5-33 チョコをもらった日(その2)~緑探偵社~
俺は結局円ちゃんを吉祥寺まで送って行き、JRの改札口で手を振って見送った。それから、急行に乗って久我山に戻り、コインロッカーから紙袋を取り出して帰った。6時半を少し過ぎていた。
俺がチョコの仕分けをしていると彩香が入って来た。
「お兄ちゃん、チョコいっぱいだね。」
「うん。今年も大漁だぁ!」
「サヤにもくれる?」
「うん。海蛇やカサゴを取り除いてからね。」
「?・・・わかんな~い。」
「つまり、安全なのを確認してからね。」
「は~い。」
そう言うと、彩香は興味津々で俺の右横に張り付いた。俺はまず、加代ちゃん、ケイちゃん、雫ちゃん、円ちゃんと1人ずつ確認しながら、チョコの写真をスマホで撮ってひとまず上から2番目の引き出しに仕舞った。特別枠のチョコだ。それから姉ちゃんに借りた白い紙袋の中身をガサッと机の上に山にして出して、1つずつくれた人が判る物にグリーンの付箋紙を付けて、メッセージカードの有無も確認して、写真に撮って段ボール箱に入れた。その作業が半分程進んだところでインターホンが鳴った。母さんの声だ。
『ごはんよ!』
『はーい』
「サヤ、とりあえずここまでだ。」
「うん。みんな安全そう?」
俺はまだ確認してないチョコを紙袋に戻して、
「ああ、結構ある。」
「わーい!」
俺と彩香は嬉しい視線を交わした。彩香の笑顔は相変わらず可愛い。俺はスマホを持って、彩香に手を引かれて1階に降りてダイニングに向かった。途中洗面台に寄って手を洗った。チョコを触ったからって事ではない。食事の前の習慣だ。一家揃っての夕食になった。今夜のメインディッシュは焼き魚『赤魚の粕漬』だ。白菜の漬物によく合う。それから、豆腐と葱の味噌汁が暖かくて美味い。軽く2膳は食べれる。
「お兄ちゃんがいっぱいチョコ貰って来たよ!」
「良いわね。」と姉ちゃん。
「今年もくれるって。」
「ああ、くれた人を確認してからね。」
「その程度で大丈夫か?」と親父。
「誰がくれたか判らないのは処分するのよね。」と母さん。
「うん。でも、市販品なら包装の具合を見て食べてもOKだと思う。」
「そうね。捨てるの勿体ないものね。」
「何でも良いけど、十分に気を付けてくれ。」
「基本、恨まれるような事はしてないから大丈夫さ。」
「用心に越した事は無い。」
「うん、わかった。」
「しばらくお菓子は買わなくても良さそうね。」と母さん。
「うん。今日からチョコ尽くし。」
「サヤが手伝ってあげる。食べるの。」
「おお、頼む。」
「9時までよ! それから、ちゃんと歯磨きする事!」
「お姉ちゃん、お母さんみたい。」
「その通りよ、お母さんも同じ事言おうと思ってたわ!」
「はあ~い!」
少し沈黙が流れた。皆食べる事にしばし専念した。俺は円ちゃんの事を切り出すチャンスだと思った。
「俺、明日、スワイプ・イン・ドリームの円ちゃんを家に泊めたいと思うんだけど。」
「どういう事?」と母さん。
「うん。円ちゃんが悩んでいる事が有って、その相談に乗ったんだ。」
「どんな悩みなの?」
「それが、『どんくさい』って悩みなんだ。」
「あら、それは大変な悩み事だわね。」
「思い込みだと思うんだ。だから、それを払拭する特訓をしてあげようと思う。」
「どうするつもりだ?」と親父。
「自信を持てればいいと思うんだ。ゲームか何かで。」
「そう上手くいくか?」
「わからない。」
「まあ、ダメ元であがいてみるのも良いかもな。」
「じゃあ、泊めても良いよね。」
「翔ちゃんの部屋に?」
「まさか!」
俺は姉ちゃんを見詰めた。姉ちゃんは溜息モードだ。
「・・・良いわよ。」
「ありがとう、姉ちゃん。」
「円姉ちゃんならサヤの部屋でも良いよ!」
「そうだな。イザとなったら頼むよ。」
「イザって?」
「春香姉ちゃんと円姉ちゃんが喧嘩するとか。」
「そんな事無いから安心して頂戴!」
「と思います。」
「そうだ、翔ちゃん。たぶんこの事と関連が有るから、後で詳しく教えて欲しい事が有るわ!」
「ん?・・・良く判らないけど、良いよ!」
姉ちゃんを見るとかなり意味深な笑みを浮かべていた。何だろう。なんか妙な胸騒ぎがした。だがその時、俺のスマホがメールを受信した。俺はグッドタイミングと思って、視線を姉ちゃんからスマホに移してメールを開いた。
「翔ちゃん、噂をすればじゃない?」
「いや、明莉ちゃんから。円ちゃんを確保したって。」
「どういう事?」
「円ちゃんは明莉ちゃんには何も言わないで来たらしい。明莉ちゃんから円ちゃんの捜索メールが来てた。」
「一緒に居るって知らせてあげたの?」
「俺からは言い難いから、円ちゃんに『明莉ちゃんが心配してる』って言った。」
「そう。」
俺はこの時、姉ちゃんとのこの会話に違和感を感じなかった。俺はこの時点でもまだ冷静さを失っていたのかも知れない。俺は明莉ちゃんのメールの続きを読み進んだ。
「あれ、明日、明莉ちゃんも一緒に来たいって言ってる。」
「2人でも良いわよ!」
「本当?」
「うん。」
「母さん良い?」
「ええ、大丈夫よ。」
「明莉ちゃんって、この前のナタプロの娘か?」
「うん。」
「そうか。」
「お父さんも歓迎みたいね。」
「そうだな。」
「わーい。トランプ用意しとこう!」
「じゃあ、OKのレスするよ。」
その夜9時前、姉ちゃんと彩香は俺の部屋に居た。いつもの様にお揃のパジャマだ。3人共部屋の中央に座って姉ちゃんの折り畳み足の小机の上にチョコを並べて食べている。母さんと姉ちゃんと彩香が親父と俺に作ってくれたチョコは既に包装紙だけになっている。加代のミルクチョコとビターチョコとホワイトチョコのボールは残り数個になっている。ケイちゃんと雫ちゃんのチョコは市販のミルクチョコのヴァレンタイン版で、ケイちゃんのがクラッシュアーモンドで雫ちゃんのがストロベリーだ。どうやら2人仲良く一緒に買って来たのだろう。どちらも1欠けら残っている。円ちゃんがくれたラッテの板チョコ3枚も残り1枚と少しになった。
「サヤちゃん、お口の周りがチョコだらけだわ!」
姉ちゃんが彩香の口をウエットティッシュで拭く。それを見て、俺は右手で自分の唇を確かめる。指に着かないから安心していると、姉ちゃんは俺の顔をチラッと見た後、胡坐の足下に視線を移動して、
「翔ちゃんは・・・零している。」
そう言って、彩香の口を拭いたティッシュでカーペットのチョコも優しく拭き取った。
「かたじけない。」
「どれが1番美味しかったかしら?」
その質問には考えるまでも無く答えは決まっている。
「それはやっぱ、母さんと姉ちゃんと、それから彩香のだね。」
「模範解答ね。」
「まあね。」
「3人分の愛情の味だからねー。」
「へぇー、サヤはそんな台詞どこで覚えたんだ?」
「夕方お姉ちゃんに教えて貰ったよ!」
「なるほど。春香姉様の入れ知恵でしたか。」
彩香はドヤ顔だ。姉ちゃんと俺は見詰め合って互いに微笑んだ。
「加代ちゃんは流石ね。」
「うん。ビターとホワイトを一緒に食べると特にマッタリ感が良い。」
「高級な材料だと思うわ。」
「だね。」
「サヤお腹一杯。眠たくなった。」
「あら大変。歯磨きに行きましょ!」
「お腹一杯チョコ食べて眠くなるなんて滅多に無い事だね。」
「チョコ食べ過ぎると昔の子供は鼻血が出たらしいわよ。」
「ほんと? それいつの時代の話?」
「母さん達が子供の頃かしら。母さんに聞いた様な気がするわ!」
「ふう~ん。」
姉ちゃんと彩香と俺は軽く片付けて、1階の洗面台に行って歯磨きをした。親父はまだリビングでテレビを見ていて、母さんもキッチンで洗い物の仕上げでコップを拭いていた。
「あら、3人揃って。」
「サヤちゃんが眠くなったので歯磨きに来たの。」
「そう。じゃあサヤちゃんは下で寝る?」
「うん。」
「お休みサヤちゃん。」
「おやすみお姉ちゃん。お兄ちゃん。」
「ああ、おやすみ。」
母さんは彩香を連れて寝室に向かった。俺はさっきの疑問を無意味だと思いつつ親父にぶつけてみた。
「ところで親父、チョコ食べ過ぎて鼻血出た事あるか?」
「その話は聞いた事はあるが、鼻血が出るほど食べた事が無い。」
「それってどれ位?」
「バケツ1杯位じゃないか?」
「だとしたら食べ切れない量だね。」
「だろうな。気持ち悪くなるまで食べるなって事だ。」
「だよね。」
まあ、当たり前の結論だった。
姉ちゃんと俺は2階に上がって、夫々の自室に戻った。9時半過ぎだった。俺は明日の授業の準備をして、円ちゃんの特訓のプランを考え始めた。その時、姉ちゃんが俺の部屋に来た。
「翔ちゃん、良い?」
「うん。」
姉ちゃんは部屋に入ると、そっとドアを閉めて振り返った。枕を左脇に抱えて、左手にスマホ、右手にノーパソを持っている。姉ちゃんはベットに座って、ベッドの奥側に枕とスマホを置いて、膝の上でノーパソを拡げて起動した。その様子を黙って見詰めていると、姉ちゃんが俺を見てなんかワザトらしく微笑んだ。
「お泊りですか?」
「そうね。」
「そのノーパソは円ちゃんの『どんくさい』を払拭するゲーム?」
姉ちゃんはなんか上の空っぽい。
「その前に翔ちゃん、ちょっとこれ見てくれない?」
「何?」
俺は姉ちゃんの左横に密着して座ってノーパソのディスプレイを覗き込んだ。可愛い猫の壁紙なのだが、ほぼ全面がアイコンで埋め尽くされている。姉ちゃんはその中の1つのアイコン『緑探偵社』をダブルクリックした。そのフォルダが開くと、なんか嫌~な予感がするサムネイルアイコンが5つ並んだウインドウがポップした。姉ちゃんがその最初のファイルアイコンをダブルクリックすると、ピクチャービューアプリが起動して、最初の4枚の写真がディスプレイ一杯に表示された。驚愕のスナップだった。
「左上の写真は円ちゃんよね。手前の男の人の後姿は翔ちゃんみたいね。」
「そ、そうだね。ところでこれ、誰が撮ったの?」
「緑探偵社よ!」
「あぁ~、緑ちゃんですか。尾行されてたって事だね。」
「つまり、この写真に写っている人物は円ちゃんと翔ちゃんで間違い無いのよね。」
姉ちゃんの目は少し険しくて、婦警さんの尋問モードになっている様な口調だった。
「えーっと、ハイ。間違いありません。」
「2番目の写真はワイドにしてあるから、改札口も写ってるよね。」
「そうだね。」
「ここ、見覚えがあるけど、高井戸じゃないかしら。」
「正解です。この写真は高井戸駅の改札周辺のごく平凡な風景の様です。」
姉ちゃんは体をねじって、枕元のスマホを背伸びをするようにして取った。その時俺はノーパソが姉ちゃんの膝から落ちない様に支えた。姉ちゃんはスマホを点けて受信BOXの俺のメールを開いた。
「翔ちゃんがくれたメールには2つ間違いがあると思うの。」
「えーっと、1つは東中野に行くという事ですよね。」
「そうね。」
「もう1つは何でしょう?」
「円ちゃん達と会うってところ。」
「あ、あぁ。円ちゃんだけでした。」
そう言って姉ちゃんを見ると、目の険しさが増していた。
「姉ちゃん、目が怖いけど。」
「そうね。でも原因は翔ちゃんの行動の方にあると思わない?」
「はい。そうです。その通りです。」
数秒間のかなり気まずい沈黙が流れた。
「姉ちゃんごめん。色々あってね。結果的に嘘をついたみたいになったけど、順を追って説明と言い訳をしたいと思いますです。」
「説明は聞きたいけど、言い訳は聴きたくないわね。」
「御意!」
俺は立ち上がって、机の上に置いてあった俺のスマホを取って来た。そしてメールアプリを起動した。
「まず、受信BOXですが、円ちゃんのメールの方が姉ちゃんのメールより数時間後だという事を確認してください。」
「うん。確かにそうね。」
俺は円ちゃんのメールを開いた。
「円ちゃんは、『待ち合わせ場所を高井戸に変更』と書いてます。」
「そうね。」
俺はそのメールを閉じて、
「次に、送信BOXですが、姉ちゃんに返信した時刻が円ちゃんに返信した時刻より早い事をご確認願います。」
「メールの並びから言えば翔ちゃん言う通りだわね。」
「つまり、姉ちゃんに『東中野に行く』とレスした後で待ち合わせ場所の『高井戸』変更に同意したという事なのであります。」
「お姉ちゃんには変更の事実を知らせる必要を感じ無かったって事よね。」
「誠に申し訳ありません。ご報告を怠り、そして忘却しました。」
「舞い上がってたのかな?」
「かなり。」
実は俺の罪は少し重い。姉ちゃんに報告しない判断をした時の俺の気持ちは、さっきの説明とそれを信じてくれた姉ちゃんの理解と若干違うからだ。
『東中野に行く』
と言った直後に
『高井戸に変更』
と言うと、勘の良い姉ちゃんが
『高井戸なら私も行く』
と言いかねないと思ったのだ。その時の俺は
『ショウさん1人で来て欲しいですぅ!』
という円ちゃんの最初のメールに気持ちが支配されていたと思う。確かにそれは舞い上がってた結果と言われればそうなのだが・・・。
「私、翔ちゃんに悪気が無いのは判ってるの。でもちゃんと説明して欲しいの。」
「うん。ごめん。これからはちゃんと相談します。」
「それでね・・・」
俺は緩みかけた緊張を巻き戻した。
「私のメールはなんでこんなに放置されたのかなぁ?」
「すみません。最初のメールを出した直後に加代ちゃんにチョコを貰いました。」
「それとメール放置とどういう関係?」
「だから、加代の相手をするために、スマホをバックに仕舞いました。」
「それから放課後までチェックしなかったのね。」
「仰る通りです。」
「でも変ね。」
流石は姉ちゃん。おそらく俺が感じた違和感と同じ物を感じている。
「加代ちゃんがチョコをくれたのなら、円ちゃん達の中に加代ちゃんが入らないのよね。」
「流石だね。俺も変だと思った。それで一瞬考えた。だけど、加代が怒ったんだ。」
「何で?」
「私のチョコは要らないのかって。」
「なるほどね。加代ちゃんらしいわ!」
「それで違和感を残したまま事が進んだ。」
「なるほどね。」
「もう少し深く考えれば良かった。」
少し沈黙が流れた。
「円ちゃんが集合場所を変えたメールには気が付いたんだ。」
「うん。下駄箱の所だったから。だから慌てて姉ちゃんのメールに先にレスしました。」
「翔ちゃんがメールチェック忘れるのはよくある事よね。」
「へい。好意的なご理解有難うございます。」
「褒めて無いから。」
「へいへい。」
「まあいいわ! 最初の2枚の写真の意味は理解できたわ!」
俺は形勢逆転のチャンスが到来したと思った。
「えっと、俺の質問可能ですか?」
「言ってみて、それから判断するわ!」
「緑探偵社は春香姉様の要請ですか?」
「いいえ偶然のスクープよ!」
「どこからつけて来たんだろう。」
「緑ちゃんは高井戸にお住いの伯母様に用事が有ったそうよ!」
「大した用事じゃ無かったみたいだね。」
「何言ってるの! 質問はそれだけ?」
「声掛けてくれれば良いのにね。」
「円ちゃんと翔ちゃんの2人きりだったから、それは無理よ。」
「だね。」
「じゃあ、次の2枚よね。」
「まだ疑問が?」
「ここはコーヒー専門店の入口よね。ここに入ったんだ。」
「へい、その通りです。」
「皆が待ってると思ったの?」
「いいや、円ちゃんだけだと判って、立ち話じゃ寒いから取り敢えず喫茶店に。」
「なるほど。で、円ちゃんはどんな用件だったの?」
「ひとつはチョコをくれる事だったけど、それは本質じゃなかったみたい。」
「そっか。」
「色々話してる内にそれが解った。」
「どんな事だったの?」
「この前の吉祥寺北口でやったプレクリコンでリズムをスローにした事で叱られたらしい。」
「先生が来てたの?」
「いや、Vを見たそうだ。」
「そうだったの。」
「うん。プロのリズム感じゃ、あれは駄目らしい。」
「そっか。それでスワイプ・イン・ドリームの中で浮いちゃたのね。」
「いや、何も言わないんだって。加代ちゃんも明莉ちゃんも。」
「2人が優しいから、かえって辛くなったのね。」
「らしい。そこまで話をして泣き出した。」
「それで翔ちゃんのお節介になった訳ね。」
「うん。円ちゃんは心が折れそうなんだと思った。」
「そっかぁ~!」
「どうして俺にそこまで話してくれたかは解らないけど、聞いてしまったから。」
「翔ちゃんは自覚無いかもだけど、結構頼りになる人なのよ。」
「そうなの?」
「うん。いつも良い方に引っ張ってくれるわ!」
「それはどうも。でも俺自身は大抵な~んにもしてないんだけどね。」
「それが不思議よね。木村先輩はすごーく優しくて癒してくれそうな感じがするけど、翔ちゃんは優しいだけじゃなくて、何とかしてくれそうな気がするのよ。」
「それ、加代が言ってた『押し付けがましい』ってやつだろ?」
「だけど、頼っても良いかなって気になるから不思議だわ!」
「ふう~ん。」
「それが翔ちゃんの優しさなの。」
「それはどうもありがとうでござる。」
そう言って姉ちゃんを見ると、険しい目つきが融けて優しい微笑みに変わっていた。俺は危機を乗り切ったと思った。もともと疚しい事はしてないから当然の事だ。だが、まだ最後の障壁が残っていた。それは今夜最大のラスボス的障壁だった。