
『は~い。』
スワイプ・イン・ドリームの3人が小走りに集まって振付師の先生の前に立った。3人共たぶん叱られるのを覚悟した表情だった。先生は3人を見渡す様にしてゆっくり口を開いた。
「わたしネ、『今日こそは』と思って色々考えて来たの。あれしようか、これしようかって。」
『・・・・・』
「嘘じゃないわよ! ほら、ここにメモがあるわ!」
先生は派手な赤や黄色の刺繍を施した紫色の所属プロダクションかダンススタジオのスタジャンのポケットから紙の切れ端を出して振った。スワイプ・イン・ドリームの3人はどう反応して良いか判らなかった。
『・・・・・』
「もう・・・全部無駄になったじゃなぁい! どうしてくれるのよぉ!」
『・・・・・』
「なんで黙ってるの! 私、泣いちゃうわよ!」
「・・・すみません。でも、どういう事ですか?」と加代。
「こんなに驚かされて・・・嬉しい事無いわ!」
「えぇ?」
「完璧じゃない。今まで私が教えた事が全部出来てるのよ! やれば出来るんじゃない!」
「あ、有難うございます。」
「ちょっと、円ちゃん。あなた、今まで意地悪してたんじゃないでしょうね?」
「そんな事してないですぅ!」
「明莉ちゃんも?」
「はい。してません。」
「・・・もっと近くに来なさいよ、3人共!」
スワイプ・イン・ドリームの3人は少し怯えた感じで振付師の先生に1歩近付いた。
『・・・・・』
「ハグするわよ! 小父さんで悪いけど!」
『ハイ!』
振付師の先生は汗が滴っている3人をまとめて抱き締めた。
「良いわよ貴女達! 最高だわ!」
スワイプ・イン・ドリームの3人はこの先生に初めて褒められた様子で、かなり嬉しそうだった。練習室の入り口付近で、例によっていつの間にか入って来ていた西田社長がゆっくり拍手した。それにつられて、姉ちゃん、彩香、そして俺も拍手した。小泉さんにも伝染した。振付師の先生も拍手していた。
「もう教える事は無いわ! これで完成ね。」
『先生、有難うございました。』
スワイプ・イン・ドリームの3人は振付師の先生に深々とお辞儀をした。
「貴女達にはサンザン悩まされたわ! でも、凄いわ! 教えた甲斐があったわ!」
「どうも有り難うございました。」と小泉さん。
「どういたしまして、こういう事が有るから、このお仕事辞められないの。」
「いやあ、小牧先生にお墨付きを頂けて、安心いたしました。」と西田社長。
「そうね。私もホッとしたわ! でも、この娘達を労ってあげて頂戴。1番頑張ったのは間違いなくこの娘達ですから。」
「はい。もちろんそうではありますが、先生のご指導あってこその結果ですから。」
「まぁ、まぁ、まぁ。社長さんは相変わらずお上手なんだからぁ!」
そこへタイミング良く樋口さんが入って来た。
「準備できました。皆さん6階のA-1に行ってください。」
「何の準備ですかー?」と明莉。
「貴女達のお祝いですよ!」
「えぇ~、有難うございますぅ。」
「あら、なんて段取りが良いアシスタントさんなの! 私も良いのかしら?」と振付師の先生。
「もちろんです。」と西田社長。
「まあぁ有難うございます。」
俺が樋口さんを見ると、にっこり微笑んだ。きっとお願いしたサプライズの準備も出来たと言う事だろう。すると、樋口さんに向けた俺の視線に笑顔の西田社長が割り込んだ。
「そうだ中西君、今日は帰る前に私の所に寄ってください。」
「あ、はい。わかりました。」
西田社長は皴皴の笑顔のままくるりと体を回して練習室を出て行った。俺は予期してなかった成功報酬に期待が膨らんだ。
樋口さんに促されて、姉ちゃんと俺と彩香は練習室を出た。樋口さんが上向きのボタンを押して、エレベータが来るのを待った。その横をタオルを首に掛けたスワイプ・イン・ドリームの3人が通った。
「サヤちゃん後でねー。」と明莉。
「うん。」
「ショウさん、マドカって言ってくれますよね。」
「ああ、良くやったマドカ!」
「ハイ、師匠!」
「こらぁ、ショウさんは私の師匠なんだからね。」
「私の師匠にもなってもらったですぅ!」
「あら、師匠は私じゃないのかしら?」
「もちろん先生も師匠ですぅ!」
「そうなの? でもお断わりよ!」
「えぇ~!」
「私は現代っ子だからお弟子さんはとらないの。」
こうして、スワイプ・イン・ドリームの3人と振付師の先生と小泉さんはエレベーターホールの横の階段を賑やかに5階に上がって行った。5階にはタレント控室やシャワールーム等があるからだ。ちなみに、5階のエレベーターホールの先のドアはゲストカードではNGが表示されて開かない。通るには社員さんか所属タレントのエスコートが必要だ。
「大成功だったね。」と姉ちゃん。
「3人共素晴らしかったですわ!」と樋口さん。
「まあ、予想はしてたけどね。」と俺。
「嘘だぁ! けっこう心配顔だったよ!」
エレベータが来てドアが開いた。俺達はそれに乗った。樋口さんが最後に乗って6階を押した。
「うん。実は少し不安だった。振付を練習したって訳じゃなかったからね。」
「サヤは予想通りだったよ!」
「どうして?」と姉ちゃん。
「だって、円姉ちゃん、朝から楽しそうだったもん。」
「そうだったわね。」
「どんなゲームしたのですか?」と樋口さん。
「俺がアレンジしたリズムゲームです。」
エレベータが6階に到着してドアが開いた。
「そうですか。詳しい事は後で伺いますわ。」
「はい。」
会議コーナー、A-1に入るとお寿司パーティーの準備が出来ていた。2つの応接セットのローテーブルにそれぞれフィルムラップで覆いをした寿司の大きな丸い入れ物が置かれ、その横には紙コップ、紙皿、醤油や割り箸もまとめて置いてあった。入り口側の突き当りの花瓶台の上には花ではなくポットと急須、下にはジュースのペットボトルが数本入った段ボール箱がスタンバイしていた。
「ここで少し待ってて。」
「はい。」
「あ、お茶はあそこにあるからセルフで入れてくれる?」
樋口さんは花瓶台を指さした。
「はい。」
樋口さんは笑顔で合図してからA-1から出て行った。俺達は入り口に近い方の応接セットの奥側の3人掛けのソファーに彩香を間にして、姉ちゃんが彩香の右で俺が左に座った。
「久しぶりだね。ここ。」
「クリスマスの前だったわね。」
「そうだったね。あの時は時間が無くて焦った。」
「プロダクションの人たちって凄いよね。」
「どういう事?」
「皆、テキパキして、時間のせいとかにしないで、結局全部上手く出来ちゃうんだから。」
「だよね。大人だし、諦めないしね。」
「うん。チームワーク・・・なのよね。」
姉ちゃんと俺はしばらく感慨にふけった。彩香は退屈そうに姉ちゃんに凭れかかっていた。
「あの時もなんか上手くいったし、今度も大成功だし。翔ちゃんすごいよ。」
「俺は特別な事は何もしてないよ。結局は周りの皆が頑張ってくれて・・・」
「そうね。そうかも知れないけど、いつも翔ちゃんが切っ掛けだわ。」
「そうかなぁ。きっとこう云うのを『お節介』って言うのかもね。」
「良いお節介だわ! 翔ちゃんは自慢の弟よ!」
「姉ちゃん、どうしたの? なんか変なフラグ立ちそうだ。」
「もう、素直じゃないのね。」
「ねえ、変なフラグって?」と彩香。
「良くないデスティニーを示す旗の事さ。」
「デスティニーって?」
「宿命だね。進むべき道筋みたいなものさ。フラグはその印ってとこかな。」
「宿命って?」
「フフッ、ムズい事になって来たわね。翔ちゃん。」
俺はプライドに掛けてここは説明しきらねばと思った。
「そうだな、避けられない未来かな。」
「ふう~ん・・・良く分んない。」
「やっぱ、そっか!」
「お茶入れよっか!」
「そうだね。」
姉ちゃんは立ち上がって、花瓶台に行き、急須にお茶っ葉とポットのお湯を入れた。彩香と俺は中腰になって目の前に紙コップを並べた。姉ちゃんと俺と彩香は熱いお茶を飲みながらまたしばらく待った。
「ねえ、社長さんの所へ行くの?」
「うん。楽しみだ。」
「なんかもらうんでしょ? サヤにもくれる?」
「そうだな。サヤも頑張ったからね。」
「えへへ。」
「私はあんまり沢山だったら遠慮した方が良いと思うの。」
「だね。親切のつもりだったからね。」
「そうよ。円ちゃんに悪いわ!」
「そっか。わかった。ありがとう姉ちゃん。」
「うん。わかれば良し。」
「という訳だ彩香。」
「なんか良く分んないけど、仕方ないよ。」
「彩香は賢い。感覚的に理解してくれた。」
「えへへ。」
姉ちゃんと俺と彩香は肩を抱き合ってお互いに微笑んだ。