5-29 魅感を解散した日
12月24日。クリスマスイブの午後5時半、もうすっかり暗くなって、久我山坂上商店街のイルミネーションが鮮やかに輝き始めていた。俺達魅感の3人と彩香が撤収の片付けを済ませて、商店会広場の小さな仮設ステージから降りて、例によって姉ちゃんが俺のギターのソフトケースを、俺が姉ちゃんのキーボードのソフトケースを背負って、それから彩香がエコサのタンバリンをシャラシャラ言わせながら広場に出た。すると、周囲にまだ残って居た人達と商店会の青年団の人達が疎らな拍手をしてくれた。俺達魅感はその人達にお辞儀をした。彩香は少し照れた様にして姉ちゃんにくっ付いていた。その拍手をしてくれた人達の中に順平とナッちゃんが居た。
「彩ちゃん、トトロとポニョのお歌、上手だったよー!」
「あ、ナツ姉ちゃん。来てくれたのぉー。」
「うん。来たよー・・・相変わらず可愛いねぇ。」
ナッちゃんはそう言うと、彩香をハグして、そのまま手を繋いだ。
「清田さん、久しぶりです。」と加代。
「田中さん、私の事、ナツで良いですよ!」
「じゃあ、私はカヨで。」
「はい。」
ナツと加代の様子を笑顔で見ていた姉ちゃんが、
「ナッちゃん、ありがとう。でもどうして?」
「商店会のパンフを見たの。」
「そっかぁ。」
「デートの締めくくりも兼ねてね。」
「あら、ご馳走様。どこへ行ってたの?」
「渋谷。」
そう言うとナッちゃんは左手の甲を顔の高さに上げて、薬指のリングを姉ちゃんに見せた。
「あら、素敵なリング・・・順平君?」
「うん。」
「私達もほら。」
姉ちゃんと加代も左手の甲をナッちゃんに見せた。ナッちゃんと姉ちゃんと加代は微笑んで見詰め合った。
「ナツ姉ちゃん、サヤもしてるよ!」
「あら、本当だ。誰に貰ったの?」
「お兄ちゃん。」
「へぇー。」
「大きくなったら、もっと大きいの買ってもらうんだよ!」
「そう、それは良いね。流石シスコンお兄ちゃんだね。」と加代。
「シスコン?わかんない。・・・でも、お兄ちゃんのお嫁さんになってあげるんだよ。」
「そっかぁ~可愛い!」
加代は彩香抱く様にして頭を撫でながら、俺に『変態』とでも言いたそうな視線を投げて来た。俺はそれを首を傾げてスルーした。そして、女子共の会話を聴き流しながら順平に礼を言った。
「順平、来てくれてありがとう。」
「いやいや、流石翔太。良かったよ。」
「でも今日で終わりだ。」
「どういう事?」
「これで解散するんだ。魅感。」
「そっか。残念だけど仕方ないかもな。」
「ああ。」
「そうだ、これからエコサで打ち上げするんだけど、2人も来ない?」
「良いけど邪魔じゃないか?」
「そんな事無いって。ナ!」
そう言って加代を見ると、笑顔で頷いた。
5分後、彩香と姉ちゃんと俺、そして順平とナッちゃんはエコサの206号室に入った。加代は1度家にあがると言って6階に行った。206号室には既に寿司と飲み物のペットボトルとスナック類が並べられていた。そして、部屋の1番奥にはツリーが置かれて、LEDの電飾が点滅して輝いていた。姉ちゃんと俺はそのツリーの横の壁にギターとキーボードを立て掛けて置いた。俺達5人がコートや上着を脱いで座ると、まもなくマスターお父さんが入って来た。俺達はまた立ち上がった。
「ご無理をきいて頂いて、どうも有難うございました。そして、お疲れ様でした。」
「あ、いえ。久しぶりに魅感でライブできて楽しかったです。」
「サヤも楽しかった。」
マスターお父さんは彩香をくしゃくしゃの笑顔で見詰めた。
「有難う彩香ちゃん。彩香ちゃんが可愛いって、大評判でした。」
「えへへ!」
姉ちゃんが彩香の頭を撫でながら、大きな瞳を動かして俺とテーブルを交互に見た。つまり、俺に何か言えと言う事だ。
「こんなに沢山準備して頂いて、どうも有り難うございます。」
「いえいえ、とんでもありません。謝礼をお出ししたいのですが予算がありませんで。」
「謝礼だなんて。これでも十分過ぎる位です。」
「いえいえ、加代ももうプロですし、それもこれも皆さんのお陰ですから。」
「それでは遠慮なく頂きます。」
「はい。そうしてください。」
そこへ加代が入って来た。
「お待たせー!」
入れ替わりにマスターお父さんが出て行った。すれ違い様にマスターが加代に何か言った様だった。加代は了解したという感じだった。そして、加代は彩香を見て、
「彩ちゃん、お疲れさまぁ!」
「サヤは全然疲れて無いよ!」
「彩ちゃんは元気だねぇ!」
「うん。」
加代は入り口側に座りながら、
「皆、立ってないで座ってよ。あ、翔太以外は。」
「ん? それってなんかの罰ゲーム?」
俺が座ろうとする皆を見渡すと、姉ちゃんが、
「違うよ、翔ちゃんはまだ座らないでする事があるでしょ!」
俺は一瞬考えて、
「また俺ですか!」
「よろしく翔太!」と加代。
順平がいつもの悪戯小僧の満面の笑顔で『ざまーみろ』視線を繰り出して俺を見ていた。俺はいつもの様にそれを仕方無く受け取って、
「それじゃあ、乾杯をします。飲み物を準備してください。」
皆は好みの飲み物を紙コップに注いだ。姉ちゃんは彩香にオレンジジュースを注いだ後、
「翔ちゃんは何にする?」
「じゃあ、コーラで。」
俺は姉ちゃんから紙コップを受け取って皆を見渡した。皆も俺を見詰めている。一瞬の沈黙が流れた。
「翔太、ボケんな!」と順平。
「おっと、見切られたか!」
「お決まりだかんな!」
「それでぇは、魅感の解散式を兼ねまして、この1週間のクリスマスイベントの打ち上げをしたいと思います。」
加代と姉ちゃんが深く頷いた。
「魅感、お疲れ様でした。そんで、今日で発展的に解散します。・・・乾杯!」
『カンパーイ』
そして皆が拍手した。その後、ローテーブルの上の料理を食べながら約2年間の思い出話に花を咲かせた。
「なんで魅感になったの?」とナツ。
「久我高祭にエントリーするのにユニット名が必要だったの。」と姉ちゃん。
「初めは『ええぇー』って感じだったけど、慣れるとまあ良い名前だったよね。」と加代。
「最初は俺の提案だったんだ。『美魅漢』ってね。」
「耳みたいで嫌だったわ!」と姉ちゃん。
「どっちが『美』かでもめたっけ。」
「そうよ、『どっちでも良い』なんて失礼だわ!」
「へいへい。」
「結局どういう意味なの?」とナツ。
「魅力的な女子と感じが良い男子って事にしたわ!」
「まあ、こじつけだぁ!」と加代。
「昨日の吉祥寺北口のライブ、凄かった。」と順平。
「サヤもお父さんと見に行ったよ!・・・けど、すごい人だったから見えなかった。」
「あぁ~そいつぁ残念だったね。」
順平は彩香の頭を軽く撫でた。
「でも聴こえたよ!」
「あんなに集中して練習したの初めてだったわ!」と姉ちゃん。
「1番ビビってたのは・・・」
加代はそう言って俺を見た。
「ロケバスの中で足が震えた。それがだんだんひどくなって。」
「緊張で引き攣った翔太の顔初めて見たよ。」
「ああ、世話になった。」
「ん? どういう事?」とナツ。
「うん。加代と姉ちゃんのハグで落ち着かせてもらった。」
「明莉ちゃんと円ちゃんもね。」
「まあね。」
「なんだかナ、それってハーレム?」と順平。
「そんなぁパラダイスじゃないよ。気合入れサ、気合!」
「翔ちゃんは中学の大会の時もそうだったわね。」とナツ。
「あぁ、そんなことも有ったっけ!」
「ドスケベ翔太にビックリしたわ!」
「いやいや、後輩に元気出させる作戦だったんだ。」
「そうかしら?」と姉ちゃん。
「コホン!・・・そう言えば、最近ナッちゃんは大活躍だよね。テニス。」
「そうでも無いよ。けっこう好不調が激しくて。」
「でも新聞に出てたよね。」
「うん。あの時は調子良かったから。」
「あの時は順平君が応援に行ったのよね。」と姉ちゃん。
「あ、うん。」
「学校サボってナ!」
「やっぱり彼女が活躍するのっで嬉しいんでしょ!」と加代。
「ま、まあね。」
「ナッちゃんも実力以上の力が出たんじゃないかしら。」と姉ちゃん。
「それは無いかも。でも緊張が少し解れる様な気がするわ!」
「それはどうもです。」と順平。
「つまり、俺と同じじゃん!」
と言ってナッちゃんを見て同意を求めると、少し呆れ顔だ。
「翔ちゃんにそう言われると、なんか悔しいけど、そうかも。」
「お兄ちゃんもお姉ちゃんンもテニス上手だよね。」
「ああ、中学の時はナッちゃんと同じ位強かったんだぜ!」
「へぇ~、サヤも中学になっらたテニスしよっかな!」
「ああ、それが良い。」
こうして、ひとしきりこの1週間のとんでもない忙しさや思い出話が出尽くして、ようやく、これからの現実の話になろうとしていた。
「翔太達は年末年始はどうするんだ?」
「明日から30日までと、年明けの2日から6日までのトータル10日間は冬期講習の予定。」
「スゴイな、もう全力疾走か。」
「そんなんじゃ無いよ。とにかく、『受験勉強の専門家』って言う塾の主事さんって人の話しを聞くのが目的。」
「ふぅ~ん、・・・って事は正月は元旦だけか。翔太と会えるの。」
「うん。姉ちゃんも同じ。」
「そっか。」
「何かあんのか?」
「ああ、特別な事があってな!」
「特別? 何があるんだ?」
「ナッちゃんの晴れ着姿は今度の正月限りでしばらく見れないんだ。」
「そっか、再来年はそんな気分じゃないって事だね。」
「たぶんな。」
「大学で着れば良いじゃん。」
「次着るのは成人式らしい。」
「へぇ~、そっか。」
「順平君と翔ちゃんは何の話をしてるのかな?」と姉ちゃん。
「ハルちゃんは振袖着るの? 今度の正月。」
「あ~、そうね。どうしようかしら。」
姉ちゃんは俺を見てワザとらしく微笑んだ。俺は出来れば着て欲しいが、女子が振袖を着るのには覚悟が要ると思う。
「俺の意見が必要?」
「参考にするわ!」
「じゃあ、遠慮なく言うけど、着て欲しい。」
「そっかぁ。翔ちゃんのリクエストじゃ仕方ないかな!」
「おい、参考だって言ったじゃん。」
「そう言わないと正直に言わないでしょ!」
「見切られてんな、翔太。」
「あ、ああ。」
「ナッちゃんはどうするの?」
「私? 着るよ!・・・これの交換条件みたいだから。」
そう言うと、ナッちゃんは左手のリングを見せた。
「順平はそんな条件付けてプレゼントしたのか?」
「違うよ。僕はただナッちゃんが・・・」
「ん?」
俺が順平を見るとなんか耳が赤くなっている。
「ナッちゃんが・・・喜んでくれればと思ってサ・・・ハズい事言わせんなよ!」
「ゴチ!」
ナッちゃんと姉ちゃんと俺は満面の笑顔で順平を見詰めた。
「私達も晴れ着だよ!」と加代。
「マジ! スワイプ・イン・ドリームが?」
「悪いか?」
「いやいや、真逆。見てみたい。」
俺は明莉ちゃんと円ちゃんの振袖を想像した。そう言えば『加代ちゃん』の振袖も見た事が無い。
「翔ちゃん、なんか妄想してない?」と姉ちゃん。
「あ、少し。」
「もう!」
「なあ、元旦、どこかで会わないか?」と順平。
「それなら、話輪を予約してある。」と加代。
「おお、じゃあそこで会おう!」
「私もスワイプ・イン・ドリームの2人と話をしてみたいわ!」とナツ。
「じゃあ丁度良いじゃん。でも5人追加かぁ・・・」
そう言うと、加代はスマホを持って部屋を出て行った。加代がドアを開けた時、近くの部屋から『恋人はサンタクロース』を歌っているのが聴こえた。
「ねえ、サヤも振袖着たい!」
「そうだね~! もう少し大きくなったら着れるよ!」とナッちゃん。
「子供用は無いの?」
「あるよ。けど、今からはちょっと借りられないかもな。」と俺。
「じゃあぁ、買えば良いじゃん。」
彩香はそう言うと大きな瞳で俺を期待を込めて見詰めた。なんか可愛い。『よし、買ってやる。』と言いそうになった。
「サヤちゃんはすぐに大きくなるから買うの勿体ないでしょ!」と姉ちゃん。
「えぇ~! でもそっか。」と彩香。
「どうせ買うんなら、別の物の方が良くないか?」と俺。
「うん。そうする。」
「何が欲しいの?」とナッちゃん。
「う~ん、ポケットゲーム。」
「おっと、そう来たか!」と俺。
「へへへ!」
そこへ加代が帰って来た。嬉しそうな笑顔だ。
「オーケー、OK! 人数追加できた。」
「お、ラッキー! で何時?」と順平。
「12時。軽食ランチ込みって事で、お1人様1200円。きっとチョッポシよ!」
「その方が良いわ! 晴れ着だと食べられないから。」とナッちゃん。
「そうね。」と姉ちゃんも同意。
その時、入り口のドアが開いて、マスターお父さんがサンタの格好で入って来た。そう言えば、昼間、商店街にもサンタが数人居て、お菓子を配っていたが、その内の1人がマスターだったのかも知れない。
「メリー・クリスマス!」
皆が驚いてサンタさんを見詰めた。加代だけが満面の笑顔だった。
「この中にカワイイ彩香ちゃんは居るかい?」
彩香はかなり引き気味に小声で答えた。
「居るけど?」
その返事には当然だがサンタさんのワザトらしいツッコミだ。
「あれれれ~? サンタさんには良く聞こえないぞぉ~!」
姉ちゃんが彩香の背中を撫でる様にそっと押した。すると、彩香の覚悟が決まった。
「サヤはここに居るよぅ!」
「おお、そこか。どれどれ。」
マスター・サンタさんは白い髭を取れない程度にしごく様に撫でながら、彩香を覗き込むように見詰めた。
「確かに可愛いお嬢ちゃんだ!」
「うん。」
「彩香ちゃんは可愛くて良い子だからこれをあげよう。」
そう言うと、マスター・サンタさんは擦れて少し汚れが付いたサンタの袋から、実物大と言う程ではないが、結構大きくて白い子アザラシの縫い包みを取り出して彩香に差し出した。彩香はこの時サンタさんがマスターだと気が付いた様だった。
「わぁ~カワイイ! ありがとう小父さん!」
彩香はサンタさんに駆け寄ってそれを受け取った。するとマスター・サンタさんのツッコミだ。
「小父さんじゃ無いよぅ、サンタさんだよ。」
彩香はアザラシを抱きしめて、大きな瞳でマスター・サンタさんを見上げた。
「うん。ありがとうサンタさん。」
「どういたしまして!」
マスター・サンタさんは彩香の頭を撫でた。ついでに抱き上げようとした。だが、
「でも。恋人じゃぁ無いから!」
一瞬の沈黙があって、全員が爆笑した。
「彩香ちゃんには敵わないなあ!」
そう言ってマスター・サンタさんも苦笑した。彩香自身も爆笑している。ドヤ顔で。
「それじゃあ、メリークリスマス!」
『メリー・クリスマス!』
全員がハモった。マスター・サンタさんは手を振りながら後ずさりするようにして出て行った。
「加代、ありがとう。」
「ごめんね。父さんがどうしてもって言うから。」
「嬉しいよ。後でお礼言えなかったら、俺も喜んでたって伝えてくれ!」
「ああ。」
俺が加代を見ると加代も嬉しそうに微笑んでいた。久しぶりに加代の可愛い笑顔を真近で見た様な気がした。こうして、ナッちゃん、姉ちゃん、加代、明莉、そして円の5人の晴れ着を観賞する会が決まった。
その夜11時頃、俺は机に向かってスマホにイヤホンを刺して左耳でアニソンを聴きながら、明日から始まる冬期講習のパンフを読み返していた。そこへ姉ちゃんが軽くノックして入って来た。
「翔ちゃん、まだ寝てないよね。」
「うん。」
俺はてっきり『約束の儀式』だと思った。だが、姉ちゃんは俺の傍には来ないで、部屋の真ん中にクッションを抱えて座った。最近には無かったパターンだ。
「あ、それ読んでたの?」
「うん。」
俺はイヤホンを外して姉ちゃんの方に椅子を回した。
「明日は面談だから特別何も無いよね。」
「いやいや、明日の方が特別だと思う。」
「どうして?」
「主事さんっていう受験勉強の専門家との面談だから。」
「そっか。」
「聞きたい事をまとめとこうかと思ってね。」
「例えば?」
「まずは得意教科と不得意教科の定義とか。」
「翔ちゃんらしい質問ね。」
「そっかなあ?」
「得意教科って言えば、高得点が期待できる教科でしょ!」
「まあそうだけど、何点からが高得点なのかって所が曖昧じゃん。」
「そうよね。そう考えるのが翔ちゃんらしいわ!」
「俺、変?」
「ううん。極めて論理的な思考パターンだわ!」
「それはどうもありがとう。」
少し沈黙があった。
「終業式からこっち、忙しかったね。」
「そうだね。なんか、物凄く振り回されたような気がする。」
「でも、何とかなったわ! やっぱり翔ちゃんは凄いって思う。」
「俺は特別何もしてないのに、どんどん話が進んで、なんか巻き込まれちゃった。」
「それが凄いのよ。翔ちゃんだからそうなるんだわ!」
「そっか?」
また少し気まずい様な沈黙が流れた。そして、姉ちゃんが本題を切り出した。
「ねえ翔ちゃん、今日、帰りがけに加代ちゃんとどんな話したか聞いていい?」
「あ、ああ。」
俺はこれから姉ちゃんに嘘をつかなければならないかも知れない。そうしないと加代と姉ちゃんの信頼関係が壊れる様な気がするからだ。そう覚悟を決めた。・・・本当はこうだった。
**********
7時前に順平がナッちゃんを送って行ったのを切っ掛けにして、打ち上げが終わった。残った4人でしばらく話をしたが、それも話のネタが無くなって、彩香が生欠伸をしたので、俺達も帰る事にした。
「加代、今日はありがとう。俺達も帰るよ。マスターによろしく伝えてくれ!」
姉ちゃんと俺はギターとキーボードのソフトケースを背負った。そして、帰るって事を彩香に目で合図した。彩香は子アザラシを抱えた。
「待って! ねえ春香、少しの間で良いから翔ちゃんを貸してくれない?」
「良いよ。じゃあ先に降りてフロントで待ってる。」
「ありがとう、春香。」
「サヤちゃん、先に下に行ってよっか。」
「うん、良いよ!」
「ごめんね彩ちゃん。」
「良いよ! お兄ちゃん、貸してあげる。」
加代は彩香に微笑みかけて、
「ありがとう。」
姉ちゃんと彩香は俺と加代を206号室の前に残してエレベータに乗った。そしてドアが閉まった。姉ちゃんの表情が少し心配そうだった。加代と俺は206号室に戻った。
「翔太、私、翔太にちゃんとお礼を言って無かったよね。」
「何のお礼?」
「まずね、私を好きになってくれた事。」
「あ、ああ。」
「それから、嫌わないでくれた事。」
「1度好きになったら、そう簡単に嫌いにはなれないよ。」
「そこが翔ちゃんの良い所だね。」
「そっか?」
加代は俺に近付いて俺を見上げた。そして、
「キスしないか? 最後の。」
「・・・悪いけど出来ない。俺は・・・」
「うん、わかった。」
そう言うと、加代は伸び上がって俺に抱き着いて俺の左頬っぺにキスした。
「これで暫らくお別れだ!・・・でも私はずっと翔太が好きなことに変わりは無いから。」
「あ、ありがとう。嬉しいよ。」
加代は俺から離れた。そして、
「なあ、連絡票の事覚えてるか?」
「1年の時の?」
「うん。」
「俺、露骨にウザがられたよな。」
「違うんだ。あれ・・・嬉しかった。」
「マジ?」
「ああ、だからわざと提出しなかった。」
「なんで?」
「きっと来てくれると思った。それで・・・私の事を知って欲しかった。」
「ええぇ~そうだったのか!」
俺は加代の種明かしに驚いて加代を見詰めた。加代の両頬を涙が伝わった。
「あの時ね、あの時、私、運命みたいの感じたの。」
「そっか。ありがとう嬉しいよ。」
「ずっと黙ってたけど、最後にどうしてもこれを言いたかったの。」
「そっか。だけど、ごめん。俺はあの時、加代の事、苦手だと思った。」
「良いんだ。私もどうすれば良いのか判らなかったから意地悪になったかも知れない。」
「意地悪とは思わなかったけど。」
「私、あの後から人に優しくなれた様な気がするの。父さんとも。翔ちゃんのおかげよ!」
加代はそう言って俺を見上げた。ものすごく可愛いかった。俺は加代を緩く抱いた。
「加代、ごめんな。俺は・・・」
「わかってる。私の気持ちにこれでけじめがつくから。」
「そっか。」
俺は加代の額にキスをした。そして、少し見詰め合ってから握手をして、
「加代、タレント、頑張れよ!」
「うん。ありがとう。頑張る。」
加代の瞳から大粒の涙がしたたり落ちた。俺は206号室を出て、泣きながら微笑む加代を残してエレベータに乗った。
『下にまいります。』
そして・・・エレベータのドアが閉まった。
**********
「何の話だったの?」
「お別れをした。」
「もう好きじゃなくなったって事?」
「そうじゃ無いけど、加代はタレントになるからね。」
「私、加代ちゃんは翔ちゃんが今でも好きだと思うわ!」
「そうか?」
「そう感じるの。だって、親友の加代ちゃんの事だもの。」
「姉ちゃんには敵わないね。」
「そうよ。」
俺は立ち上がって姉ちゃんの傍に行き、正面に座った。そして覚悟を決めた。
「正直に言うよ。」
「うん。」
「加代も俺もお互いに好きだったって事、確認した。それも結構前から。」
「やっぱりそっか。」
「でも、ちゃんとお別れした。俺は、たぶん加代も、姉ちゃんの方が好きだから。」
姉ちゃんは俺を見詰めた。大きな瞳で俺の心の中を覗き込む様に。そしてその瞳から1筋の涙がこぼれた。
「ありがとう翔ちゃん! お帰りなさい。」
「うん。ただいま、姉ちゃん。」
姉ちゃんは俺を力いっぱい抱きしめた。俺も姉ちゃんを負けない位抱きしめた。
「ねえ、泊まって良い?」
「うん。」
その夜、姉ちゃんと俺は抱きしめ合って、1週間ぶりに並んで眠った。もちろん、例の儀式の後で。