2-8 順平が川に落ちた日(その2)~Mじゃない~
俺達は再び広い歩道がある東八道路に出て三鷹台団地方向に自転車を進めた。しかし、今度は無言でゆっくり自転車をこいだ。なんか3人共結構凹んでいた。女子にあんなにきっぱり叩かれた事がショックだったからだと思う。行きとは逆に、コープを過ぎたところで左に曲がって、家庭菜園の横を抜け団地まで来た。順平のほっぺたはまだ熱いらしい、時々押さえたりさすったりしている。児童館を通り過ぎて、玉川上水の彦兵衛橋まで来た時、順平は欄干に右足をかけて自転車を止めた。
「蝉取りの続きする? それとも解散する?」
「どっちでもいいよ!」
「じゃあ、ジャンケンで決めよう。」
「翔ちゃんが勝ったら蝉取りな!」
「オーケイ!」
「最初はグー、ジャンケン・・」
上体をねじってこっちを向いた順平が右腕を振り上げた時だ!
「ワああぁ・・・」
順平は足を滑らせて、一回転して自転車ごと川に落ちてしまった。俺とマサちゃんは大慌てで橋を渡って直ぐ右側に自転車を放り出して川に降りた。
「順平、どこだ?」
「順平、順平。大丈夫か?」
「ひぃたい。痛い・・イタイ!」
順平は、足が川に半分入っているが、体は土手にもたれかかっている。苦しそうだ。自転車は直ぐ上の木の枝に引っかかって今にも順平の上に落ちそうだ。俺は順平の傍に這って行って、
「大丈夫か?」
「ム、胸を打ったみたいだ。苦しくて声が出なかったけど、今はなんとか大丈夫。」
「立てるか?」
俺は順平を起こそうとして肩に手を掛けた。
「痛っ!。だめだ。痛くて手が動かない。」
「わかった。動くな!」
マサちゃんは自転車が落ちてこないか気にしている。
「翔太、自転車が落ちそうだ。」
「わかった。下そう。」
マサちゃんと俺は自転車を順平から離れるように引っ張って川の土手に下した。引っかかっていた木の枝がパキパキと折れた。それからまた順平の傍に行って、
「どう?、順平まだ痛いか?」
「ダメだ。動けない。ますます痛くなってきた。」
「わかった。大人の人を呼んでくる。」
俺は土手を這い上がりながら。
「マサちゃん、順平の傍に居てくれ!」
「わかった。」
俺は大人の人に助けてもらおうとして橋の上に走り出た。ちょうどその時、自転車に乗ったお兄さんが通りかかった。
「すみません。助けてください。」
「どうした? 泥だらけじゃないか!」
「友達が川に落ちて怪我をしているみたいなんです。」
「どこ?」
「あそこです。」
お兄さんは橋の上から身を乗り出して下を見た。
「ああ本当だ。2人共か?」
「いえ、1人です。」
「おーい。大丈夫か?動けるか?」
「ダメです。とても痛がっていて、動けないです。」
「そうか。わかった。救急車を呼ぼう。」
そう言って、お兄さんは携帯で救急車を呼んでくれた。
「順平、マサちゃん。俺、順平のお母さんを呼んでくる。」
「わかった。頼む。」とマサちゃんが言った。
俺は自転車で順平の家に急いだ。必死だった。たぶん、5分もかからなかったと思うが、順平の小母さんに会えた。俺はどう説明したか覚えてないが、順平がただ事でない事は伝わったと思う。
「それで、何処なの?」
「彦兵衛橋です。」
「わかった。」
俺と小母さんが彦兵衛橋に向かっていると、遠くから救急車の『ピーポーパーポー』と消防車のサイレンが近づいて来るのが聞こえた。小母さんと俺が彦兵衛橋に到着すると、南の広い道路から赤いワゴン車がサイレンを鳴らし、その後ろから救急車が続いて曲がってきた。橋の上には既に五人くらいの大人が居た。しかし、川に降りている人は居なかった。皆橋から身を乗り出して下を見ていた。
赤いワゴン車からレスキューの小父さんたちが出てきて、順平を担架に縛って橋の上に引き上げるまでに10分位だった。それから暫くして順平と小母さんは救急車に乗って病院に向かった。そして現場には、順平の自転車が土手の斜面、小母さんのママチャリと俺達の自転車が川沿いの道、それから、泥だらけのマサちゃんと泥だらけの俺が放置された。
2人の放心状態が解けた。玉川上水にはいつもの小鳥のさえずりと葉擦れの音と蝉しぐれが戻ってきていた。
「翔ちゃん、これからどうしよう?」
「自転車を順平の家に持って行こうか。」
「そうだね。」
その時、白い自転車のお巡りさんに声を掛けられた。お巡りさんはたぶん『警察手帳』を広げ、
「君たちはさっきここで怪我をした子供の友達かい?」
「はい。同級生です。」
「じゃあ、君が伊藤君?」
「いえ、違います。中西です。」
「じゃあ君が伊藤君だね。」
「はい、そうです。」
「怪我をしたのは高野君だね。」
「そうです。」
「君たちは一緒にここで遊んでたの?」
「いいえ、市役所から一緒に帰って来ました。」
「カブトムシ展です。」
「そうか。」
「君は、中西君だったね。じゃあ、どうして高野君が川に落ちたの?」
「ここまで帰って来て、自転車に乗っていて、橋の欄干に足をかけて止まって、ジャンケンしようとした時に滑ったんです。」
「なんでジャンケンしたのかな?」
「帰るか蝉取りをするか、ジャンケンで決めようと思ったんです。」
「そうか。わかった。今日はもう帰りなさい。」
「はい。」
お巡りさんが去った後、俺とマサちゃんは自分たちの自転車に鍵をかけ、泥だらけになった順平の自転車を土手から道に引っ張り出した。2人共息が切れた。しばらく休んで、そして、俺がその泥だらけの順平の自転車を、マサちゃんが小母さんのママチャリを順平の家に持って行った。実は、ママチャリには鍵がかかっていて、マサちゃんはずっと後輪を持ち上げながら歩いた。重かったと思う。順平の家に着くと順平の弟が不安そうに待っていて、その弟に言われた場所に自転車を置いた。そして、弟に順平と小母さんが救急車で病院に向かったことを話した後、俺達は順平の家からまた彦兵衛橋に戻ってきた。途中すれ違う人たちがなぜか俺達を避けているのがわかった。
「マサちゃん。大変な事になったけど、今日はこれで解散だね。」
「そうだね。順平の怪我心配だけど。」
「レスキューの小父さんは大した事ないみたいに言ってたから、きっと大丈夫だよ。」
「そうだよね。落ちたところが柔らかかったって言ってたし。」
「でも、お巡りさんも手伝ってくれればいいのにね。」
「だよね。」
「言えば手伝ってくれたかなあ?」
「どうだろう。服が泥だらけになるの嫌なんじゃない?」
「だね。俺達すごいことになってる。」
「ほんとだ。」
「それじゃまた。」
「うん。それじゃあ。」
家に帰ったら、もう6時前だった。三鷹台の駅前のお店で夕食のちらし寿司を買うのをすっかり忘れた。俺はシャワーを浴びて着替えをしてリビングのソファーに寝転がった。そして眠ってしまったらしい。
・・・・・
「おい。翔太。大丈夫か?」
親父の声で目が覚めた。
「どうしたこれは?。何があったんだ?」
親父は家の中に点々とついた泥の足跡と脱ぎ捨てられた泥まみれの俺の服を見て驚いている。
「ああ、順平が玉川上水に落ちて、救急車で病院に行った。」
かなり省略した説明になった。
「お前も落ちたのか?」
「いや。助けに川に降りたんで、泥だらけになった。」
「そうか。助けたのか。」
「それが、助けられなくて、大人のお兄さんに救急車を呼んでもらった。」
「そうか。順平君は大丈夫だったのか?」
「たぶん。救急隊の小父さんが大した事ないって。」
「そうか。・・・ご飯はどうした?」
「まだ。」
「じゃあ、何か取ろう。」
「俺、掃除する。」
「ああ、そうしてくれ。」
俺はバケツに水を入れ、雑巾で泥の足跡を拭いて回った。親父は俺の泥だらけの服の始末をした。しばらくして、かつ丼が届いた。久しぶりに食べた。美味かった。
その夜の十時ごろ順平のお母さんから電話があった。親父が話をしていたが、じきに俺に代わった。俺は小母さんに怒られると思った。
「もしもし。」
「翔太君?今日はありがとうね。鎖骨にひびが入ったらしいけど、心配ないから。」
「そうですか。良かった。でもすごく痛かったみたいです。」
「きっと、びっくりしたのね。」
「でもしばらく遊べないですよね。」
「そうね。仕方がないわね。」
「早く治って欲しいです。」
「そうそう、救急隊の人が、『無理に動かさなかったのが良かった』って言ってたわよ。」
動かさなかったのではなくて、力が無くて動かせなかったのだ。
「翔ちゃんたちがテキパキしてくれたって順平も言ってたわ。ありがとうね。」
「いいえ、何もできなくて、ごめんなさい。」
「そんな事ないわ。退院したらまた遊んでね。」
「はい。」
「それじゃ、おやすみ。」
「おやすみなさい。」
・・・・・
一週間ほどした日の昼過ぎ
「翔ちゃん、遊ぼう」
いつもの順平の声がした。走って表に出ると、左手を吊った順平が居た。マサちゃんも一緒だ。俺達は歩いて井の頭公園に向かった。
「もう痛くない?」
「ああ、骨は痛くない。」
「えぇ?他に痛いところがあるの?」
「笑うなよ!」
「うん」
「ほっぺたが痛いことがあるんだ。あいつの顔が浮かんで。」
「あいつって・・・あの時の牟礼小の女子?」
「ああ、気に入らねえ。」
マサちゃんがニヤッとして、
「僕は逆だと思うぜ!」
「何だよそれ!」
「順平はあいつが好きになったんじゃないか?」
「な訳ないだろ!」
「へーぇ。」
俺はマサちゃんの説に同意して、マサちゃんと顔を見合わせた。
井の頭公園は蝉時雨に包まれていた。初めからここに来ていれば、順平も怪我しなくて済んだかもと思った。けど、女子に本気でビンタされる順平が見られたので、やっぱ、あの日の事は、あの瞬間を絵日記に書きたいくらいだ。少しだけど、俺も女子にビンタされてみたいかもと思った。順平がほんの少し羨ましかった。ほんの少しだ。俺は断じてMじゃない。